第11話 家族の食卓
ルベルでの大入りだった最終公演の熱気が冷めやらぬまま、巨大テントの外には大きな長机が並べられ、賑やかな宴が始まっていた。
ドワーフの料理長マグダが腕を振るった、野菜と豆がたっぷりと入った温かいシチューの匂いが夜風に乗って漂っている。魔法の樽で漬け込まれた絶品のピクルスや、こんがりと焼けた雑穀パンが山のように積まれ、団員たちは各々の皿を手に笑い合っていた。
「今日のバルガスの逆立ち、最高にウケてたにゃー!」
「そうだろう! 俺の完璧なバランス感覚があってこそだからな!」
ケンタウロスのバルガスが高らかに笑い、猫獣人のチャイが身軽に机の上を飛び跳ねる。ゴブリンのジグがジョッキを掲げ、竜人のゴルダンが連れている火竜にまで、ご褒美の肉が振る舞われていた。
種族の壁も、年齢の差もない。そこにあるのは、共に一つの舞台を作り上げる「家族」としての強固な絆と、無防備なまでの愛情だけだった。
スパーダは、そんな騒がしい中心から少し離れた端の席に座り、無言でシチューを口に運んでいた。
孤児として育ち、過酷な環境で生き抜くために感情を殺してきた彼にとって、この無防備で愛情に溢れた空間は未知のものだった。生きるために奪い合い、騙し合う世界しか知らなかった彼には、ただ純粋に喜びを分かち合う彼らの姿が、ひどく眩しく感じられる。
――俺のような人間が、ここにいていいのだろうか。
自嘲気味に心の中で呟き、スパーダが視線を落としたその時だった。
「おい、役人」
ドンッ、と荒っぽい音を立てて、スパーダの目の前に木皿が置かれた。見上げると、顔を赤くしたケンタウロスのバルガスが、そっぽを向きながら立っていた。
皿の上には、彼が自分の分から取り分けたらしい、大きく切り分けられた香草焼きの肉が乗っている。
「勘違いするなよ。今日の滑車の調整が、まあ……少しはマシだったから、特別に分けてやるだけだ」
「……俺は査察官だ。施しは受けない」
「うるせえ! 出されたもんは黙って食え! うちの団長を助けてもらった借りは、きっちり返すのが俺たちの流儀だ!」
バルガスは顔を真っ赤にして怒鳴ると、照れ隠しのように蹄を鳴らして元の席へ戻っていった。
その様子を見ていたゴブリンの特攻隊長ジグも、ニヤリと笑ってスパーダに近づいてきた。
「オレの魔導ホイールの燃料費を削られたのはまだ根に持ってるがよ、客席が満員になったのは認めてやるよ。次も頼むぜ、お堅い旦那!」
ジグは自分のジョッキをスパーダの木コップに軽くぶつけ、去っていった。
スパーダは目の前に置かれた肉と、団員たちからの不器用な労いに戸惑いを隠せなかった。
彼らはスパーダを「国から来た嫌な奴」として警戒していたはずだ。それなのに、少しでも自分たちの力になってくれたと分かれば、こうしてあっさりと身内のように扱い、食卓の輪に引き入れようとしてくる。
スパーダはバルガスから押し付けられた肉をフォークで刺し、口に運んだ。
温かい肉汁が広がるのを感じながら、彼は遠くの席で団員たちに囲まれ、花が咲いたように笑っているアリシアの姿をじっと見つめていた。
この温かく騒がしい食卓の引力に、自分が抗えなくなり始めていることを、スパーダはもう否定できなかった。
+++
深夜。宴が終わり、すべての団員が深い眠りについた頃。
静寂に包まれたサーカステントの周辺を、スパーダは一人、闇に溶け込むように歩いていた。
表向きは「査察官としての資産管理」のための見回りだ。しかし、その研ぎ澄まされた感覚は、常に周囲の不審な気配を警戒している。華やかなサーカスの裏でうごめく悪意や、予期せぬ夜盗の襲撃。彼は冷徹な眼光で暗闇を睨み、わずかな風の音にすら耳を澄ませていた。
