第15話 ガラスの羽ペン
スパーダが、組み上がったばかりのテントの完成具合や舞台装置の最終確認を行うため、一人で裏手へと回っている間のことだった。
広場の隅に置かれた木箱の上に広げられた街の地図を囲み、アリシアが中心となって団員たちと公演の作戦会議を開いていた。
「みんな、聞いて。この水都シアンの人たちは、ルベルの時とは少し違う演出を求めていると思うの」
アリシアの手には、以前スパーダが残してくれた「数字や論理に基づく経営計画」がびっしりと書き込まれたメモが、大切そうに握りしめられていた。徹底的な経費削減と効率化を求める彼の厳しい指摘は、確実にサーカスを立て直しつつある。しかし、彼女はただその数字に従うだけの操り人形ではなかった。
「この水都の人たちは、きっと水面を活かした美しい光の演出が好きだと思うの!」
アリシアは目を輝かせながら提案した。
「街中を巡る美しい運河や、それに反射する太陽の光。シアンの人たちは、そうしたロマンチックで優美な情景に日常的に触れているわ。だから、私たちのショーも、その美しさに寄り添うような特別なものにしたいの」
彼女の言葉に、団員たちが興味深そうに身を乗り出す。
「シルヴィ、お願いがあるの。ルベルで使っていた煌びやかな金色の装飾の代わりに、衣装にこの水都特産のガラス細工を少しだけ取り入れて、光を乱反射させるような工夫はできないかな?」
「あら、いいじゃない! ガラスの透明感なら、アタシの七色のメイクとも相性バッチリよ。最高傑作ちゃんをもっと美しく魅せてあげるわ!」
スライムのメイクアップアーティストであるシルヴィが、人型の艶やかな姿を揺らして嬉しそうにウインクをした。
「それからイグニス!」
アリシアが頭上のランタンを見上げると、中の炎の精霊がピョンと飛び跳ねた。
「いつもの温かいオレンジ色も素敵だけど、水面に映る青や緑を基調とした幻想的な照明に切り替えることはできる? 水底から立ち上る泡のような、静かで神秘的な光の海を作りたいの」
イグニスはアリシアの情熱に応えるように、ボワッと青緑色の美しい炎を灯して見せ、ランタンの中で力強く頷いた。
「ドワッハッハ! こいつは面白くなってきた! だったら俺の竜の炎も、ただ威嚇するだけじゃなく、水しぶきと合わせて霧を生み出すような演出にしてみるか!」
竜人のゴルダンが豪快に笑い、他の団員たちも次々と新しいアイデアを出し合い始めた。
数字だけでは決して測ることのできない、人々の心を打つ芸術への情熱。そして、個性豊かな団員たちを一つにまとめ上げる、アリシアの団長としての確かな才能が、そこには存分に発揮されていた。
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「……テントの骨組みに異常はない。強風にも耐えられるよう、ワイヤーの張力も調整しておいた」
作戦会議が白熱する中、機材の点検を終えたスパーダが、漆黒の外套を翻してアリシアの元へ戻ってきた。
「あ、スパーダさん! 聞いてください!」
アリシアは弾かれたように彼に駆け寄ると、興奮冷めやらぬ様子で、自分たちが考えた「水都特化型の演出案」を嬉々として説明し始めた。
水都の美意識に合わせたガラス細工の衣装、水面を思わせる青と緑の幻想的な照明、そして竜の炎を使った霧の演出。どれも、これまでの巡業では試したことのない新しい挑戦だ。
一気に話し終えたアリシアは、ハッとして少しだけ肩をすくめた。
「あ、あの……もちろん、スパーダさんが立ててくれた予算の範囲内でやります! ガラス細工は壊れた余り物を安く譲ってもらうつもりですし、新しい機材を買うわけじゃありません。だから、その……」
