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幻想白夜のサーカステントで、君と秘密の恋宙ブランコ ~王立国庫査察官に溺愛される、優雅で甘い月夜の巡業~  作者: 団田図


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第19話 ピンクの炎と冷たい銀

 スパーダの大きな外套がいとうに包まれたアリシアは、布地から漂う爽やかな石鹸せっけんの香りに小さく息を吸い込んだ。


 誰もいない静まり返ったステージテント。しかしその分厚い天幕の向こうからは、阿修羅族あしゅらぞくのバジュラたちが開いている賑やかなジャグリングのうたげの音が、夜風に乗ってかすかに聞こえてくる。六本の腕から放たれる刃物はものが空気を切る音や、ドワッハッハというゴルダンの豪快な笑い声。水都シアンの大成功を祝う彼らの熱気は、離れたこの場所にも確かな温もりとして伝わってきた。


「……さわがしい連中だ。せっかくの祝賀会だというのに、あれでは体を休めることもできないだろう」


 スパーダは呆れたようにつぶやいたが、その声には以前のような冷たいとげはなかった。


「ふふっ。でも、あの騒がしさが、私たちのサーカスなんです」


 アリシアは外套の襟元をギュッと握りしめ、月明かりに照らされた無人の観客席を見渡した。


「父が亡くなってから、私、本当にこの大きなサーカスを守れるのかずっと不安でした。でも……スパーダさんが来てくれて、正しい道を教えてくれて、みんなの笑顔がまた戻ってきた。外から聞こえるあの笑い声を聞いていると、私、心から思うんです。……このサーカスが、みんなの居場所が、本当に大切なんだって」


 アリシアの真っ直ぐな言葉に、スパーダは静かに目を伏せた。


 孤児として過酷な環境で育ち、生きるために感情を殺してきた彼にとって、「帰る場所」や「心を通わせる家族」という概念は無縁のものだった。しかし、マグダの温かい料理を食べ、不器用ながらも自分を家族として受け入れようとする団員たちと過ごすうちに、彼の凍てついた心は確実に溶け始めていた。


「……そうだな。計算外ばかりの非効率な烏合うごうの衆だが……悪くない」


 スパーダの口からこぼれたのは、紛れもない彼自身の本音だった。彼もまた、この騒がしくて温かいサーカスを大切に思い始めている自分を、もう否定できなかったのだ。


 その時だった。


 ポォッ……と、テントの片隅で柔らかな光が灯った。


「えっ……?」


 見ると、アリシアの感情にリンクする炎の精霊イグニスが、いつの間にかランタンの中で揺れていた。アリシアの胸の奥で高鳴る甘い鼓動を正確に読み取ったイグニスは、温かいオレンジ色から、見る見るうちに最高にロマンチックなピンク色へと変化し、薄暗い夜のテントの中を甘く照らし出したのだ。


「い、イグニス!? どうしてついてきちゃったの……っ」


 顔を火のように真っ赤にして慌てるアリシア。しかし、スパーダはピンク色の光に照らされた彼女から、もう目をらすことができなかった。


 誰もいない夜のテント。外の喧騒けんそうから切り離された二人きりの空間で、二人の距離が急接近する。

 スパーダは一歩踏み出し、アリシアの真っ直ぐな瞳を見つめ返した。お互いに完全に心を許し、甘く張り詰めた空気が二人の間に流れる。


「スパーダ、さん……」


 見上げるアリシアの瞳は潤み、その声は微かに震えていた。

 スパーダは無言のままゆっくりと手を伸ばし、彼女の頬にかかる柔らかな髪を、壊れ物に触れるように優しく撫でた。ごつごつとした大きな手が、ひどく熱い。


「……君は、可憐で素敵な舞姫だ」


 低くかすれた声が耳元に落ちる。スパーダの端正な顔が、ゆっくりとアリシアへと近づいていく。

 アリシアは抵抗することなく、そっと目を閉じた。二人の間に流れる甘い空気が、最高潮に達しようとしていた。


 ――カチャンッ。


 その瞬間、静まり返ったテントの床に、場違いな金属音が鋭く響いた。

 ビクッと肩を震わせ、二人の動きがピタリと止まる。


「え……?」


 アリシアが足元に視線を落とす。

 スパーダが顔を近づけようと身を乗り出した反動で、アリシアの肩に掛けられていた彼の外套の裏ポケットから、重たい金属の塊が滑り落ちたのだ。


 それは、銀色に冷たく光る、重厚な装飾が施された見慣れないバッジだった。

 アリシアは不思議に思い、外套の裾から手を伸ばしてそのバッジを拾い上げた。月明かりとピンク色の照明の下で、そこに刻まれた威圧的な紋章と文字がはっきりと浮かび上がる。


『王立隠密衛兵隊』


「おうりつ、おんみつ……えいへいたい?」


 アリシアの口から、疑問符のついた声がこぼれた。国庫管理局の徴税査察官であるはずの彼が、なぜ国を脅かす重罪や裏社会の調査を担う「隠密衛兵隊」のバッジを持っているのか。


 たった一瞬で、先ほどまでの甘い空気が凍りついたように冷え込む。

 ハッとして顔を上げたスパーダの表情から、あの優しく甘い熱が完全に消え失せていた。彼は無言のまま、鋭く冷徹な、本来の「潜入捜査官」としての仮面を被り直している。


 その氷のような瞳を見た瞬間、アリシアの胸の奥で、嫌な予感が黒い染みのように広がっていった。

 ただの文官とは思えない卓越した反射神経。夜更けに行っていた不審な単独行動。そして、決して自分たちと馴れ合おうとしなかった、彼が引いていた「一線」。


「スパーダさん……これ、どういうことですか?」


 震える手で王立隠密衛兵隊のバッジを握りしめ、アリシアはゆっくりと後ずさった。


「あなたは……本当は、何者なんですか?」


 アリシアの悲痛な疑念の声だけが、静かな夜のテントにむなしく響き渡る。

 スパーダは手の中のバッジを見つめたまま、何も答えることはできなかった。

 二人の間に生まれたばかりの温かい空気に、決定的な亀裂が走った瞬間だった。


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