テントの裏手、機材を積んだ荷馬車の影に差し掛かった時。
――カサッ。
背後から、微かな足音が近づいてきた。
スパーダの体が反射的に動いた。あきらかに常人とはいえない反射神経で即座に身を翻し、一切の容赦のない、冷酷な獣のような殺気を放って暗闇を睨みつける。
「誰だ! そこを動くな」
低く、底冷えのする声で警告する。
しかし、スパーダの放った圧倒的な殺気を前にしても、暗闇から現れた人影は全く動じる様子を見せなかった。
「おや、恐ろしい顔をするねぇ。そんなに殺気立ってちゃ、夜風の気持ちよさも分からないだろうに」
月の光に照らされて姿を現したのは、お盆を持ったドワーフの料理長、マグダだった。
「……あんたか。こんな夜更けに何をしている」
スパーダは微かに息を吐き、張り詰めていた殺気を収めた。
「あんたの夜食を持ってきただけさ」
マグダはスパーダに近づき、お盆の上に乗った小鉢と、湯気を立てる温かいお茶を差し出した。小鉢の中には、彼が夕食の席で少しだけ目を細めて食べていた、あの絶品のピクルスがこんもりと盛られている。
「……俺は見回りの最中だ。夜食など頼んでいない」
「あんた、ずっと気を張ってるじゃないか。昼間も、さっきの宴の席でもね。美味しいものを食べて、少しは肩の力を抜かなきゃ、いい仕事はできないよ」
マグダはスパーダの冷たい拒絶を意に介さず、お盆を無理やり彼の手の平に押し付けた。
スパーダは困惑した。これまで出会ってきた人間たちは、彼の放つ殺気や冷酷な眼差しに怯え、媚びへつらうか、逃げ出すかだった。しかしこの小さなドワーフの女性は、彼の威圧感を全く気にする様子がない。
「それにね、あんたはひどく悲しくて、寂しい目をしている」
マグダは、年輪を重ねた温かく深い瞳で、スパーダを真っ直ぐに見上げた。
「あたしは料理人だ。相手がどんな人生を歩んできたか、顔を見ればだいたい分かる。あんたはこれまで、誰かと心を通わせることもなく、たったひとりで冷たいご飯ばかり食べてきたような目をしているね」
スパーダは言葉を失った。
脳裏に、鍵をかけていたはずの幼少期の記憶が蘇る。
薄暗く冷たい路地裏。誰かに奪われないように、常に背後を警戒しながらかき込んだ、石のように硬くて冷たいパン。温かい食事も、誰かが自分を案じてくれる言葉も、何一つ知らずに生きてきた日々。
誰も信じず、ただ己の力だけを頼りに生き抜いてきた。それが自分の運命であり、当然の報いだと思っていた。
しかしマグダは、そんな彼の凍てついた過去を容易く見抜き、温かい手で彼の背中を力強く叩いた。
「ここはエトワール・メモリアだ。家族の食卓に、遠慮はいらないんだよ。美味しいものを食べて、明日もあの不器用な若い団長を助けてやっておくれ」
マグダは豪快に笑うと、背を向けて自分のテントへと歩き去っていった。
スパーダは一人、暗闇の中で手元のお盆を見つめた。
温かいお茶から立ち上る湯気が、彼の顔を優しく包み込む。差し出されたピクルスを一つ口に運ぶと、程よい酸味と野菜の甘みが口いっぱいに広がった。
「……お節介な連中だ」
誰にも聞こえない声で呟いたスパーダの目元は、先ほどまでの冷酷な獣のような険しさを失い、静かな穏やかさを帯びていた。
こんなにも無防備で、お節介で、温かい人たち。
孤児として闇の中を生きてきた彼が、このサーカステントを、生まれて初めての「帰る場所」かもしれないと感じ始めた瞬間だった。
月明かりの下、スパーダは温かい夜食をゆっくりと味わいながら、もうしばらくこの騒がしい家族のそばにいたいと、心の中で静かに願っていた。




