194 コルディア
研究室の扉が、ゆっくりと中から開いた。
すると、そこには予想外の光景が広がっていた。
なっ!?
シンの視線は、ある一点に釘付けになっていた。
例の何に使うのかわからない奇妙な器具に、ユウはちょこんと座っていたのだ。
……ユ、ユウ?
ユウは困ったような、照れたような、それでいて嬉しそうな、なんとも言えない表情を浮かべて、チラリとシンを見た。
「な、なんだー、その顔?」
その声に反応して、ユウの周囲に立っていた者たちの視線が、一斉にシンへと向けられた。
時間が止まったかのような、一瞬の静寂。
そして、次の瞬間。
「キャー、あの人よ!」
「あー、いつも中庭で落ち葉集めしてるイケメンさんだー」
「ユウ君がいるから絶対いると思ってたわ」
「この人があの…… 確かにかっこいいわね~」
ユウを囲むように立っている十数人。その全員が、女性だった。
シンの中で、一瞬走った緊張が、華やいだ空気へと変化した。
「ねぇねぇ、早く入ってきて」
「そうですわ。ぼーっとしてませんと、お入りになって」
「もしかして、私に見惚れてるのかしら」
戸惑うシンの視界の端に、見覚えのある顔が映った。
あ、あの子は……
それは、ルーナの親友であり、ティーソワレに誘ってくれたブリアだった。
「あら、ティーソワレではお会いできませんでしたけど、私たち、やっぱり縁があるみたいですね」
そう口にして、ブリアは微笑んだ。
立ち尽くしていたシンの腕を、扉を開けたウノウが無造作に掴んだ。
「なにしてるのー。早く入ってー」
そう言って、そのまま研究室の中へと引きずり込んだ。
扉が閉まった瞬間、生徒たちがシンの周りに集まってきた。
「彼女いるんですか?」
「どこにお住まい?」
「以前すれ違ったのを覚えてます?」
次々と質問が飛んでくる。
その勢いに押されたウノウは、いつの間にか輪の外へと弾き出されていた。
「あ、あーしが連れてきたのにぃー!」
ウノウの抗議の声は、誰にも届いていなかった。
「ねぇ、お名前! お名前教えて下さる?」
キラキラとした目で見つめられ、シンは戸惑いながらも答えた。
「あ、えっと…… シン・ウースです」
「シン……」
「シンさん……」
生徒たちは、その名を噛みしめるように呟いた。
「素敵な名前ね」
「うん。すごく響きがいいですわ」
「シンって、なんか誠実そう」
「同意ですわ」
口々に感想を述べる生徒たちを前に、シンは愛想笑いを浮かべるしかなかった。
すると、生徒のひとりが声を上げた。
「ねぇ、どうせならシン君を先に座らせてみない?」
「あ、いいね!」
「賛成!」
「うんうん、そうしよう!」
あっという間に、賛同の声が広がった。
そして、生徒たちの視線がユウへと向けられる。
「ユウ君、ごめんなさいね。ちょっとかわってもらっていい?」
「あ、うん……」
ついさっきまでアイドルのように囲まれていたユウは、あっさりと器具から立たされた。
うん。シンが戻れば、こうなることは分かってたよ……
そう心の中で呟きながらも、どこか寂しげな、それでいて納得したような、またしても、なんとも言えない顔をしていた。
「はい、シン君ここに座って」
「え、あ、はい……」
シンが座ったのを確認した一人の生徒が、声を上げた。
「ウノウせんせーい。魔法石をお借りしますね」
その生徒が、魔法石を取りに行った。
……教授は不在で当然許可もないけど、止めないでおこうかしら。
すべてを見ていたセリンは、心でそうつぶやいた。そして、席を立って、奇妙な器具に座らされたシンの近くに歩みよった。
そんなセリンとは対照的に、アトリアは離れた場所から見ていた。
なんだこれ…… おかしな座り心地だ……
戸惑うシンの元へ、魔法石を持って生徒の一人が戻ってきた。
すると、他の生徒が直ぐに口を開いた。
「ねぇ、私にやらせて!」
「だーめ」
「では、私に変わってくださる?」
「だから、だーめ。私が最初に言ったんだから、私がするの」
「えー、フィーネいいな~」
いったい、何が始まるんだ……
「シン君。私の名前はフィーネといいます」
「あ、はい。フィーネさん」
「そっ。20歳で、彼氏はいません」
「まぁ、随分と積極的ですこと」
周囲から、クスクスと笑い声が漏れた。
「コルディアは初めてだよね?」
……コルディア?
