表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
205/206

 198 揺れる灯



 外の冷え込みとは裏腹に、研究室には穏やかな陽光が差し込んでいた。


 シンとユウがトイレから戻ると、助手が届いた昼食を机に並べているところだった。


「あ、手伝います」


 ユウがそう言って、助手の隣に立った。


「ありがとう」


 シンも一緒に、皿を並べていく。


 湯気を立てるスープに、焼きたてのパン。色とりどりの野菜が添えられている。


「うわー、美味しそう」


 ユウがつぶやいた。


「本当にうまそう」


 シンはそう言って、椅子に腰を下ろした。


 ユウも隣に座り、スープに手を伸ばした。


「……美味しい」


「うん! うまい! 昨日食いそびれてしまったのが悔やまれる」


 シンとユウが美味しそうに食べていると、ふと視線を感じた。


 見回すとセリンも助手たちも、こちらを見ている。


 シンは大きく開けた口にパンを押し込もうとしていたが、その視線に気づいて、そっと皿に戻した。


「あ、マナーがなってませんでしたね。すみません」


 そう言うと、助手たちは慌てて視線を逸らした。


 セリンが小さく笑いながら言った。


「そうじゃなくてね。この研究室で男の人と食事をするのが、まだ慣れなくて」


「そうだったんですね」


 シンは安堵の笑みを浮かべた。


「でも、俺たちからすれば嬉しい限りです。まさに夢の職場って感じですよー」


 その言葉で、助手たちの笑い声が漏れた。


「食事マナーなら気にする必要ないわ」


 そう言って、セリンは視線をウノウに向けた。


 シンもつられてそちらを見た。


 ウノウは両手にパンを握りしめ、交互にかじりついていた。頬はリスのように膨らみ、スープは皿ごと持ち上げ、ゴクゴクと飲んでパンを喉に流し込んでいた。


「んぐんぐ…… んまーい! おかわりー!」


 口の周りにはパンくずがびっしりとついていた。


 シンはユウに視線を向けた。


「うん。僕は昨日見たよ」


 ユウがシンの耳元でつぶやいた。


 シンは笑みを浮かべると、先ほど皿に戻したパンを手に取った。


「では、遠慮なく」


 そう言って、大きな口を開けてパンにかじりついた。


 スープの皿を持ち上げ、ゴクゴクと一気に流し込む。


「んぐんぐ…… うまい!」


 その様子を見て、助手たちが目を丸くした。


 セリンは額に手を当てて、小さくため息をついた。


「……もう一人増えたわ」


 その言葉に、助手たちが声を上げて笑った。


「あーしも負けないもん!」


 ウノウはおかわりしたパンに、ガブガブとかじりついた。


 シンも負けじと、口に入れたパンをガジガジと音を立てて噛み砕いた。


 その様子を見てみんな笑っていたが、アトリアだけは、静かにスプーンを口に運んでいた。




 昼食の片付けが終わった頃、研究室の扉が開いた。


 いつものように、午後の講義がない学生たちが次々と入ってくる。


「失礼しまーす」


 その中のひとりが、シンを見てまっすぐ駆け寄った。


「シン君! 体調は大丈夫ですか?」


 それは、コルディアの相手だったフィーネ。


「あ、うん。もう全然平気」


「本当に? 昨日、すごく苦しそうだったから……」


 その目には、まだ心配の色が浮かんでいた。


