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 197 凍てつく風



 冷え込みが一段と厳しくなったこの日、医術院の敷地内では、雑務の者たちが足早に持ち場へと向かっていた。


 オニスもその一人だった。

 

「なんでまた俺が……」


 ぶつぶつと文句を呟きながら、中庭へと歩いていく。


 その途中、前から歩いて来る学長とエルドに気づき、立ち止まって会釈をした。


「ふぅー、緊張した」


 しかしよ、なんだかんだいっても、エルドさんはすごいな。雑務なのに学長と一緒に歩けるなんてよ。俺もあんな立場になって、アトリア先生と…… むふふふ。よーし! さっさと終わらせて、本来の仕事に戻ろう。やるかっ!


 そう思いながら中庭へと足を踏み入れた瞬間、オニスの足が止まった。


「……は?」


 目の前に広がる光景が、信じられなかった。


 また、石が散乱していた。しかも、前回よりも多い。


「う、嘘だろ。な…… なんだよ、これ……」


 オニスは呆然と立ち尽くした。


 ふざけやがって……  あいつら、とことんやる気かよ!?


 オニスは、怒りで身体を震わせながら拳を握りしめた。


 そんなことなど知る由もなく、医術院は表向きには静かだった。


 だが、その静けさは嵐の前のそれに似ていた。


 

 廊下を歩く者たちの足音は、どこか落ち着きがない。講義室に向かう講師たちの会話も、いつもより声を潜めている。

 

 誰もが、昨日の演説を忘れられずにいた。


 学長が、あの場で語った言葉。


 それは、この国の根幹を揺るがす思想だった。


 教授たちの研究室では、補佐や助手たちがひそひそと言葉を交わしていた。


「学長は、いったい何を考えているのだ。学務評議会での発言といい、昨日の演説といい……」

「あれは言い過ぎではないか」

「だからこそ、その力の源が気になるのだ」


 教授たちは平静を装っていた。だが、その内心は穏やかではない。


 あれほどの発言をした学長が、なぜ今も学長の座にいるのか。なぜ即座に処分されないのか。


 その事実が、彼らを怯えさせていた。


 学長の背後に、どれほどの力があるのか。自分たちが知らない何かが動いているのではないか。


 うかつに動けば、巻き込まれ、地位を失いかねない。そう感じていた。


 だが、生命構造学の研究室で、マクレイはいつも通りに論文に目を通していた。


 この日、マクレイの元には朝から次々と来客があった。


 最初に訪ねてきたのは、意外にも中立派のルーミス教授だった。


 助手がルーミス教授をマクレイの教授室に案内した。


「マクレイ教授、少しお時間をいただけますか」


 マクレイは、視線を論文から上げることなく答えた。


「申し訳ないが、今日は取り込んでいる」


 ……それなら、ここまで通す必要はなかろう。助手なり補佐にそう伝えればいいではないか。


「し、しかし、昨日の学長の演説について、ぜひご意見を」


「またの機会に」


 ま、またの機会だと…… そうか、臆したのだな。


 ルーミス教授は、そう確信した表情で下がっていった。


 この後、数名の教授が入れ代わり立ち代わり訪ねてきた。


 誰もが、昨日の演説について語りたがった。マクレイの見解を聞きたがった。


 だが、マクレイは同じように、わざわざ面談した後に全員を追い返した。


 これといった理由を語らずに。


 最後の一人が去ったあと、マクレイは静かに補佐を呼んだ。


「今日、私を訪ねてきた者の名を、すべて記録しておけ」


「かしこまりました」


 補佐は、すでに心得ているかのように頷いた。


 マクレイは、椅子の背にもたれた。


 訪ねてきた者たちは、自分で考えることを放棄した者たちだ。答えを欲しがり、私に判断を委ねようとしている。

 あの演説を聞いて、学長が自ら破滅への道を歩んでいることに気づきはしても、確信が持てないとは。

 せいぜい怯えるがいい。迷うがいい。自分の頭で考え、自分で答えを出せ。

 

