第14話 水都シアン
徹夜の撤収作業を終えた幻想白夜サーカス団『エトワール・メモリア』は、朝靄に包まれた鉱山街ルベルの街道に荷馬車の隊列を並べていた。
先頭には巨大なテントの支柱や舞台装置を積んだ重厚な馬車、中央には団員たちの居住区となる馬車や、魔獣たちの檻が整然と配置されている。いよいよ次の巡業地である水都シアンへ向けて出発する直前だった。
「よし、忘れ物はないわね! みんな、出発の準備はいい?」
アリシアが隊列の先頭から声をかけると、ケンタウロスのバルガスやゴブリンのジグが力強く応えた。
そんな賑やかな出発の輪から少し外れた場所で、漆黒の外套を羽織ったスパーダが、自身の乗る黒馬の手綱を引いてアリシアの元へ歩み寄ってきた。
「アリシア団長。俺は少し、この街で立ち寄るところがある。先に出発してくれ。用が済めば、すぐに後を追う」
「えっ……一緒にシアンに向かうんじゃないんですか?」
これまでずっと側で完璧なサポートをしてくれていた彼が別行動を取ると聞き、アリシアは反射的に寂しそうな声を漏らしてしまった。しかし、彼には国庫管理局の査察官としての仕事があるのだろうと思い直し、すぐにふわりと微笑んだ。
「分かりました。道中、気をつけてくださいね。水都シアンの広場で待っていますから」
アリシアが真っ直ぐな瞳で見送ると、スパーダは微かに頷いた。
そこへ、少し離れた馬車からドワーフの料理長マグダが身を乗り出して叫んだ。
「おい役人さん! 早く追いつかないと、今日の夕飯のシチューはあんたの分まで残ってる保証はないよ!」
「そうだぜ! 査察官の旦那がいねえと、ちびゴーレムたちがサボるかもしれねえしな!」
竜人のゴルダンも豪快に笑いながら手を振る。スパーダは「……あいつらは俺がいなくても真面目に働く」とボソリと呟いたが、その顔には彼らを拒絶するような冷たさはなく、どこか呆れたような、しかし満更でもない色が浮かんでいた。
アリシアたちを乗せた隊列が、車輪の音を響かせてゆっくりとルベルの街を出発していく。スパーダはその後ろ姿を、隊列が朝靄の彼方へ見えなくなるまで静かに見送っていた。
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サーカス団が出発してしばらく経った頃。
鉱山街ルベルの活気ある大通りから遠く離れた、薄暗く湿った路地裏に、スパーダの姿があった。
彼の表情からは、先ほどまでアリシアたちに向けていた僅かな温もりは完全に消え失せ、氷のように冷たく鋭い、刃のような顔つきへと変わっていた。
スパーダの視線の先には、深くフードを被った大柄な男が立っている。
男の身なりは粗末な旅人のように見えるが、その立ち振る舞いには隙がなく、ただの一般人ではないことが遠目からでも分かった。
「……で、状況は」
男が低い声で問いかける。スパーダは周囲の気配を油断なく探りながら、静かに首を横に振った。
「帳簿の裏付け、機材の搬入経路、どれを洗っても今のところ不審な点は見当たりません。……あそこは、ただの経営難に喘ぐサーカス集団です」
「そうか。だが、気は抜くなよ。引き続き『対象』の動向を監視しろ」
男はそれだけ言うと、懐から小さく折り畳まれた紙片をスパーダに渡し、足音も立てずに路地裏の闇へと消えていった。
一人残されたスパーダは、手の中の紙片を冷徹な瞳で見つめる。
ただの国庫管理局の査察官が、なぜこのような路地裏で隠密めいた報告を行っているのか。その真意を知る者は、この街には誰一人としていなかった。スパーダは紙片を外套の裏ポケットに仕舞い込むと、足早に路地裏を立ち去った。
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それから数日後。
豊かな水源に恵まれた魔法国家エルディス王国の中継ぎ都市、水都シアン。
