第16話 水底の幻と空舞う女神
豊かな水を湛える運河沿いの広場に設営された、巨大なサーカステント。
水都シアンでの『エトワール・メモリア』初日公演は、開演前から異様な熱気に包まれていた。先遣隊であるエルフのラットリアが街中に撒いた「水都限定の特別ショー」という触れ込みと、スパーダの計算し尽くされた緻密な客引き戦略が見事に噛み合い、客席は立ち見が出るほどの超満員となっていた。
「さあ、幻想と白夜の水底へようこそ!」
テントの入り口でガーゴイルのゲオルグが高らかに宣言すると同時、場内の明かりがふっと落とされた。
どよめきが静寂に変わった瞬間。頭上のランタンに宿る炎の精霊、イグニスがパッと弾けた。だが、いつもテントを照らす温かいオレンジ色の光ではない。それは深い海を思わせるサファイアブルーと、水面に反射する太陽のようなエメラルドグリーンが複雑に混ざり合った、極めて幻想的で神秘的な光だった。
光が舞台中央を照らし出すと、そこには猛獣使いの竜人ゴルダンと、見上げるほど巨大な火竜が鎮座していた。
「いけっ、相棒!」
ゴルダンが指を鳴らすと、火竜は大きく息を吸い込み、舞台に用意されていた巨大な水盤に向かって、熱を極限まで抑えた『温かい炎』を吐き出した。ジュワッ!という音と共に水が一気に蒸発し、濃密な白い霧となって舞台一面に広がる。
青と緑の照明に照らされたその霧は、まるで本物の水底に迷い込んだかのような錯覚を観客に与えた。
「うにゃははっ! 上も見てにゃー!」
頭上から声が降り注ぎ、観客が一斉に見上げる。そこには、新しく修理された巨大トランポリンを使って、弾丸のように空高く舞い上がる猫獣人のチャイの姿があった。
スライムのシルヴィが徹夜で仕立て上げた衣装には、水都特産の透明なガラス細工が無数に縫い付けられている。チャイが宙で捻りを加えるたび、ガラス細工が青緑の光を乱反射し、まるで人魚の鱗が水中で煌めいているような圧倒的な美しさを放った。
「す、すごい……綺麗だ……!」
客席から感嘆の吐息が漏れる。
その幻想的な空間を切り裂くように、今度はゴブリンのジグが駆る魔導ホイールが、轟音を響かせながら鉄格子の球体ドームの中を走り回る。霧を巻き上げながら疾走するその姿は、荒れ狂う水流を泳ぐ海竜のようだった。
さらに、ケンタウロスのバルガスが水の入った不安定な樽の上で見事なバランス芸を披露し、阿修羅族のバジュラが六本の腕で青く光る球体を次々とお手玉にする。
団員たちが一丸となって作り上げる、水都の美意識に寄り添った至高のエンターテインメント。
息の合った連携技と、これまでの巡業にはなかった新しい演出の数々に、観客の熱狂は早くも最高潮に達しようとしていた。
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熱気渦巻く舞台の裏側。
漆黒の外套を脱ぎ捨て、裏方用の動きやすい黒シャツ姿になったスパーダは、腕を組んで機材の挙動を冷徹な瞳で監視していた。
表向きは「査察対象の資産が損なわれないための監視」だ。しかし、彼の視線は舞台の上で懸命に舞う団員たち、そしてプラットフォームの上で出番を待つアリシアの姿を、決して逃すことなく追い続けていた。
(……見事なものだ)
スパーダは心中で静かに感嘆していた。自分が提示した無機質な予算と数字の枠組みの中で、彼女たちはこれほどまでに美しく、人々の心を打つ芸術空間を作り上げてみせた。
だが、その時。
スパーダの研ぎ澄まされた聴覚が、観客の巨大な歓声に紛れた、微かな『異音』を捉えた。
――ギィ、ヂッ……。
視線を鋭く頭上に走らせる。
テントの天井付近、アリシアがこれから使う空中ブランコの予備バーを吊るしている滑車の根元だ。水都特有の湿気と、火竜が作り出した霧の水分を急激に吸い込んだせいで、古い固定具の革ベルトが限界を迎え、千切れかけていたのだ。
(落ちる……!)