 それが出来ぬ者は、所詮その程度だ。


 マクレイは、ゆっくりと論文に視線を戻した。


 だが、文字を追う目は、すぐに止まった。


 ……学長(リヴァス)。お前は、もう戻れない……


 マクレイの机に置かれた手が、表面をひっかくように指を折り、ゆっくりと閉じていった。


 窓の外では、冷たい風が木々を揺らしていた。



 司法医術学の研究室では、レンベル教授が書類に目を通していた。


 そこへ、補佐のスキンスが静かに近づいた。


「レンベル教授。少しよろしいでしょうか」


「なんだ」


 レンベルは、書類から目を離さずに答えた。


「本日、数名の教授がマクレイ教授のもとを訪ねているようです」


「ほう」


「昨日の演説について、ご意見を伺いたいとのことで」


 レンベルの手が止まった。


 そして、ゆっくりと顔を上げて口元が歪んだ。


「ふっ、はははは。愚かな。なんと愚かな」


 スキンスは、黙ってレンベルを見ていた。


「あの演説を聞いて、まだ分からぬのか。学長の行く末が」


 レンベルは、笑いを収めると、再び書類に目を落とした。


「マクレイ教授も災難だな。あのような者たちの相手をせねばならぬとは」


「全員、追い返されたようです」


「当然だろう」


 レンベルは、鼻で笑った。


「私のところにも、誰も入れるな。時間の無駄だ」


「かしこまりました」


 スキンスは頭を下げたが、その場を動かなかった。


 レンベルは、視線を上げた。


「まだ何かあるのか」


「恐れながら、少々当たってみたく」


「誰にだ?」


「精神感応医術学に、知己の者がおりまして」


 レンベルは、一瞬だけ考えた。


「あー、そうだった。好きにしろ」


「ありがとうございます」


 スキンスは表情を消したまま、静かに研究室を出ていった。



 

 講義が始まる時間帯、スタンサーはほとんど人がいなかった。窓際のテーブルには、モヒュランとヘルコットだけが残っていた。


 そこへ、フレンが近づいてきた。


「モヒュラン様。ご報告がございます」


「なんだ?」


「例の件ですが、また別の者が片付けておりました」


 モヒュランは、口に含んでいたハーブティーを吹きそうになった。


「うっ、ゴホッ。あ、あの二人ではなく、また例の男か?」


「はい。今回もぶつぶつと文句を言いながら、一人で石を拾い集めておりました」


 モヒュランとヘルコットは顔を見合わせた。そして、同時に笑い出した。


「ふふっ、ふははははー!」


「あははははー! またあいつか」


 ヘルコットが肩を震わせながら言った。


「しかし、モヒュラン。標的には当たっていないわけだが……」


「ふははは。そう、これはこれで面白い!」


 モヒュランは、ハーブティーを一口飲んでから口を開いた。


「演劇で言えば、思わぬ役者が舞台に上がったようなものさ。筋書き通りでなくとも、観客を楽しませてくれるならそれでいい」


 ふたりは、また声を上げて笑った。


「ふはははーあーあ。そういえば、セディリオを見てないね」


「そうだね。この時間は、いつもここでハーブティーをたしなんでるのに、珍しい」


 モヒュランは、フレンに視線を向けた。


「何か聞いていないか?」


「なにも聞いておりません」


「そうか……」


 ここでモヒュランは、ハッと何かを感じた。


「まさか、あの不倫女と一緒か?」


「不倫している女に興奮するとか、彼にはそんな性癖があったんだねって、本人は知らないか。あはははははー」


 ふたりは再び大声で笑いだした。


 フレンは静かに頭を下げ、その場を離れた。



 

 精神感応医術学の研究室では、シンとユウが黙々と掃除をしていた。


 今日、シレリ教授は姿を見せていない。


 昨日の演説の後、教授の様子がおかしかったことは、誰もが気づいていた。


 セリンが、教授は今日遅れるとだけ告げ、それ以上は誰も聞かなかった。


 アトリアが講義に必要な物を持って静かに研究室を後にした時、扉の前で一人の者とぶつかりそうになった。


「あっと、失礼」


 そう謝罪したスキンスは、そのまま扉をノックし始めた。


 たしかあの人は…… 


 アトリアは、その横顔をじっと見つめた。


 ……だれだっけ?