街全体に美しい運河が網の目のように張り巡らされ、白亜の石造りの建物が水面にその優美な姿を映し出している。行き交う小舟の上では音楽家がリュートを弾き、街を歩く人々も皆、芸術や美しいものをこよなく愛する洗練された雰囲気を纏っていた。
アリシアたちを乗せた隊列は、街の中心にある大きな運河沿いの広場へと到着していた。
「みんな、お疲れ様! いらっしゃい!」
広場では、先遣隊として事前に街入りしていたエルフのラットリアが、風のように軽やかな足取りで駆け寄ってきた。
「ラットリア、広報活動お疲れ様! 街の様子はどう?」
「最高よ! 街中が『エトワール・メモリア』の到着を心待ちにしてるわ。なんたって、水都の人はキラキラした演出が大好きだからね!」
ラットリアが自信満々に胸を張る。しかし次の瞬間、彼女は周囲を少し気にするように声を潜め、アリシアの耳元へと顔を近づけた。
「ただね……少し気になる噂話もあるの。最近、この街の裏ルートで、出所不明の『妙な薬』が出回っているらしいのよ。用心するに越したことはないわ」
「妙な薬……? 分かったわ、みんなにも夜の外出は控えるように伝えておくね」
アリシアが真剣な顔で頷いた直後。
広場の中央で、テントの骨組みとなる巨大なメインポールを立ち上げようとしていたケンタウロスのバルガスが、「うおっ!?」と焦った声を上げた。
「おい、地盤が緩いぞ! 運河の近くだから土が水を吸ってやがる!」
ミシミシと嫌な音を立てて、数十メートルにも及ぶ巨大な鉄柱が、ズブズブと泥に沈み込みながら大きく傾き始めた。下で支えているちびゴーレムたちも、コトコトと激しく音を鳴らして必死に押し返すが、重量に耐えきれず足元が滑ってしまう。
「危ないっ、みんな離れて!」
アリシアが叫んだ、その時だった。
「——Aゴレ、土の魔力を支柱の根元に集中させろ。泥の水分を抜いて地盤を固めるんだ。Bゴレ、Cゴレ、Dゴレは逆側からワイヤーを引け!」
広場に響き渡ったのは、冷静でよく通る、聞き慣れた男の声だった。
黒馬に乗って駆け込んできたスパーダが、瞬時に状況を把握し、的確な指示を飛ばしたのだ。
スパーダの指示を受けたAゴレが、両手を地面に強く打ち付ける。淡い土属性の魔法の光が広がり、ぬかるんでいた地盤が一瞬にして硬い岩盤のように変化した。同時に、他のちびゴーレムたちがスパーダの指示通りの角度でワイヤーを力一杯引き絞る。
傾いていた巨大なメインポールは、見事なバランスで真っ直ぐに立ち上がり、ガキンッ!と音を立てて強固に固定された。
「スパーダさん……! 追いついてくれたんですね!」
アリシアが安堵の笑みを浮かべて駆け寄る。
黒馬から降りたスパーダは、いつものように涼しい顔で外套の埃を払った。
「査察対象の資産が水没しかけているのを、黙って見ているわけにはいかないからな」
その後、スパーダの的確な指示のもと、ちびゴーレムたちがわらわらと集まり、一気に巨大なテントを組み上げていく。
リーダー格である特別な魔石を埋め込まれたAゴレの指揮に合わせて、彼らはコトコトと軽快な石の音を響かせながら、驚異的な怪力と土魔法を駆使した。
先ほどの泥濘が嘘のように、水都シアンの運河沿いの広場には、瞬く間に『エトワール・メモリア』の壮麗なサーカステントが張られていった。
「ヒャッハー! さあ野郎ども、水都の客の度肝を抜いてやるぞ!」
特攻隊長のジグが、巨大な一輪の魔導車に跨り、鼓膜を震わせる凄まじいエンジン音を轟かせた。
彼がエンジンをふかす音は、団員全員の気合を入れる日課のようなものだ。
轟音と共に放たれたジグの檄に呼応するように、ケンタウロスのバルガスが前足を高々と上げて蹄を鳴らし、猫獣人のチャイが身軽に宙を舞って歓声を上げる。場は最高潮に盛り上がり、長旅の疲労を感じさせない熱気が広場を包み込んでいた。