「心配かけて本当にごめんね」


 シンが気づかうと、フィーネは照れたように視線を落とした。


「あららら、ブリアがいなくて良かったー」

「うん。これを見たらどうなってたことか」

「うふふふ。それはそれで、演劇のようにおもしろくなってたかもしれませんわね」


 学生たちの笑い声が、研究室に広がった。


 笑いが収まると、フィーネがセリンに近づいた。


「セリン先生。昨日のこと、原因は分かりましたか?」


 セリンは少し考えてから口を開いた。


「仮説はいくつか出したわ。でも、まだまだ時間がかかりそう」


 フィーネは小さく頷いた。


「今回のシン君のケースは、以前のものとは違うかもしれないの」


「そうですか……」


「ええ。教授が言っていた似たような過去の事例。それも完全には解明されていないの」


 セリンは学生たちを見回した。


「だから、今回のケースを使って、皆にも考えてもらおうと思ってるの」


「私たちもですか?」


「ええ。助手たちにはすでに仮説を立ててもらっているわ。皆も、それぞれ自分なりの仮説を立ててみて」


 一人の生徒がすぐに手を挙げた。


「はーい。フィーネとシン君は恋愛の相性が悪いからだと思いまーす」


「もぅー、やめてー。私もそれ自分で思って昨夜眠れなかったんだからー」


 再び笑いが起こった。


「冗談みたいな仮説かも知れないけど、今の段階ではありえないとは言えないわ。そうやって、考えつく仮説をたくさん提出してね。もちろん、その理由もね」


「わかりました」


「各自の研究の合間でいいから」


「はーい」


 学生たちは席につき、それぞれの研究に取りかかった。


 その時、研究室の扉が開き、ブリアが入ってきた。


「遅れてすみません」


 慌てて入ってきたブリアに、フィーネが声をかける。


「午前の講義にいなかったね。どこ行ってたの?」


 ブリアは周囲を気にしながら答えた。


「それが、演劇を見に行ってたの」


「えー、朝から?」


 ブリアは、セリンと話をしているシンをチラリと見た。


「うん。合う時間が今日の朝しかなくて……」


「あー、シン君を気にしてる。さては、男と一緒だったのね~」


 ブリアは口に手を当てて、静かにという仕草をした。 


 フィーネは声を潜めた。


「で、何の演劇?」


「名を取り戻す日っていう演劇」


「知ってる。それってすっごい大人気の演劇だよねそれ。面白かった?」


 ブリアは、首を左右に振った。


「それがもう、全然」


「え、そうなの?」 


「うん。何が人気なのか、全然わからなかった」


「けど、あまりにも人気だから、朝昼夜と異例の一日三公演もやってるって聞いたけど」


 このとき、ウノウが背後から忍び寄っていた。


「ばぁー! 聞いたよー。研究サボって男と演劇見に行ってたなー!」


 ウノウの大きな声で、全員の視線が集まった。


「えー、誰と行ってたのー?」

「もしかして、ティーソワレで知り合った方かしら?」

「朝から演劇してるの?」


 質問攻めにあったブリアは、仕方なく説明をした。


「おもしろくなかったの?」


「うん。ただの復讐劇だったわ。やられたらやり返すって、ずっとそればっかり」


「有名な台詞があるんだよね。なんだっけ?」


 ブリアは、まるで舞台に立つ役者のように、その台詞を口にした。


