196 終演の喝采
ホールにはマクレイをはじめ、すでに多くの教授や補佐、助手たちが集まっていた。
講義を終えた後の静まり返った医術院で、この場だけが異様な熱気に包まれている。
その時、ホールの扉が開いた。
現れたのは、シレリ教授。そして、その後ろにはセリン、アトリア、ウノウ。
一番最後に現れるとは……
反学長派の教授たちの間に、苛立ちが広がった。今まで虐げてきたはずの者が、悠然と姿を見せた。その余裕が、何を意味しているのかは明白だった。
おのれ、調子に乗りおって……
マクレイは、静かに怒りを燃やしていた。
だが、さらにその怒りを煽るように、シレリの後ろに見慣れない二人の姿があった。
何者だあのふたりは……
ざわめきが広がる。
「あれは誰だ?」
「見たことない顔だな」
「新しい助手の話など、聞いていない」
囁き声が、波紋のように広がっていく。
「確かあのふたりは…… 庶務課の雑務ですよ」
誰かがそう呟いた瞬間、ざわめきが一段と大きくなった。
「雑務だと……」
その言葉がホール中に広がるのに、時間は必要なかった。
「なぜ、今ここに……」
「歴史あるこの場に、雑務を連れてくるとは……」
マクレイの顔が、怒りで歪んでいく。
だが、声を上げることはできなかった。普段であれば、シレリもろとも即座に排除していただろう。以前のように……
だが、今は状況が許さない。
なんという…… なんという屈辱だ……
マクレイは奥歯を噛み、拳を強く握りしめた。
それは、彼の長い人生の中で、初めてのことだった。
医術院の天才たちが集う中で、さらに選び抜かれたマクレイの補佐たちも、同じく屈辱を感じていた。
そして、レンベル教授も同様だった。ルーナと密かな関係を持つこの男も、マクレイと同じ屈辱に顔を歪めていた。その補佐たちも……
だが、その中でただ一人、平然としているレンベルの補佐がいた。
シレリ教授は、周囲から向けられる敵意に満ちた視線を涼しげに受け流しながら、堂々と歩を進めた。
ホールの一角には、すでに助手たちが席を確保して待っていた。シレリ教授がそこに腰を下ろすと、シンがその隣に、ユウがシンの隣に座った。そして、セリン、アトリア、ウノウが続いた。
まるで、シンとユウを両側から守るように。
着席しても、ざわめきは未だに収まっていなかった。
「シン……」
「うん?」
「なんか、異様な雰囲気だね……」
「そうだな。間違いなく俺たちが関係してる」
「だよね……」
ユウは視線を落とし、誰とも目を合わせないようにしていた。
だが、シンは逆だった。まるで周囲を挑発するかのように、見ている者たちと視線を合わせていく。そして、隣に座るシレリ教授の横顔を見つめた。
この人は、ずっとこういう視線を浴びてきたんだろう。それでも屈せず、今の地位を築いた。
だが、シンの目に、尊敬の色は浮かんでいなかった。ただ、静かに……
異様な空気が漂う中、壇上の袖から人影が現れた。
その瞬間、波が引くように静まっていく。
ゆっくりと壇上の中央に歩を進める学長の姿に、全員の視線が集まった。
ホールは完全な静寂に包まれた。
学長は、静かに集まった者たちを見渡した。
その視線は、一人一人を確かめるように、ゆっくりと動いていく。
彼らの視線は、決して好意的なものばかりではなかった。敵意、警戒、そして恐れ。様々な感情が、学長に向けられている。
そのすべてを受け入れ、学長は口を開く。
「諸君。いま、私たちは教育の形を問い直さなければなりません」
ざわめきが広がりかけたが、学長は構わず続けた。
「今の教育は、争いにも似た痛みを、人の心に刻んでいる」
当然だ。争いの中でこそ、強い者、優秀な者が残る。我々のようにな……
マクレイは、壇上の学長に鋭い視線を向けていた。
「少なくとも私は、誰かを追い出すつもりも、誰かの地位を奪うつもりもない」
数人の教授たちが、その言葉にホッと息をついた。
「私はただ、一つのことを思い出した。あまりに単純で、だが、もっとも大切なことだ。それを、この場で伝えたい」
学長は、一呼吸置いた。
「諸君は、なぜ教壇に立っている?」
ふん。己と国のために決まっておろう。
「なぜ教壇に立とうと思った? 地位のためか? 名誉のためか? 家名を高めるためか?」
それも含めてだ。
「だが、根本的な理由の多くは、こうだったはずだ。自分が学んだことを、次の世代に渡したい」
無論、研究者としての誇りはある。
マクレイは、わずかに目を細めた。
「教育とは何か。私は数十年、この問いと向き合ってきた。そして気づいたのだ。教育とは、選別ではない」
適性を見極めることこそ教育の第一歩だ。