 視線を元に戻すと、そのまま講義室に向かった。


「コンコン」


 ノックの音が室内に聞こえると、助手のひとりが対応した。


「はーい」


 扉をゆっくりと開けた。


 スキンスを見て、助手が室内に向けて口を開いた。


「補佐、お客様です」


 その声で、セリンとウノウが同時に振り向いた。


 スキンスは、セリンに小さく手を振った。


「セリン補佐。少し時間をよろし」


 その言葉を遮るように、ウノウが叫んだ。


「また来たー! みんなー! また敵が来たー! 敵襲ー!」

 

 てっ、敵!?


 シンとユウは、思わず手を止めた。


「ウノウ、落ち着いて」


 セリンが溜息混じりに言った。


「敵ではないわ」


 だが、ウノウは止まらない。


「敵じゃんこいつー! だってマクレイ教授の金玉みたいなレンベル教授の補佐だよー!」


 キンタマ!?

 キンタマ!?


 シンとユウは、いや、この研究室にいた者は、全員同じことを思っていた。


 マクレイ教授のキンタマか…… ふふっ、確かに違いない。


 そう思った瞬間、スキンスは笑いを堪えきれずに背を向けた。


「敵の本丸に来て背を向けるとはー! たいした度胸ねー!」


 その瞬間、ユウは何かを感じた。


 なっ、なにこれ……


 ウノウは右拳をスキンスに突き出すと同時に叫んだ!


「喰らえ! フーター!」


 その言葉を聞いて、研究室が静まり返った。


「……あー、間違えちゃったー!」 


 お尻を両手で抑えるウノウを見て、その場にいた全員がずっこけそうになっていた。



 セリンはウノウを説得して、スキンスを研究室の奥へと案内した。


 そこは、資料や古い器具が積まれた小さな部屋だった。窓はなく、かろうじて二人が座れる程度の空間しかない。


「……相変わらずだな、ここは」


 スキンスは懐かしむように見回した後、本の山に腰を下ろした。


「文句言わないで。ふたりで仲良く外に出るわけにもいかないでしょ」


 セリンも向かいに座った。   


「それで、何しに?」


 セリンがそう口にした時、扉がノックされた。


「失礼します」


 シンが湯気を立てるハーブティーを、ふたつ持ってきた。


「ありがとう。ここに置いてくれる」


 セリンがそう言うと、シンは静かにハーブティーを木箱の上に置いた。


「失礼しました」


 シンはそう言って、部屋を出ていった。


 扉が閉まると、スキンスが口を開いた。


「この研究室に男……」


 スキンスは一瞬言葉に詰まった。


「まっ、まさか助手じゃないよな!?」


 その慌てぶりに、セリンはくすりと笑った。


「新しく手伝いに来てる人。庶務課の」

  

「庶務課?」


 スキンスは、何かを思い出した。


「あー、彼か。イケメンで有名な雑務」


「そうよ。シレリ教授が気に入ってね」


「へー、珍しい。あの研究一筋の教授が」


 その言葉を聞いて、セリンは誤魔化すように口を開いた。


「で、何の用事できたの? ウノウじゃないけど、あなたは今、確かに味方ではない位置づけなのよ」


 そう言われたスキンスは、カップを手に取った。


「冷たいねぇ。かつての仲間に対して」


 セリンもカップを手にした。


「確かに、ここで一緒に補佐を目指していた時期もあったわ。けど、今は違うでしょ」


「まーね……」


 スキンスは、視線を落とした。


「だけど、好きであのキンタマの補佐になったわけじゃないんだぜ」


 セリンは小さく笑った。


「俺が医術院(ここ)に残るために、どれだけあのキンタマの機嫌を取ったと思ってる」


「ちょっと、やめてよその呼び方」


 セリンはくすりと笑い、その表情を隠すように俯いた。


「シレリ教授は、同じ女性のために道を拓こうとした。そのために、この研究室から男を追い出した。それは理解できるし、悪い事とは思わない」


「……」


「そして、恨んでもいない。けど……」


 スキンスは、遠くを見るような目をした。


「俺は、ここで補佐になりたかったよ」


「……知ってるわ」 


 しばらく、沈黙が続いた。


「にしても…… レンベル教授は、マクレイ教授のキンタマか。ウノウもアトリアも相変わらずだな。廊下で会ったのに、キョトンとしてたぞ。まだ俺の顔、覚えてないみたいだ」