「一の屈辱には、十の絶望を。一の侮辱には、百の破滅を。それが名を取り戻す者の流儀!」


「そうそう、それそれ! ブリアお上手」


 その大げさな真似に、周囲から笑い声が漏れた。


「この台詞もそうだけど、もう本当、人気の理由がわからない」


「どういうこと?」


「主人公は、自分が悪いことをして怒られただけなのよ。それを恨みに思って、何倍にもして返そうとするの」


 フィーネが首をかしげた。


「えっ、それって復讐って言えるの?」


「そうなのよ。悪いのは自分なのに、怒ってくれた相手を恨むの。名誉を傷つけられたとか言っちゃって。私、ずっと不思議だった」


「ただの逆恨みじゃない」


「そう。だから、復讐って言葉が成立しないと思ったの。でも、劇中ではそれを正当化してるのよ。まるで、怒った相手が悪いみたいに」


「うわぁ…… 想像しただけ身震いがしたわ」


「しかも観客は拍手喝采。私だけが取り残された気分だったの」


「思い上がった男が好きそうな物語ね」


 フィーネはそう言って小さく笑った。


 そのとき、一人だけ遠くにいたアトリアが突然口を開いた。


「その演劇を知らないけど……」


 みんなの視線が、アトリアに向けられた。


「例え不条理だとしても生きていれば日常的に感じるもの。それを恨みに思わず、自分を成長させる燃料にすべきなの」


 一瞬、研究室が静まり返った。


 セリンと話をしていたシンは、会話を止めてアトリアを見ていた。


「私にも、その演劇が人気なわけが分からないわ」


 そう呟いて、アトリアは講義に向かうために研究室をあとにした。


「アトリア先生かっこいいー」

「アトリア補佐の言う通りですね」

「本当にそうですわ。私もそう思っておりましたわ」

「私、誘われてもその演劇見に行かない」

「あら~、フィーネ。誘ってくれる方がいるのー?」

「いるもん! シン君誘ってくれるよねー?」

「え? 俺っすか?」

「完全に一歩引いてますわね」

「フィーネ、あきらめて。相性悪いんだから」

「それ言うのやめてよー」

「つまらない演劇って、逆に見たくなりますわよね?」

「わかるそれー」

「シン君見に行きたいなら、私もう一度行ってもいい」

「だーめ。見に行くなら私と行くのー」

「ユウ君も行こう」

「ぼ、僕もいいんですか?」

「もちろんよー」


 研究室には、穏やかな午後の時間が流れていた。


 

 スタンサーの窓際では、モヒュランとヘルコットが談笑していた。


「あはははは、モヒュラン。きみの言う通り、どうやら不倫女と一緒に居たらしいね」


「ふはははは。まったく、困ったものだ。冗談のつもりだったんだけどね」


 ヘルコットは身を乗り出した。


「仲良く同じ馬車で登院したって聞いたよ。ここは友人として、忠告してあげた方がいいんじゃないのかい?」


 モヒュランは、窓から外を眺めながら答えた。


「まさか…… 友人だからこそ、黙っておくものさ」


 ヘルコットは目を輝かせた。


「その台詞、たまらないね。また見たくなってしまった」


「それなら…… 行くかい?」


「あぁ、是非。と、言いたいところだけど、満席じゃないのかい?」


「僕に任せておいて。あの劇団には、父の友人がいるんだ」


 モヒュランは自信に満ちた笑みを浮かべた。


「それは頼りになる。ちなみに、見に行くのはこれで12回目さ」


 そう自慢げに呟いたヘルコットに、モヒュランは返した。

 