「ふるい落とすことではない。壁を作ることでもない。門を狭めることでも、決してない!」
学長の声が、ホールに響き渡った。
「教育とは、灯を渡すこと」
その言葉に、空気が変わった。
「自分の中にある灯を、まだ持たぬ者に渡すこと。その灯は、やがて人の内で炎となる。 その炎が、また別の誰かに渡っていく。そうして、国が少しずつ明るくなっていく」
その通りだ。だが、すべての灯が国のためになるわけではない。一部で良いのだ。選ばれた者だけで……
「暗い場所があってはならない。光の届かぬ者がいてはならない。太陽が一部の者だけを照らすものでないように、学びもまた、すべての者に等しく届くべきなのだ」
マクレイは、学長の言葉を聞きながら、ふと気づいた。
この思想は……
いくら王族の後ろ盾があるとはいえ、学長が語っているのは、国の制度そのものへの反感だ。
これは、教育だけの話ではない。この国の根幹を否定している。私が知る限り、王族の中にこのような思想を持つ者がいるはずがない。つまり……
マクレイの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
貴様は、数合わせにすぎない。この医術院の学長という地位、その威厳を利用されているに過ぎない。仮に背後にいる者が王の座についたとしても、この思想は、間違いなく切り捨てられる。
「フフフフ」
哀れな男だ。何も得ることなく、お前は消えていく。せいぜい今のうちに吠えるがいい。愚か者め。
「誰しもが、心のうちに炎を持っている」
シレリは、学長の言葉を聞きながら、胸が締めつけられていた。その声には、一点の曇りもなかった。駆け引きも、政治的な意図も、何もない。ただ純粋に、教育を語っている。
「その炎を育て、絶やさず、より大きなものにしていく。それこそが、教える者の務めなのだ」
シレリは、ある重大な可能性に気づいていた。
だからこそ分かっていた。学長は近いうちに、教育の現場から排除されるだろう。学長自身も、それを分かっている。分かった上で、この場に立っている。
「人の可能性は、教育によって広がる。そして、その教育は、教える者によって決まる」
最後の最後まで、教育者として。
シレリの目から、涙がこぼれ落ちた。
気づくのが遅くて、申し訳ありません。学長……
「教えるとは、ただ知識を渡すことではない。人を育てることだ。それこそが、真の教育なのだ」
学長の演説が終わった。
マクレイは立ちあがり、静かに手を叩き始めた。
その顔には、余裕の笑みが浮かんでいる。
それは、称えているのではない。学長の終焉を確信した者の拍手だった。
今のうちに好きに語るがいい。お前の舞台は、光を浴びることなく幕を閉じる。
マクレイの補佐たちも、同じことに気づいていた。彼らもまた立ちあがり、静かに拍手を始めた。
他の教授や補佐たちは、マクレイの拍手に驚いていた。だが、戸惑いながらも、一人、また一人と立ちあがり、拍手に加わっていく。その真意に気づかず。
やがて、ホール全体が拍手に包まれた。
だが、シレリだけは立ち上がれなかった。
震える手で顔を覆い、声を殺して泣いていた。
シンは立ち上がらず、静かにシレリの傍に寄り添っていた。
教授……
セリンは、声をかけることもできず、ただ心配そうに見つめていた。
ホールには、称賛と空虚の混ざった拍手が、いつまでも鳴り響いていた。
そして、その扉の外にも、静かに手を叩く者がいた。
それは、エルドだった。
庶務課の人間に、この場に立ち入る資格はない。だが、学長の言葉を聞きたくて、どうしても足を止めずにはいられなかったのだ。
拍手をするエルドの目には、涙が滲んでいた。
研究室に戻ると、シレリ教授はしばらく窓の外を眺めていた。
誰も声をかけなかった。
やがて、シレリ教授は静かに振り返った。
「……心配かけたわね」
その目はまだ少し赤かったが、表情はいつもの穏やかさを取り戻していた。
「大丈夫ですか」
セリンが声をかけた。
「ええ。もう大丈夫よ」
シレリ教授は、小さく微笑んだ。
「シレリ教授」
シンが口を開いた。
「なに?」
「どうして俺たちを……」
一度俯いたシレリ教授は、ゆっくりと顔を上げた。
「あなたたちに来てもらったのは……」
少し間を置いた。
「正直に言うと、自分の覚悟のためだったの。あの場に足を運ぶ決心がつかなくて…… あなたたちがいれば、私も行かなければならないから」
シンとユウは静かに聞いていた。
「それと、もうひとつ」
シレリは、二人を真っ直ぐに見つめた。
「あなたたちにも、聞く権利があると思ったの」