無駄な経費を極端に嫌う彼から、また「非効率だ」「無駄な労力だ」と冷たく切り捨てられるのではないか。アリシアが不安げに見上げると、スパーダは一瞬だけ、わずかに目を見開いて驚いたような顔をした。
スパーダの頭の中で、素早く計算と分析が行われる。
限られた予算の中で既存の資源を最大限に活用し、さらに現地の客層の心に刺さる付加価値を生み出そうとしている。それは、ただの素人の思いつきではなく、極めて優秀な経営戦略そのものだった。
「……客層の嗜好に合わせた演出の変更か」
スパーダは静かに息を吐き出し、いつものように冷徹な査察官のフリをして腕を組んだ。しかし、その口から紡がれたのは、冷たい否定の言葉ではなかった。
「費用対効果が高く、極めて合理的だ。よく考えたな」
その言葉を聞いた瞬間、アリシアの顔に、パッと大輪の花が咲いたような眩しい笑顔が広がった。
「ほんとですか!? やったぁ! ありがとうございます、スパーダさん!」
彼女は手にしたメモを胸に抱きしめ、喜びのあまりその場で小さく飛び跳ねた。スパーダからただの数字の管理だけでなく、団長としての自身のアイデアと才能を肯定されたことが、何よりも嬉しかったのだ。
無防備に喜ぶアリシアの姿を、スパーダは静かな瞳で見つめていた。
最初に出会った時は、経営の才能がさっぱりで、頼りないただの少女だと思っていた。自分が陰から徹底的に管理し、過保護なまでに守ってやらなければ、すぐに潰れてしまう脆い存在だと。
だが、違った。彼女は、父の残したサーカスへの深い愛と、仲間を信じる純粋な心で、彼が提示した冷たい数字の枠組みに「魔法」を吹き込んでみせた。
スパーダの胸の奥で、甘く、そして心地よい痛みを伴う熱が広がる。
彼はもう、アリシアをただの「守るべき監視対象」としてだけ見てはいなかった。どんな困難にもひたむきに立ち向かい、周囲に光を与える彼女の輝きと才能に、深く尊敬の念を抱いていた。
そして、その純粋な美しさに、どうしようもなく惹かれている自分を、スパーダはもう否定することができなかった。
(……監視対象者に惹かれるなどご法度だが、くそっ……どうしよもできねぇ)
誰にも聞こえない胸の内でそう独りごちて、スパーダはほんのわずかに、しかし確かに、その端正な口元を柔らかく綻ばせたのだった。
すると、スパーダが上着の内ポケットから何かを手にした。布で丁寧に包まれた細長い小箱が握られていた。スパーダはそれを、アリシアの胸元へ無言で押し付けた。
「え……? これは?」
「ルベルの街で見つけた。君が使っていた羽ペンは、先がすり減ってインクの出が悪かっただろう。それでは計算ミスを誘発し、帳簿をつけるのに非効率だ」
アリシアが包みを開けると、中には水都シアンの美しい水面を思わせるような、透き通った青いガラス細工の羽ペンが入っていた。
それは、ただの実用品というにはあまりにも美しく、高価な代物だった。ルベルの街で立ち寄る場所があると言っていたのは、裏の任務だけでなく、このペンを買うためでもあったのだ。
「スパーダさん……これ、すごく綺麗……。ありがとうございます、大切に使います!」
アリシアはガラスの羽ペンを胸に抱きしめ、花が咲いたような満面の笑みを向けた。スパーダは「……無駄遣いを減らして早く納付を」とそっぽを向いたが、その耳の先はほんのりと赤く染まっていた。
「あらあら。お堅い査察官の旦那も、うちの可愛い団長にはすっかり甘いわねぇ」
少し離れた荷馬車の上から、スライムのメイクアップアーティスト、シルヴィが艶やかなオネエ言葉でからかうように笑う。
「ち、違うわよシルヴィ! これは帳簿の効率化のためで……!」
アリシアが慌てて顔を赤くして否定する声と、団員たちの温かい笑い声が、水都の青く澄んだ空に響き渡る。
美しい運河の街で、エトワール・メモリアの新たな舞台の幕が、今まさに上がろうとしていた。