「僕は18回目さ」


「あはははー」

「ふはははは」


 二人は顔を見合わせて、また声を上げて笑った。 




 セリンとアトリアは講義に出かけており、研究室には助手と学生たちだけが残っていた。


 シレリ教授は、まだ姿を見せていない。


 シンとユウは、特にやることもなく手持ち無沙汰になっていた。


 その時、研究室の隅で何かをしているウノウに気づいた。


 近づいてみると、ウノウはガラスケースの前にしゃがみ込んでいた。


 ケースは複数並んでおり、中には様々な昆虫がいた。


「ウノウさん、何してるんですか?」


「んー? 虫さんたちのご飯あげてるのー」


 ユウがケースを覗き込んだ。


「すごい、いっぱいいますね。でも、どうしてこの研究室で昆虫を飼ってるんですか?」


 ウノウは、餌を入れながら即答した。


「教授の趣味だよー」


「へぇー。シレリさんは虫が好きなんですね」


 近くにいた助手が、慌てて口を挟んだ。


「違いますよ。精神とは人だけのものなのか、その研究のために飼育しているんです」


「えー、そうだっけー?」


 助手はため息をついた。


「教授から何度も説明を受けて観察もしているじゃないですか……」


「んー、忘れちゃったー」


 助手は呆れたように笑みを浮かべると、背後からウノウに抱きついた。


「もう、ウノウ補佐ったら」


「わー、くすぐったいー」


 ウノウがじたばたと暴れる。


「ほら、虫さんたちが驚いちゃいますよ」


「あ、そうだった。ごめんね虫さんたちー」


 補佐と助手が、まるで姉妹のようにじゃれ合っている。学生たちも、それを微笑ましく見守っている。


 この医術院の中で、ここだけが別世界のように和やかだった。


 シンとユウは笑みを浮かべ、同じことを感じていた。


 その時、研究室の扉が開いた。


 シレリ教授だった。


 だが、いつもの穏やかな笑みはなかった。


 研究室の空気が、一瞬で変わった。


「教授……」


 助手がウノウから離れ、慌てて姿勢を正した。


 生徒たちも、静かに会釈をした。


 シレリの顔色は青白く、伏し目がちに歩いている。明らかに、元気がない。


「セリンとアトリアは講義?」


「はい。もうすぐ戻ると思います」


 その様子がいつもと違うのは、生徒たちの目にも明らかであった。



 しばらくして、アトリアが講義から戻ってきた。


 シレリ教授が来ていると聞くと、すぐに教授室へ入っていった。


 少し遅れて、セリンも戻ってきた。


 アトリアと同じようにすぐに教授室に入った。


 二人が揃うと、シレリ教授は深く息を吸ってから口を開いた。


「ふたりとも、この後のことは分かっているわね」


 セリンとアトリアは、黙って頷いた。


「この研究室は今、風前の灯火」


 シレリは窓の外に視線を向けた。


「あれだけの発言をした学長が排除されれば…… 恐らく、私も」


 セリンの表情が曇った。


「教授……」


「学長の支持がなければ、私は教授にすらなれていなかったわ」


 シレリは二人に視線を戻した。


「いつかこういう日が来ることは分かっていたの。学長がその座を降りる時、私も一緒に身を引く。それまでに、あなたたちを育てておくつもりだった」


 シレリは小さく息をついた。


「それが、こんな形で訪れるなんて……」


 セリンは何も言えなかった。


「学務評議会で学長が発言されたと聞いた時…… 私、胸が震えたの」


 シレリは少し間を置いた。


「その様なことがあったのに、学長が堂々と医術院に登院されたと聞いた時は、体の奥から力が湧いてくるようだった」


 セリンとアトリアは、黙って聞いていた。


「ずっと待ち望んでいたの。学長がこの国の教育を変えるきっかけを創ってくれる日を。そしてついに、その時が来たんだと思った。……浮かれていたわ」


 言葉を選ぶように間を置いた。


「でも…… ある疑問が私からその高揚感を消し去ってしまった。これが何を意味するのか」


 シレリは視線を落とした。


「昨日の学長の発言は間違っていないと思っている。素晴らしいと思った。最期の時まで、そう信じているわ」


 シレリの声が、わずかに震えた。


「だけど、いざ事態がここまで進むと……」


 言葉が途切れた。


「この研究室の行く末が…… あなたたちのことが……」


 シレリは二人を見つめた。その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


「弱音を言ってごめんなさい」


「いいえ……」


 セリンは、小さな声で返事をした。


 こんなシレリを見るのは、初めてだった。


 アトリアは、隣で静かに俯いていた。


「この研究室は、今のままで残したい」


 セリンは、唇を噛みしめていた。


「この歴史ある医術院で、初めての女性教授の研究室。私は別に名を残したいわけではないの。あなたたちも、助手も、学生たちも。誰一人欠けることなく、残ってほしい。女性でも、この道を歩み続けられる。この研究室を、その灯火にしたいの」


