第18話 見えた光と涙の抱擁
水都シアンの澄んだ夜空に、弾けるような笑い声と陽気な手拍子が吸い込まれていく。
大盛況のうちに幕を下ろした『エトワール・メモリア』の初日公演。その興奮と熱狂は、舞台から巨大テントの裏手へと場所を移し、盛大な祝賀会となって燃え上がっていた。
「そらそらそらっ! 水都の夜はまだまだこれからだぞ! もっと笑え、もっと飲め!」
広場の中央で誰よりも大きな声を上げているのは、阿修羅族のバジュラだった。彼は六本の腕を風車のように回転させ、燃え盛る松明と鋭い短剣を同時に数十個も空中へ放り投げている。『千手乱舞の宴』の二つ名通り、彼のジャグリングは祝賀会の席でも一切の妥協がなく、見る者の目を釘付けにしていた。
「うおぉっ! すげえなバジュラ! だが俺のバランス感覚も負けちゃいねえぞ!」
「ドワッハッハ! なら俺は竜の炎で肉を炙ってやる!」
ケンタウロスのバルガスが酒樽の上で逆立ちを始め、竜人のゴルダンが豪快に笑いながら相棒の火竜に指示を出す。その横では、ゴブリンのジグが魔導ホイールのエンジンを空ぶかしして奇声を上げ、猫獣人のチャイが身軽に飛び回っては団員たちの酒をかすめ取っていた。
ドワーフの料理長マグダが魔法の樽から次々と注ぎ出す強いエール酒が、彼らの理性を心地よく溶かし、場はお祭り騒ぎの様相を呈している。
アリシアは、そんな騒がしくも温かい「家族」の姿を、少し離れた長椅子の端から見つめていた。
水面を思わせる青と緑の幻想的な照明。そして水都特産の透明なガラス細工が無数に縫い付けられた衣装は、今は夜風に揺れて微かな音を立てている。極度の緊張から解放された彼女の体は羽のように軽く、同時に心地よい疲労感に包まれていた。
(よかった……本当に、大成功だった)
胸を撫で下ろして微笑んだ、その時。
「……今日は、本当によくやってくれた」
不意に頭上から降ってきた低く落ち着いた声に、アリシアはビクッと肩を震わせた。
見上げると、そこには黒シャツ姿のスパーダが立っていた。先ほどまでバルガスたちと腕相撲で激しく張り合い、子供のようにむきになっていた彼だ。その端正な顔にはマグダの強いエール酒のせいか、ほんのりと赤みがさしており、いつも氷のように冷たい瞳も、今は水面に揺れる月光のようにどこか柔らかく潤んでいるように見えた。
「スパーダさん……。みんなが楽しそうにしているのを見ていたら、なんだか胸がいっぱいになっちゃって」
「……君も団長なら、輪の中心で酒でも飲んだらいい」
口では素っ気なく言いながらも、スパーダはアリシアの隣に腰を下ろした。彼から漂う、爽やかな石鹸の香りと、微かなアルコールの匂い。そして、いつもより少しだけ高い体温が、夜風に乗ってアリシアの頬を撫でる。
「私、お酒はあまり強くないんです。それに……今は少しだけ、静かなところに行きたいかも」
アリシアがふと漏らした本音に、スパーダは何も言わず、ただ静かに立ち上がった。
そして、アリシアに向かってスッと大きな右手を差し出した。
「え……?」
「……少し、顔を貸せ。話がある」
それは命令というよりも、どこか不器用な誘いだった。アリシアが戸惑いながらもその手をとると、スパーダは彼女の手を優しく、しかし決して逃がさないような力強さで引き寄せた。
二人は、バジュラたちが騒ぐ喧騒に背を向け、こっそりと祝賀会の輪から抜け出した。
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スパーダに手を引かれて辿り着いたのは、今日の公演を終えたばかりの、誰もいない巨大なステージテントの中だった。
厚い天幕をくぐった瞬間、先ほどまでの熱狂的なお祭り騒ぎが、まるで遠い世界の出来事のようにくぐもって聞こえるようになった。バジュラの大きな笑い声も、火竜の低い唸り声も、厚い布の壁に遮られ、心地よい背景音《BGM》のように静かに響いている。
