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 195 研究室の午後


 シレリ教授の研究室には、重い静寂が漂っていた。


 研究室をあとにしようとしている生徒たちは、心配そうにシンを見つめていた。


「シン君、大丈夫なんですか……」


 ブリアが不安げに尋ねた。


「大丈夫よ。意識が戻るまで、私たちが見ているから」


 シレリ教授の穏やかな声に、ブリアは小さく頷いた。


 シレリ(教授)が言うなら、間違いないよね……


「シン君がどうなったか、明日教えてください」


 フィーネが、小さな声でそう言った。その表情には、自分に否があったのではないかという不安がにじんでいた。


「ええ、もちろん」


 生徒たちは何度も振り返りながら、一人、また一人と研究室を後にしていった。


 その背中を見送ったセリンが、助手たちに声をかけた。


「ごめんなさい。午後の講義、お願いできる?」


「はい。代わりに私たちが行きます」


 元々講義が入っていた者、そしてセリンとアトリアの代わりを務める者。助手たちも、シンの様子を気にしながら研究室を出ていった。


 ゆっくりと扉が閉まり、静けさが戻る。


 研究室に残ったのは、シレリ教授、セリン、アトリア、ウノウ、そしてユウだけだった。


 床に寝かされたシンは、まだ目を覚まさない。


 ユウはその傍らに座り、じっとシンの顔を見つめていた。


 シレリ教授は研究室の奥に視線を向けた。


「敷物をお願い」


 セリンとアトリアがシンの体を支え、ウノウが厚手の敷物をシンの下に敷いた。


「泊まり込みに使う敷物が役に立ったね。あーしは使ったことないけど」


 ユウはシンの傍らに腰を下ろし、心配そうに様子を伺っている。


 シンは以前にも同じようになったことがある。あの河原で…… けど、それをこの場で伝えていいのか…… たぶん、それは秘密で、口にしては駄目な気がする……


 ユウがそう考えていた時、シンの意識が戻る。


「うっ……」


「シン! 大丈夫!?」   


「……」


 シンの唇が小さく動く。何かをつぶやいているが、聞き取れない。


「え、なに?」


 ユウが耳を近づけると、もう一度シンの唇が動いた。


「し……」


 その瞬間、ウノウが声を上げた。


「死んじゃうの?」


 ウノウの一言でシンの言葉はかき消されてしまい、全員の視線が一斉にウノウへ向けられた。


「だ、だって。しって言うから…… ごめん!」


 ウノウが開き直るように顔を上げると、みんなの視線はすでにシンへ戻っていた。


「し……」


「ほらー、やっぱり死んっ、もごっもごもご」


 セリンが見兼ねて、後ろからウノウの口を塞いだ。


「し、しんどい……」


 シレリ教授がシンの傍らに膝をついた。そして、そっと手をかざし、静かに目を閉じた。


 シレリさん。また魔法を使っている。

 これは…… 目で見ているからじゃなくて、なんとなくだけど、感じるんだ。


 ユウは息を呑み、シレリ教授の手の動きを食い入るように見つめていた。


「シン君。倦怠感の他に気になることはある?」


「……いえ。しんどい、だけです」


「そう。ブリックしたけど異常は見られないから安心して」


 ブリック…… 医療魔法だよね。たぶんシャリィさんがシンに手をかざしていたのと同じ気がする……


 ユウの耳に、その言葉が強く残った。


「とにかく今は、ゆっくり休んでね」


 シレリ教授の声は穏やかだったが、その目は研究者のものに変わっていた。

 

 セリンとアトリアも、いつの間にかシレリ教授の隣に立ち、シンのイフトを探っていた。


 ……弱い。まるで、病人のように。  

 