 セリンとアトリアは、静かに頷いた。


「だから、私はそれに向けて奔走するわ。例え無駄と分かっていても、ほんの僅かでも可能性がある限り」


 シレリは、二人を真っ直ぐ見つめた。


「そして、あなたたちが今すべきことは……」


「はい……」

「はい」


 ふたりは、真剣な眼差しでシレリを見つめた。


「学会に認められる研究成果を残すこと。私がいなくなっても、あなたたち二人のどちらかが教授になって残れるようにするために」


 アトリアが、真っ直ぐな目で口を開いた。


「それなら、私である必要はありません」


 シレリは、アトリアを見つめている。


「私はセリンを全力でサポートします。教授になるのは、セリンで」


「アトリア……」


「確かに、二人いた方が有利かもしれません。でも、一つに力を注いだ方がいい。私は、そう思います」


 セリンは、アトリアの手にそっと自分の手を重ねた。


「ありがとう……」 


 シレリは、ふたりから視線を逸らして、そっと目元を拭う仕草をした。


 教授……


 言葉にならない瞬間が、長く続いた。


 シレリは、目元を拭い終えると、二人に向き直った。


「では、今二人がしている研究とその論文を見せてくれる?」


「はい」


 セリンとアトリアは、それぞれの研究資料を取りに教授室を出た。


 扉が開いた時、シレリ教授とウノウの視線が合った。


 ウノウ…… ごめんなさい。私はきっと、あなたを守れない。


 ウノウは何も知らない無邪気な表情で、大きく手を振った。


 シレリは微笑みを返したが、その胸には鋭い痛みが走っていた。


 しばらくして、二人が戻ってきた。


 セリンとアトリアは、それぞれの論文をシレリの前に差し出して部屋から退出した。


 シレリはひとりで、静かにページをめくっていく。


「……」


 時折、頷きながら読み進めていた。


 やがて、最後のページを閉じると、シレリは二人を部屋に呼び戻した。


 二人は、シレリの前に立った。


「正直に言うわね」


 セリンとアトリアは、息を呑んだ。


「この二つの論文、共に悪くはない。でも…… 弱いわ」


 セリンの表情が、わずかに曇った。


「学会で評価されるには、まだ足りない。このままでは、教授の座を勝ち取ることは難しい」


 アトリアが口を開いた。


「何が足りないのでしょうか」


 シレリは、少し間を置いてから答えた。


「独自性よ。他の研究者にはできない、あなたたちだけの視点。それとテーマ。それがなければ、埋もれてしまうわ」


 セリンの視線が、一瞬だけ狭い倉庫に向けられた。


「でも、今のあなたたちには、それができる環境があるわ」


 セリンとアトリアは、顔を見合わせた。


「シン君……」


 セリンが呟きに、シレリが追随した。


「そう! シン君とユウ君。あの二人よ」


「……」


「ウノウが引き寄せた(・・・・・)あの二人には何かがある。研究者としての勘。それと……」


 シレリは、続きを口にすることなく一度閉ざした。だが、すぐに再開した。


「コルディアでの反応。あれは、今までの事例とは明らかに違っていた。恐らく単純な拒絶反応ではない、何か別のものを感じたの。原因を解明できれば、学会でも注目される研究になるわ」


 シレリは、静かに言葉を続けた。


「あの二人を、研究対象にした論文を書きなさい。完成するまで、この研究室が残るよう、私にできることをするわ」


 シレリは二人を見つめた。


「わかりました」


 セリンが答えたあと、アトリアが口を開いた。


「では教授。もう一度コルディアを私がシン君にしてもよろしいでしょうか」


 シレリは、静かにアトリアを見つめた。


「フィーネではなく私がやれば、違う結果が出るかもしれません」


「……」


「回数を重ねれば、当然原因の特定にも近づけます」


 シレリは、小さく首を横に振った。


「アトリア。あなたの気持ちはわかるわ。でも、それはできない」


「なぜですか」


「原因がわからないまま、同じことを繰り返すのは危険よ。シン君の倦怠感だけで済んだ理由も、まだ解明できていない」


「お言葉ですが、差し迫った状況では、悠長なことは言っていられません」


 シレリの目が、真っ直ぐアトリアを捉えた。


「アトリア」


「はい……」


「人を癒やすべき医学が、自ら苦痛を強いることは許されないわ」


 その言葉を聞いて、アトリアの瞳はシレリから離れなかった。


「それが私の信念であり、医学の道を歩む者なら、誰もが胸に刻むべき言葉」


 ……教授。


 アトリアは、この人の下で学べたことを、心から誇りに感じていた。


 それは、セリンも同じ想いだった。

 

 そして、この言葉を、一生忘れないと誓った。


「どうか、教授のご意見を聞かせてください」


 シレリは、セリンに視線を向けた。


「一つ、考えがあるの」


 窓の外では、陽が傾き始めていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