重量のある金属製の滑車とバー。あんなものが今のタイミングで落下すれば、舞台で踊る団員たちを直撃するか、最悪の場合、最前列の観客席に飛び込んでしまう。ショーは台無しになり、大惨事になる。
スパーダの体が、思考よりも早く動いた。
隠し続ける本業や裏社会で培った、常人離れした異常な身体能力。彼は足音一つ立てずに舞台袖の鉄柱を駆け上がると同時、眼下に控えていたちびゴーレムのリーダー、Aゴレと鋭く視線を交わした。
言葉は一切不要だった。
スパーダが空中で指を二本立てて振り下ろす手信号を送った瞬間。Aゴレはコトッと石の体を鳴らし、他のちびゴーレムたちを引き連れて即座に舞台裏のウインチへと群がった。彼らは驚異的な怪力で一斉にロープを引き絞り、落下地点の真下に安全ネットの代わりとなる分厚い天幕の端をピンと張り詰める。
――ブツンッ!
完全に革ベルトが千切れ、巨大な滑車が落下を始めた。
その直下には、妖艶な軟体ダンスを披露している蛇半身のメルーラがいる。彼女は頭上の危機に全く気づいていない。
「……っ!」
スパーダは鉄柱から身を投げ出し、空中で落下する滑車の軌道へと見事に割り込んだ。落下物の重量を真正面から受け止めるのではなく、自身の体を回転させながら滑車を蹴り上げ、軌道をずらす。
ズレた滑車は、ちびゴーレムたちが寸分の狂いもなく張り詰めていた天幕の上へと音もなく落下し、安全に回収された。
一方、空中に投げ出されたスパーダは、重力に逆らうようにテントの梁を掴み、反動を利用して軽やかに宙返りを打った。
青と緑の幻想的な照明の中、黒子のスパーダが音もなく宙を舞い、柱の陰へと着地するその一連の動きは、あまりにも洗練され、無駄のない美しい軌跡を描いていた。
「おおおおっ!!」
観客席から、割れんばかりの大歓声が巻き起こった。
観客たちには、機材の落下という致命的なトラブルなど一切見えていなかった。突如として空から現れた黒衣の男が、影のように宙を舞って消えたその姿を、ショーの一部である「計算された見事なアクロバット演出」だと勘違いしたのだ。
(……馬鹿騒ぎしやがって。寿命が縮むかと思ったぞ)
舞台袖の暗がりに着地したスパーダは、小さく息を吐き出しながら前髪をかき上げた。足元では、完璧な連携を見せたAゴレたちが「親方、やりましたぜ!」と言わんばかりに、コトコトと誇らしげに石の体を鳴らしている。
スパーダがゴーレムたちの頭を無造作に撫でてやり、ふと視線を上へ向けた時だった。
遥か上空のプラットフォーム。これからいよいよ出番を迎えるアリシアが、バーを握りしめたまま、じっとこちらを見下ろしていた。
彼女の位置からは、先ほどのスパーダとちびゴーレムたちの完璧なトラブル対応のすべてが見えていたはずだ。もし彼が瞬時に動いていなければ、今頃この舞台は悲鳴と血に染まっていた。
アリシアの大きな瞳が、暗がりに立つスパーダを真っ直ぐに捉える。
スパーダは何も言わず、ただ静かに、しかし絶対的な信頼と「ここは俺が守る。お前は思い切り飛べ」というメッセージを込めた強い眼差しを、彼女へと送り返した。
その視線を受け取った瞬間。アリシアの胸の奥で、どうしようもないほどの熱い感情が爆発した。
(スパーダさん……。あなたが下で支えてくれているなら、私は、どこまでだって高く飛べる!)
音楽が静かに、そして壮大に切り替わる。
イグニスが放つ光が、一筋のスポットライトとなってアリシアを照らし出した。ガラス細工の衣装が星屑のように眩く輝く。
アリシアは深く息を吸い込み、迷うことなく虚空へと身を投げ出した。
それは、彼女のこれまでの空中ブランコ人生において、間違いなく最高のパフォーマンスだった。
重力を一切感じさせない、鳥のような飛翔。霧が立ち込める青緑の空間を、光の尾を引いて舞うその姿は、水底から空を目指す美しき女神のようだった。
どんな大技も、どんな回転も、恐怖など微塵もなかった。下には、彼がいるから。絶対に自分たちを、このサーカスを守り抜いてくれる、不器用で優しい彼がいるから。
空中で大きく身を翻したアリシアは、舞台袖の暗がりに向かって、満面の、世界で一番美しい笑顔を咲かせた。
着地と同時、テントが揺れるほどのスタンディングオベーションが巻き起こる。
水都シアンでの公演は、『エトワール・メモリア』史上、最高の大盛況をもって幕を下ろしたのだった。




