第13話 竜と査察官
やがて、徹夜の撤収作業が完全に終わり、すべての荷馬車への積み込みが完了した。
東の空が白み始め、鉱山街の輪郭が美しい朝焼けに染まっていく。
「お疲れ様でした! これでいつでも出発できますね!」
エルフのラットリアが、身軽な旅装束で元気よく声を上げた。彼女は先遣隊であり、広報係だ。
「私、一足先に次の街、水都シアンへ行って、最高の噂を撒いてくるわ! みんな、後で合流しましょうね!」
ラットリアはウインクをすると、無尽蔵のスタミナで朝霧の中を風のように駆け出していった。
「気をつけてね、ラットリア!」
アリシアが大きく手を振って見送る。
大きな仕事を終え、張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、アリシアはふぅっと深く息を吐き出し、その場にへたり込みそうになった。連日の過労に徹夜の作業が重なり、体力はとうに限界を迎えている。
ふいに、目の前に温かい湯気を立てる木のマグカップが差し出された。
「……飲むといい。マグダが淹れた香草茶だ」
見上げると、白シャツ姿のスパーダが立っていた。彼も一晩中重労働をしていたはずだが、その端正な顔に疲労の色は全く見えない。
「ありがとうございます、スパーダさん」
アリシアが両手でマグカップを受け取って微笑んだ、その時。
スパーダの視線が、アリシアの顔の横でピタリと止まった。
「……顔が汚れているぞ」
「えっ?」
撤収作業の際についたのだろう。アリシアの白い頬に、黒い煤がべったりとついていたのだ。
「あっ、やだ、恥ずかしい……!」
アリシアが慌てて自分の作業服のざらついた袖で顔を乱暴に拭おうとした瞬間、スパーダの大きな手が、彼女の細い手首をふわりと掴んで制止した。
「擦るな。肌が荒れるだろう」
スパーダは静かにそう言うと、わずかに身をかがめ、アリシアの顔へと自分の顔を近づけた。
そして、自分が着ているシルクの白シャツの清潔な袖口を使って、アリシアの頬についた黒い煤を、壊れ物に触れるような極めて繊細な手つきでそっと拭い取った。
「っ……」
至近距離に迫る端正な顔。彼から漂う微かな石鹸の香りと、手首を掴む手の確かな熱に、アリシアの心臓がトクンと大きく跳ねた。
朝焼けの淡い光に照らされたスパーダの瞳には、いつもの冷酷な査察官の影はない。そこにあるのは、ただ目の前の少女だけを映した、ひどく優しくて甘い眼差しだった。
「……よくやってるよ、君は」
スパーダの低く落ち着いた声が、労うように耳元に落ちる。
それは、ただの役人から監視対象への言葉ではなく、共に一つの困難を乗り越えた「家族」への、不器用だが真っ直ぐな称賛だった。
その過保護なまでの甘さに、アリシアはもう、胸の奥で爆発しそうに鳴り響く自分の鼓動を、どうやっても誤魔化すことができなかった。
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朝焼けに照らされる荷馬車の隊列。
スパーダは、荷積みに漏れがないか確認するため、荷馬車の周りを歩いていた。
「おお、ちょうどいいところに! 査察官の旦那、ちょっとそいつの端を持っててくれねえか!」
豪快な声に足を止めると、竜人の猛獣使いゴルダンが、巨大な骨付き肉の塊と格闘していた 。彼の傍らには、見上げるほど巨大な火竜が、喉の奥でゴロゴロと低い地響きのような音を鳴らしながら馬車の中で鎮座している 。
スパーダは微かに眉をひそめた。本来ならば「俺は王立国庫管理局の役人だ。魔獣の餌やりなど手伝う義務はない」と冷たく切り捨てる場面だ 。しかし、昨夜のドワーフの料理長マグダとのやり取りを経て、彼の頑なな心にはほんの少しだけ柔らかな余裕が生まれていた 。
「……非効率なやり方だ。重心を真ん中に寄せて持てば無駄な力はいらない」
スパーダは静かにそう提案すると、歩み寄って肉の塊の片側をがっしりと掴んだ。大人二人がかりでもよろめくほどの重量だが、常人離れした異常な身体能力を持つスパーダは、顔色一つ変えずに軽々と持ち上げる 。
「ドワッハッハ! 細身に見えて、たいした腕力じゃねえか!」
ゴルダンが嬉しそうに笑う 。しかし次の瞬間、火竜が鋭い牙を剥き出しにし、スパーダに向かって巨大な鼻面をヌッと近づけてきた。
ズシン、と地を揺らして迫る火竜の瞳には、見慣れない闖入者への強い警戒の色が浮かんでいる。カッと開かれた顎からは、今にも恐ろしい炎が吐き出されそうだった。
だが、スパーダは微塵も動じなかった。逃げるでも威嚇するでもなく、ただ静かに、凪いだ瞳で火竜を見据え、肉を差し出したまま真っ直ぐに立っていたのだ。
シューッ……と、火竜の鼻から熱風のような息が吹き付けられる。スパーダの白シャツが風圧で激しく煽られるが、彼は瞬き一つしない。
やがて、火竜はスパーダの匂いを何度か嗅ぐと、ふいっと警戒を解いたように目を細め、彼の手から肉の塊をパクリと優しく咥え取った。そして、満足そうにバリバリと骨ごと噛み砕き始めた。
「ほう……こいつは驚いた」
ゴルダンが目を丸くし、それから愉快そうに喉を鳴らした。
「うちの竜たちは気位が高くてな。得体の知れない奴や、腹に一物抱えた悪党が近づけば、容赦なく丸焦げにするんだが……どうやらお前さんのことは、すっかり気に入ったらしい」
「……たかが獣の嗅覚だろう。俺はただ、査察対象の資産価値を維持するために、腹を空かせている魔獣へ餌を与えただけだ」
素っ気なく返すスパーダに、ゴルダンは「違いねえ」と笑いながら、彼の広い背中をバンッと力強く叩いた 。
「なあ、役人。お前さんが最初に来た時は、なんて冷血な国の犬が来たんだと警戒したもんだ。だが、あの不器用なアリシア団長が、お前さんが来てから本当によく笑うようになった。機材の手入れも、ちびゴーレムたちの扱いも、俺たちよりずっと上手え」
ゴルダンは夜空を見上げ、亡き相棒である先代団長と酒を酌み交わした日々を思い出すように目を細めた 。
「俺たちは、国やら税金やらの難しいことは分からねえ。だが、あの子とこのサーカスを守ってくれる奴なら、俺たちは誰であろうと家族として歓迎する。……これからも、うちの若き団長を頼むぜ」
それは、血生臭い裏社会を生きてきたスパーダにとって、生まれて初めて向けられる、打算のない無条件の信頼だった 。自分のような人間が受け取っていい言葉ではないと頭では分かっているのに、胸の奥が不思議と温かくなるのを止められない。
「俺はただの査察官だ。……だが、目標の利益を達成するまでは、せいぜいこの烏合の衆の面倒を見てやろうと思っている」
スパーダは決して目を合わせず、ぶっきらぼうにそう答えた。しかし、その横顔には隠しきれない柔らかな色が滲んでいた。
「ドワッハッハ! 頼もしいじゃねえか! 王都公演が終わったら、あんたとも朝まで美味い酒を飲み明かさねえとな!」
豪快に笑うゴルダンの声と、満足そうに喉を鳴らす火竜の息遣いが、冷たい夜明けの空気にじんわりと温かく溶け込んでいった 。