 セリンは微笑みながら、何度も頷いた。


「で、本題は?」


 スキンスは、カップを木箱に置いた。

 

「昨日の演説を聞いて、気になってね。シレリ教授のことが……」


 その言葉を聞いて、セリンは視線を落とした。


「今日は、休んでいるのかい?」


 セリンもカップを置いた。


「ええ。休んでいるわ。でも午前だけ。午後には来ると言ってたわ」


「そっか…… 不味いことになったな……」


 セリンは、何も答えなかった。


「マクレイ教授の元へ、朝早くから教授たちが押し掛けている」


 セリンは、スキンスに視線を戻した。


「どうやら、学長がこのまま居座り続けると、あいつらは本気で思っているらしい」 


 セリンは、再び視線を落とした。


「……俺も、学長が好きなんだけどな」


 学長が示した力は、自らの首を絞める綱でもあった。


 スキンスもセリンも、当然それに気づいていた。


「マクレイもレンベルも、気づいている」


「……そう。だけど、学長にはまだ深い考えがあるのかも知れないわ」


「かもしれない。そもそも学長の後ろ盾が何なのか、俺は知らない。まぁ、何となく想像はつく」


「……」


「その想像をさらに超える何かを持っているのかもしれない。だけどな……」


 スキンスは、つぶやいた。


「あの演説を、無にするような力があるとは……」


「……」


「思えない」


 セリンは俯いて、静かに答えた。


「……そうね」


「学長がどうしてあんな演説をしたのか、恐らくシレリ教授も分かっちゃいない。たぶん、本人にしか分からない」


「……そうね」


 視線を上に向けたスキンスの目に、見覚えのある物が映った。


 ……あれは。


 立ちあがって、山積みされた物の中から、本のような物を抜き取った。


「やっぱりだ。俺が書いた論文……」


 セリンは、懐かしそうに見つめるスキンスに視線を向けた。


「まだ置いてあったのか……」


 そう口にしたスキンスを見つめている。優しい瞳で。


「……ええ。その論文は、本当によく書けているわ」


 スキンスは、感慨深げな表情を浮かべた。


「今でも、参考にさせてもらってるの」


 その言葉で、スキンスの瞳が一瞬だけ揺れた。


「……そっか」


「……あなたは、本当に優秀よ。だから、学域も違うのに、あのキンタマの補佐にまでなれた……」


 しばらく、静かな時間が流れた。


「……なぁ、セリン」


「なに……」


「じつは、精神感応医術における共鳴閾値の測定とその応用の論文を書いているんだ」


 セリンは一瞬、息を止めた。


「……いつから?」


「半年くらい前からかな」


「……そう」


 セリンの表情が、わずかに緩んだ。


「形になったら、読んでくれるか……」


「いいわ。いつでも、持ってきて」


「ありがとう」


 スキンスは、小さく頷いた。


「それとな……」


「……なに?」


「さっき、キンタマって言ったよな?」


「……え。あっ!?」


 セリンは両手で口を覆い、急いで下を向いた。


 スキンスは、そんなセリンを見つめながら優しく微笑んだ。


 そして、手にしていた論文を、そっと元の位置に戻した。


  

 数分後。倉庫から出てきたスキンスに、ウノウが駆け寄った。


「しっしっ! 早く出てけー! 二度と来るなー!」


 ウノウに笑みを向けて、スキンスは研究室を後にした。


 廊下に出ると、窓から外を眺めた。


 昼近くの陽光が、校庭を照らしている。


 その時、門の方から馬車が入ってくるのが見えた。


 豪奢な装飾が施された馬車が止まり、従者が扉をゆっくりと開けた。


 降りてきたのは、セディリオだった。


 そして、その後に続いて降りてきたのは……


 ルーナか……


 二人は、何か言葉を交わしながら、並んで歩き始めた。


 スキンスは、その光景を静かに見つめていた。


「……やれやれ」


 窓枠に手をついて、小さく呟いた。


「困ったね。それじゃ、駄目なんだよ」


 スキンスは、しばらく二人の背中を見送った後、シレリ教授がまだ来ていないことをレンベル教授に報告した。

 


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