 研究者としては、今すぐにでも質問攻めにしたい。三人ともそう思っていたが、今のシンの状態では、それは無理な話だ。


「もごっ、もごごごぉ」


「あ、ご、ごめん」


 セリンはシンに意識を向けるあまり、ウノウの口をずっと塞いだままだった。


「ぶっはー。あーしが死んじゃうところだったー!」


 シレリ教授は視線をシンに向けたまま、静かに口を開いた。


「ウノウ、シン君をお願いできる」


「はーい」


 三人は、シンたちから少し離れた場所に移動した。そして、声を落として話し始める。


「……イフトの著しい減衰。立てないほどの倦怠感」


 シレリ教授は、静かにつぶやいた。


 セリンとアトリアも、同じことを感じていた。


「アトリア」


「はい。私が調べたところ、ふたりは魔法の扱いが苦手とのことですが、日常的に生活魔法は使用しているようです」


 アトリアの報告に、シレリ教授は少し考え込んだ。


「なら、魔法に対するショック反応とは考えにくいわね……」


 アトリアが口を開いた。


「ただ、完全には否定できないかと……」


「そうね……」


「フィーネとの相性、つまり特定の者に対する拒絶反応という可能性はいかがでしょうか?」


 セリンが問いかける。


「イフトのアレルギー反応…… それも可能性としては否定できないわ。だけど……」


 シレリ教授は、シンに目を向けた。


 拒絶反応なら、フィーネの手は離れるはず。なのに、第三者(ウノウ)の介入があるまで、まるで一体化したかのように離れなかった。

 そして、あれだけの熱量を浴びてもフィーネは無傷。ウノウも、近くにいた生徒たちも、誰一人怪我をしていなかった。なぜ…… どうして…… 何らかの魔法が発動していたとも思えないのに……


 シレリ教授は、床から拾い上げて置いていた魔法石を見つめた。


 魔法石に問題があっただけかもしれない。けど、制御を完全に失っていたわけではない。だから、みんなが無傷だった。

 でも、何かに反応していたようにも感じた。だとすれば、何に……

 今まで何度もコルディアを経験してるフィーネに問題があったとは思えない。それなら、やはりシン君に問題があったと考えるのが妥当。


 ユウ君は、どうなのかしら……


「持病の有無は?」


 シレリ教授はアトリアに問いかけた。


「まだそこまでは……」


「そう……」 


 シン君に何が起きたのか、今はまだ何もわからない…… けど、ウノウ。二人を連れて来てくれて本当にありがとう。

 あなたをそばに置いたことに、やはり間違いはないわ。


 シレリ教授は、温かな眼差しをウノウに向けた。



 ユウは変わらず、シンの傍らに座っている。


「シン。お水飲む?」


「大丈夫だ。すまない、心配かけて」


「良くなってきた?」


「ああ、倦怠感が取れてきたよ」


 一緒だ。あの時も、しばらく休むと回復してた。

 けど…… どうしてシンは同じように倒れたんだろう。


 心配そうに見つめているユウは、突然ため息をついた。


「はぁー……」


 結局僕は、何も出来なかった。シンも僕も、別の世界からこの世界に来たのに…… シンはクレアトゥールという特別な力を持ってる。それなのに、僕は何も出来なかった。


 だけど、シレリさんがシンに手をかざしている時、何かを感じたんだ。確かに何かを…… 


 ユウの胸に小さな希望が灯ったその時、三人が戻ってきた。


「シン君、体調はどう?」


 シレリ教授が問いかけた。


「はい。だいぶ良くなっています」


 その言葉を聞いたシレリ教授は、アトリアに視線を向けた。

 すると、アトリアは指を4本立てた。


 事故から40分……


「回復の様子を記録してね」


 シレリ教授は、アトリアに向けて小さくつぶやいた。


 その時、ウノウが口を開いた。


「教授。以前経験した時って、誰か死んだの?」


「え? あ、三回経験したって話?」


「そそっ」


「あれは嘘よ」


「えー!? 嘘なのー!」


 驚いていたのは、ウノウだけだった。


「……どうしてみんな驚いてないのー?」


「状況を考えれば、なんとなく分かるでしょ」


 セリンが答えたが、ウノウはキョトンとしていた。


「教授―。どうしてそんな嘘ついたの?」  


「だから、今私が言ったでしょ。みんなを落ち着かせるためよ」

 

