第17話 腕相撲の夜
大盛況の舞台が幕を下ろし、巨大テントの裏手では、すぐさま公演成功の祝賀会が始まっていた。
ドワーフの料理長マグダが用意した大樽の酒が振る舞われ、興奮冷めやらぬ団員たちがジョッキを片手に歌い、踊っている。
その熱騒ぎの中心から少し離れた場所で、アリシアは心地よい疲労感と共に大きく息を吐き出していた。
ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた柱の陰から、黒シャツ姿のスパーダがこちらを見つめていた。
普段の氷のように冷たい査察官の眼差しではない。それは、無事に舞台を終えた彼女を労うような、ひどく優しくて甘い、特別な視線だった。
ドクン、とアリシアの胸が鳴る。先ほどの完璧なトラブル回避といい、今の優しすぎる瞳といい、彼の存在がアリシアの中でどんどん大きくなっていくのがわかる。
アリシアが彼に駆け寄ろうと一歩を踏み出した、その時だった。
「おい、役人」
スパーダの前に、分厚い壁のような二つの影がドスンと立ち塞がった。
ケンタウロスのバルガスと、竜人のゴルダンである。彼らは腕を組み、スパーダを上からねめつけるように見下ろしていた。
「なんだ、お前たち。俺は今、機材の最終チェックを……」
「誤魔化すな。俺たちの目はだませねえぞ」
ゴルダンが低い声で唸る。
「さっきから、うちの若き団長に向けて随分と熱い視線を送っていたじゃねえか。その特別な眼差し、俺たちにはお見通しだ」。
バルガスも蹄を高く鳴らし、スパーダに鼻先を近づけた。
「いいか、お嬢は亡き先代の忘れ形見であり、俺たちの大切な家族だ。いくら仕事ができるエリート官僚様だろうが、どこの馬の骨とも知れねえ男に、おいそれと近づかせるわけにはいかねえんだよ!」
彼らは、スパーダを「男としての品定め」のために強引に囲み込んだのだ。
「……くだらん。俺はただの国庫管理局の査察官だ。監視対象を観察するのは業務の一環に過ぎない」
スパーダは表情一つ変えずに冷たくあしらおうとしたが、ゴルダンがドンッと巨大な木樽のテーブルに、なみなみと注がれたドワーフ特製の強いエール酒を三つ置いた。
「御託はいい! 男の価値は、頭の良さや計算じゃ測れねえ。腕力と酒の強さだ! 俺たちと飲み比べと力比べをして、最後まで立っていた奴の言葉だけを聞いてやる!」
「非効率極まりない。辞退する」
踵を返そうとするスパーダ。しかし、バルガスがニヤリと笑って挑発した。
「なんだ、お堅い役人は酒の一杯も飲めねえのか? 口先だけで、いざとなれば逃げ出すような男に、うちの団長の背中は任せられねえな」
その言葉に、スパーダの足がピタリと止まった。
振り返った彼の瞳には、これまでの冷徹な理性を焼き切るような、静かだが凶暴な負けん気の炎が灯っていた。孤児として過酷な環境で育ち、裏社会にも通じる頭脳と高い戦闘力で生き抜いてきた彼の、男としてのプライドが刺激された瞬間だった。
「……言ったな、馬ずらをかかせてやる。後悔するなよ」
スパーダは歩み寄ると、ドンッ!と音を立てて木樽のテーブルに両肘を突き、腕相撲の構えをとった。
「望み通り、相手になってやる。まとめてかかってこい」
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「うおおおおっ! 負けるかぁぁぁっ!」
「ふんっ……! 無駄な抵抗だ、馬鹿力だけが取り柄の筋肉ダルマめ!」
テントの裏手に、怒号と歓声が響き渡る。
アリシアが目を丸くして見つめる先には、普段は冷静沈着で隙のないスパーダが、額に青筋を立てながらバルガスと腕相撲で激しく張り合っている姿があった。
彼の黒シャツの胸元は大きくはだけ、端正な顔はマグダの強いエール酒のせいでほんのりと赤く染まっている。
「ほれほれ、役人! 口の減らねえ奴だ、もっと飲め!」
ゴルダンが笑いながらスパーダのジョッキに酒を注ぐと、スパーダは「俺が負けるはずがないだろうが!」とむきになってそれを一気に飲み干し、再びバルガスの腕を力任せに押し込もうとする。
「ス、スパーダさん……?」
アリシアは、その光景を少し離れた場所から信じられない思いで見つめていた。
いつも氷のように冷たく、無駄を嫌い、効率だけを口にするあの彼が。団員たちのペースに完全に巻き込まれ、大口を開けて言い争い、少し酔っ払って子供のようにむきになって張り合っているのだ。
「おい、ゴブリン! さっきからちょろちょろと視界に入るな、邪魔だ!」
「ひゃはは! 査察官の旦那、酔っ払うとさらに柄が悪くなるじゃねえか!」
特攻隊長のジグにまで悪態をつきながら、スパーダはついにバルガスの腕を木樽にドンッ!と叩きつけた。
「どうだ……! 俺の勝ちだ、文句はないな!」
肩で息をしながら、勝ち誇ったように笑うスパーダ。その顔には、これまで見せたことのない「年相応の素顔」がはっきりと浮かんでいた。
ただの冷徹な査察官でもなく、闇を抱えた謎の男でもない。三十二歳という年齢の、少し意地っ張りで、負けず嫌いで、仲間たちとバカ騒ぎを楽しむ、一人の不器用な青年の顔だった。
ドクン、とアリシアの心臓が、今までで一番大きな音を立てて跳ねた。
完璧で隙のない彼が、自分たち「家族」の前でだけ見せてくれた、人間くさくて愛おしい姿。その強烈なギャップに、アリシアは雷に打たれたように目を奪われてしまった。
(……ずるいよ。あんな顔、するなんて)
顔が火のように熱くなるのを感じて、アリシアは両手で自分の頬をギュッと押さえた。アリシアが彼にギャップ萌えする、決定的な瞬間だった。
「アリシアちゃん、顔が真っ赤だにゃー」
いつの間にか頭上の梁に登っていた猫獣人のチャイが、ニヤニヤと笑いながら見下ろしている。
「ち、違うのチャイ! これは、その、祝賀会の熱気で……!」
「はいはい、そういうことにしておくわ。でも、あの役人の旦那、案外可愛いところあるじゃないの」
スライムのシルヴィも隣に並び、楽しそうに笑った。
木樽の周りでは、腕相撲に負けたバルガスが「もう一回だ!」と騒ぎ、ゴルダンが「ドワッハッハ! 役人の勝ちだ、こりゃ見どころがあるぜ!」とスパーダの背中をバンバンと力強く叩いている。
スパーダは「痛いだろうが、加減をしろ!」と文句を言いながらも、その口元には決して不快ではない、柔らかな笑みがこぼれていた。
月明かりに照らされた水都シアンの夜。
大盛況の舞台の余韻と、騒がしくも温かい祝賀会の空気の中で。
アリシアは、顔を赤らめて団員たちと笑い合うスパーダの姿から、もう一秒たりとも目を離すことができなくなっていた。二人の心の距離が、また一つ、甘く大きく縮まった夜だった。