「……俺たちにも、ですか」
「ええ。あなたたちを医術院に引き入れたのは、学長の判断だったのよ」
それでエルドさんは、僕たちに優しかったのかな……
ユウは胸の中で呟いた。
「この医術院に、魔法も使えない者をあえて受け入れた。学長は、あなたたちにチャンスを与えたかったの」
シンとユウは、顔を見合わせた。
「そのせいで、学長は随分と噂を立てられていたわ。あなたたちを引き入れて、国から補助金を得て私腹を肥やしているんじゃないかって……」
二人は言葉を失った。
「かくいう私も、学長には大きな恩があるの」
シレリは、遠い目をして続けた。
「学長がまだ学長になる前、教授会で私を教授にするかどうかの審議があったの」
シンとユウは、黙って耳を傾けていた。
「この医術院で、女性が教授になるなんて前例がなかった。当然反対の声ばかりで、審議は平行線のまま何週間も続いていたわ」
シレリは少し間を置いた。
「そんな中、前学長が突然お亡くなりになったの」
「……」
「後任として、学務次官の席と学長の座、両方に就くことになったわ。王立学務院本院からの推薦もあってね」
シンが静かに頷いた。
「そして、学長になって最初にしたことが、私を正式に教授に任命することだった」
シレリの声が、わずかに震えた。
「それが、学長の最初の改革だったの。表では新たな歴史を築いたと称賛されたわ。でも、陰での非難の声が大きかった。この医術院の歴史を壊した人として」
「それからは……」
「そう。学長になってからは、隠していた思想を次々と行動に移していった。以前よりも平民の受け入れを増やしたり、私が平民のウノウを補佐にできたのも、学長のおかげ」
シンは黙って頷いた。
「その改革は、強引ともいえたわ。その結果、教授会からの反発を招いた。そして、今は王立学務院からまでも……」
シレリの声が、自然と途切れた。
「……シレリ教授」
シンが静かに口を開いた。
「そんな素晴らしい人の言葉を聞くチャンスをくれて」
シンは真っ直ぐにシレリを見つめた。
「本当に、ありがとうございました」
シレリは、何も答えなかった。
ただ、その瞳が、優しく潤んでいた。
ミアはふたりを心配して、ずっと窓の外を眺めていた。
「……あ」
ふたりの姿が見えた時、思わず声が漏れた。
ミアは玄関へ向かった。
「おかえり」
扉を開けると、シンとユウが立っていた。
「ただいまー」
「ただいま。遅くなってごめん」
シンが言うと、ミアは首を横に振った。
「夕食は、食べてきた?」
ミアの問いに、シンとユウは顔を見合わせた。
その様子を見て、ミアは夕食を済ませてきたのだと感じた。
「実は、夕食は……」
ため息をつきそうになったミアに、ふたりは同時に答えた。
「食べてなーい」
「食べてませーん」
「え?」
ミアの表情が、驚きから笑顔に変わった。
「もうー」
「あははは」
「ごめんね、ミアちゃん」
「お腹空いてる?」
「めちゃくちゃ空いてる!」
「うん。すごく」
「じゃあ、直ぐに温めるね」
シンとユウが待つテーブルに、次々と温め直された料理が運ばれてくる。
「うー、美味い!」
「うんうん、美味しい!」
ふたりは夢中になって、バクバクと勢いよく口に運んでいく。
「あのね、今日は色々あってね」
シンが口いっぱいに頬張りながら言った。
「色々?」
「うん。それがね」
シンの口から、食べ物のかけらが飛んだ。
「ちょっとシン。飛んでる飛んでる」
ふたりのやり取りを見て、ミアが笑う。
「もうー、ふたりともー。あはは」
長かった一日が、ようやく終わろうとしていた。
深夜。
セディリオは、正面玄関に向かっていた。
そこには、従者がすでに馬車を用意して待っていた。
「すまない、こんな遅くに」
「いいえ。お気遣いなく」
馬車に乗り込もうとしたその時。
父の書斎に、明かりが灯っているのに気づいた。
耳を澄ますと、微かに話し声が聞こえる。
「……父に客が来ているのか」
「え? いえ、存じ上げません」
従者は、本当に知らない様子だった。
確かに話声が……
セディリオは、書斎の明かりを見つめた。
学務総監の父は、深夜に人を招くことなど、今まで一度もなかった。
「出発なさいますか?」
従者の声で、我に返った。
「そうだな…… 行こう」
セディリオは、馬車に乗り込んだ。
「はっ!」
従者の抑えた声とともに、馬車が静かに動き出した。
窓の外を流れる暗い景色を眺めながら、セディリオは考えていた。
気のせいではない。いったい、誰と話していたのだ。このような真夜中に……
答えの出ない問いが、胸の奥でくすぶり続けていた。