 セリンが呆れた様子で答えた。

 

 ウノウがアトリアに視線を向けると、小さく頷いた。


 次にユウに視線を向けた。


「ぼ、僕は確信があったわけじゃないですけど、もしかしたらって、思ってました……」


 ユウは少し俯きながら答えた。


 それを見たウノウは、今度は横になっているシンに視線を向けた。


「……なんですか?」


「気づいてたの?」


「何に?」   


「あー、なかまー! あーしと同じく気づいてなかったー!」


 ウノウが突然はしゃぎ始めた。

 

 いや、気を失ってたし。

 

 ウノウ以外の者は、同じことを思っていた。



 事故から数時間が経ったころ、シンはすっかり回復し、普通に動けるようになっていた。


「シン君。大丈夫?」


「はい。ご心配をおかけしてすみません。もうぜんぜん大丈夫です」


「そう。良かった。では、少し質問いいかしら?」


「はい」


「ここに座って」


 シンはシレリ教授の向かいに座った。


「以前にも、同じ様な経験はしたことあった?」


「同じような経験ですか……」


 シンは…… 何て答えるんだろう。


 ユウは固唾を呑んで見守っていた。


「ないです。初めてあんな感じになってびっくりしました」


 やっぱり隠した。僕も言わなくて良かった。


 ユウは密かに安堵した。


「ユウ君。すみませんがこちらでお話を」


 そう声をかけたのは、アトリアだった。


「あ、はい」


 シレリ教授は、シンへの質問を続けた。 


「そう。生活魔法は何を使ってるの?」

 

「普段はバニエラ、ビンツ、バルバ、フータとか、あとはベナァとか鍵とか。うーん、他にもあったかな……」


 最低限の生活魔法のみ……


「では、仕事でなにか魔法を使ったことは?」


「ないです」


 確かに少ないけど、極端に珍しいわけではないわ。


 少し離れた場所で、ユウも同じように質問されていた。


「生活魔法以外に何か魔法を使ったことはありますか?」  


「……いえ。ありません」


 この時ユウは、密かに緊張していた。


 アトリアさん…… こうやって正面に座って会話してみると、今までの印象と違う気が……


 ユウは、アトリアが俯いている間に、そっと見つめていた。


 とても、美しい人だ…… 


 アトリアが視線を戻して目が合うと、ユウは慌てて視線を逸らした。



 シンは素直に質問に答えていたが、ふと思い立ったように口を開いた。


「あのー、シレリ教授」


「なに?」


「俺も聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」


「もちろんいいわよ。もしかして私の私生活かしら?」


 シンは困ったように頬をかいた。


「あのー……」


 この子の前だと、つい口を滑らしたくなるわ。


「冗談よ。それで?」


 シレリ教授は口元を緩めた。


「この学校のことなんですけど」


「どうしたの?」


「すごく優秀な学校で、重要なところにここの出身の人がいるぐらいしか知らなくて……」


「あきれたわね。仮にも医術院の一員なのに」


「ええ。ですので、余計誰にも聞けなくて……」


 シレリ教授は小さく息をついた。


「いいわ。簡単にね」


「はい。お願いします」


「この歴史ある医術院にもともと入れたのは、王族や貴族、そしてそれに従する者たち。その中でも、本当にごく一部の優秀な者だけだったの。けど、今は平民も通っているわ」


 シンは真剣な表情で頷いた。


「ここでまず学ぶのは医術。けれど、それは皆を医者にするためじゃないの」


「違うんですか?」


「ええ。命の重さを知るためよ。人体という、人の現実を知るため。そして、一つの判断がどれほど重いかを学ぶため」


 シンはわずかに目を見開いた。


「医術は、ごまかしの利かない学問なの。知識が足りなければ救えないし、誤れば人を傷つける。情だけでも駄目、理屈だけでも駄目。見る目も、考える力も、責任も要るわ」


 ……なるほど。


「だからここでは、まず医術を通して、人に向き合うための基礎を叩き込むの。そこから先は、それぞれの才に応じて道が分かれる」


「どうやって分かれるんですか?」


「ここを修めたあと、さらに学ぶための場があるのよ。トルデと呼ばれているわ」


「トルデ……」


 ウノウさんが言ってた……


「ええ。そこで、自分がどの道へ進むのかを選ぶの。医者として研鑽(けんさん)を積む者もいれば、研究の道へ進む者もいる。学師になる者もいれば、国の中枢に仕える道を選ぶ者もいるわ」