外の「動」の空間とは対極にある、完全なる「静」の世界。
テントの中は魔石のランプもほとんどが落とされ、天幕の隙間から差し込む青白い月明かりだけが、誰もいない舞台と交差する命綱を神秘的に照らし出していた。
「ついさっきまで、大勢の人が熱狂していた場所とはとても思えないほど静かだ」
スパーダは繋いでいた手をゆっくり離すと、自身の漆黒の外套を無造作に近くの木箱の上に置いた。
「スパーダさん、話って……なんでしょうか。もしかして、今日の公演で何か計算に合わない無駄遣いがありましたか?」
アリシアが不安げに見上げると、スパーダは小さく息を吐き出し、内ポケットから丁寧に折りたたまれた数枚の書類を取り出した。それは、彼が常に持ち歩いている、このサーカスの命運を握る分厚い帳簿の一部だった。
「逆だ」
「えっ?」
「今日の水都シアンでの利益だ。確認しろ」
スパーダから書類を受け取ったアリシアは、月明かりを頼りにそこに書かれた数字を追った。
綺麗に整頓された数字の羅列。一番下に弾き出された『純利益』の項目を見た瞬間、アリシアは信じられないものを見るように何度も瞬きを繰り返した。
「う、嘘……これ、ルベルの時のさらに倍以上……!?」
「驚くことじゃない。お前たちが提案した水都特化型の演出が、客層の嗜好と完璧に合致した結果だ。それに、無駄な経費を削り、機材の耐久性を上げたことで、トラブルによる損失もゼロに抑えられた」
スパーダは淡々と事実だけを述べるが、その声には確かな称賛の色が滲んでいた。
「アリシア。このペースで客を呼ぶことができれば……」
スパーダは一歩、アリシアへと近づいた。月明かりに照らされた彼の横顔は、いつになく真剣だった。
「王都公演で、確実に全額を完済できる。滞納している興行税を」
その言葉が意味するものは、ただ一つ。
大切なテントも、一緒に暮らす魔獣たちも、誰一人欠けることなく、このサーカス団を守り抜くことができるという確かな希望だった。
「本当、ですか……? もう、サーカスを解散しなくて、いい……?」
「俺の計算に狂いはない。君は立派に、このサーカスを立て直してみせた」
アリシアの瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
亡き父の跡を継ぎ、経営難という重圧に一人で押し潰されそうになっていた日々。毎晩、暗い控室で使い込まれた帳簿と睨み合い、絶望的な数字に泣きそうになっていたあの頃の痛みが、彼の言葉によって完全に浄化されていく。
「スパーダさん……っ!」
感情の高ぶりに抗えず、アリシアは書類を持ったまま、思わずスパーダの胸元に飛び込んだ。
彼が着ている黒シャツの布地をギュッと握りしめ、安堵の涙を流す。普段ならば「気安く触るな」と冷たく突き放すはずの彼だったが、今は違った。
スパーダはほんの少しだけ戸惑うように宙を彷徨わせた両手を、やがてゆっくりと下ろし、アリシアの華奢な背中を、壊れ物に触れるような優しい手つきでポンポンと軽く叩いた。
「……よくやった。本当に君は、よく頑張った」
耳元で囁かれるその低く甘い声が、アリシアの心をさらに溶かしていく。
遠くから、ドワッハッハというバジュラたちの楽しげな笑い声が聞こえる。この温かくて騒がしい家族を、これからもずっと守っていける。そして何より、一人で戦ってきた自分の隣に、今は彼がいてくれる。
夜風がテントの隙間から吹き込み、アリシアの細い肩がふっと震えた。
それに気づいたスパーダは、アリシアからそっと体を離すと、先ほど木箱の上に置いた自身の漆黒の外套を手に取った。
「冷えるな。汗をかいたまま風邪を引かれては、明日の公演に支障が出る」
言い訳のようにそう呟きながら、スパーダはアリシアの小さな肩に、自分の大きな外套をふわりと掛けた。