「はぇー」


 シンは感心したように声を漏らした。


「むしろ、そこから先が本当の選別とも言えるかもしれないわね。ここで基礎を叩き込まれ、トルデでそれぞれの専門へ進む。そういう仕組みになっているのよ」


「好きな道に進めるんですね」


「もちろん、誰もが望んだ道へ進めるわけではないわ」


 シレリ教授の声音が、わずかに引き締まった。


「どの道にも、それぞれに求められる資質があるもの。才を認められた者だけが、その先へ進めるのよ。志だけで届くほど、甘い世界ではないわ」


「それに、身分もですか?」


「そう。家柄もね」


 シンは、小さく何度も頷いた。


「たしかに平民にも門は開かれたわ。けれど、門をくぐれたことと、その先で貴族と同じように扱われることは、別の話よ」


 シンは少し間を置いてから、口を開いた。


「そういえば、ウノウさんは貴族ではないと聞きました」


「……そうね」


「補佐や助手の選任は、教授の一存なんですよね?」


「完全に一存ってわけでもないのよ」


「それなのにシレリ教授は、平民であるウノウさんを補佐に選んだ……」


「やめなさい、そういうの。今はそんなことを聞きたかったわけではないでしょ」


「いえ」


「え?」


「これも、すごく聞きたかったことのひとつなんです」


 シレリ教授の頬がわずかに緩んだその時、研究室の扉がノックされた。


「失礼します。通達です」


 事務員が一枚の紙を差し出すと、セリンが受け取った。


「ありがとうございます」


 事務員は軽く頭を下げると、すぐに去っていった。


 セリンが通達に目を通した瞬間、その目が大きく見開かれた。


「きょっ、教授!」


 思わず声を上げたセリンに、全員の視線が集まった。


 シレリ教授はシンへの質問を中断し、セリンから通達を受け取った。

 

 その内容に目を通すと、シレリ教授もまた、息を呑んだ。


 本日、ホールにて協議の場を設ける。参加は各自の意思に委ねる。


 それは、学長の名で記されていた。


 学長……


 この時、シレリの胸に複雑な思いが渦巻いた。


 学長は、長いあいだ沈黙の中で生きてきた。改革への想いを胸に秘めたまま、学長の座に就くその日まで、じっと耐え続けていた。


 そして、念願の学長になっても、反対派の力は強く、一歩踏み出せば潰されかねない。そんな苦悩の日々が、どれほど続いたことか。それでも、水面下で少しずつ動いてきた。


 そして、自ら一石を投じ、ついに表舞台に立つ時が来た。


 シレリは、この日を待ち望んでいたはずだった。なのに、胸の奥が締めつけられる。


 この場を離れたくない。

 

 それは、研究者としての性が邪魔をしているのだと、強く自分に言い聞かせた。


「シン君……」


「はい?」

 

 シレリは、自分の背中を押すために、ある決断をした。




 辺りが暗くなり始め、下宿先では、ミアが窓の外を眺めていた。


 ……遅いなぁ、ふたりとも。いつもならとっくに帰ってきてるのに。


「珍しいね、こんなに遅いのは」


 スカイラーが、テーブルに皿を並べながら言った。


「うん、そうだね」


 ミアは窓から離れ、椅子に腰を下ろした。


「先にいただこうか」


「うん。そうしよう」


 ふたりは先に食事を始めた。だが、ミアはスプーンを持ったまま、ちらりと玄関の方に目を向けた。

 

 お昼も研究室が用意してくれたって言ってたし、夕食も向こうでなのかな……


 ミアは、小さくため息をついた。



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