「あ、うん。は、初めてです」
シンのきょとんとした表情を見て、フィーネは心でつぶやいた。
うふふ。かわいいー、この人……
シンが座らされた器具は、向かい合わせに座る二つの座面を持っていた。片側には、任意で腕と足を固定できる革のベルトがついている。そして、その中央には魔法石をセットする台座があった。
「規則なので固定させてもらいますね」
フィーネは、シンの腕と足を器具に固定しようと手を伸ばす。
「ねぇ、手伝っていいでしょ」
他の生徒が、ここぞとばかりに声をかけた。
「え?」
うーん。私がしたかったけど、独り占めするのもね…… ゆずってあげよう。
「うん。手伝って」
すると、6人もの生徒が、シンの手と足に群がった。
「私、右腕やるね」
「じゃあ私は左腕」
「足は私たちがやるから」
「お手伝いしますわ」
ぼ、僕の時と全然違う。分かってはいたけど、正直、う、うらやましい……
ユウは、そう思いながら見ていた。
「シン君、ここ痛くない?」
そう言いながら、指先でシンの手首をそっと撫でるように確認した。
「お肌きれーい」
「えっ? わ、私もベルトの確認しないといけないわね」
気づけば、シンの腕には何本もの手が伸びていた。
「足の固定もちゃんと確認しますね」
「そうですわ。大事ですもの」
ズボンの裾から手を滑り込ませ、ふくらはぎに触れた。
「え!? 私よりも毛がなくてすべすべなんだけど!」
「あなた剛毛なの?」
「違うって。シン君がつるつるなの」
「あら、それは確認が必要ですわ」
「私も確認する!」
次々と手が伸び、シンの足は完全に生徒たちに占領されていた。
「はいはい、そこまで」
見かねたセリンが、口元に小さく笑みを浮かべながら、やんわりと制した。
すべての準備を終えると、フィーネは器具のもう一方の座面に腰を下ろした。胸の高鳴りを抑えきれないのか、頬を少し赤く染めながらシンと向かい合う。
「じゃあ、始めるね」
そう口にしたあと、フィーネは魔法石をセットした。
そして、シンの両手にそっと自分の手を重ねた。
うわー。本当にすべすべで柔らかい。女の子の手みたい……
「いいな~」
生徒のひとりから、羨ましそうな声が漏れた。
「コホン。シン君。目を閉じて」
素直に従い、シンは目をそっと閉じた。
それを確認したフィーネも、おなじようにそっと目を閉じた。
魔法だ。今から魔法を使うんだよね……
その様子を、ユウは緊張した面持ちで見ていた。
「では、いきます」
フィーネが優しく、落ち着いた声で唱える。
「……コルディア」
その瞬間、シンの中に明らかな変化が見られた。
なっ!?
一瞬、呼吸が止まったかのような息苦しさ。
心臓を直接鷲掴みにされたような衝撃。
全身の血液が、一気に逆流するかのような感覚。
こっ、これは!!
腕と足が、意思とは無関係に、革のベルトを引きちぎらんばかりに抵抗していた。
声を上げようとしても、言葉が出ない。
視界が、白く霞んでゆく。
こっ、この感じ。似てる…… あの時と。や、ばい……
シンの脳裏に、この世界に来た直後の記憶が蘇った。初めて魔法を生み出したあの河原、身体を駆け巡ったあの衝撃が。
「じゃあ、質問するね」
フィーネが何を聞くのか、その場にいる全員が固唾を呑んで見守っていた。
「私のこと、好き?」
その質問に、周囲がざわめく。
「フィーネったら」
「いきなり聞くそれ?」
「攻めましたわね」
しかし、シンからの返事が伝わってこない。
沈黙が、一秒、二秒と続く。
おかしい。
「キャー!」
突然の悲鳴を聞いて、フィーネの表情から笑みが消え去り、目を開けた瞬間。
正面にいるシンの顔から、完全に血の気が引いていた。
白目を剥き、歯を食いしばり、全身が激しく痙攣している。革のベルトがギシギシと悲鳴を上げていた。
「いっ、いやぁぁぁ!!」
フィーネの悲鳴が、研究室に響き渡った。
必死に手を放そうともがくが、まるで一つに繋がってしまったかのように離れない。
この時すでに、中央の魔法石が不気味な光を帯び始めていた。
「どいて! どきなさい!!」
パニックになった生徒たちを押しのけ、セリンの手が魔法石に伸びる。
「シン! シン!!」
ユウも助けようと必死に近づく。
だが、魔法石は異常な光と灼熱の熱気を纏い、ふたりとも触れることすらできない。
「なぜ!? なぜなの!? 自律的に制御されるはずなのに!?」
セリンの声が、悲鳴に変わった。
フィーネは灼熱に耐えきれず、身体を大きく後ろにのけぞらせていた。
ユウは諦めずに、何度も手を伸ばした。
ぼ、僕は! この世界の人間じゃない! なにか、特別な力が、力があるはずだ!
「あるはずなんだぁー!」
ユウの必死な雄叫びが、研究室に響き渡った。
だが、まるで見えない力に押し返されるように、近づくことすらできない。
「お願い外れて! お願い!」
セリンは椅子を掴み、力任せに魔法石へ叩きつけた。だが、びくともしない。
「どいて、セリン!」
その声に驚いて、セリンが振り返る。
いつの間にか、ウノウが背後に立っていた。
ウノウはユウを突き飛ばし、続いてセリンも押しのけた。そして、異常な光を放つ魔法石に手を伸ばした。
「ウノウ! 触っちゃだめ! 手が、手が溶けてしまう!」
セリンの制止も虚しく、ウノウはその表情を苦痛で激しく歪めながら、指先を魔法石に近づける。
「ううううぅ!」
一センチ、また一センチ。灼熱の中、ウノウの指先がじりじりと迫っていく。
「うううううあー!!」
そして、ウノウの指先が魔法石に触れた、その瞬間。異常な光がふっと消え、溶けるほどの熱も嘘のように消え去った。
フィーネの手が離れた瞬間、魔法石が床に転がった。
その直後、シンの体が糸の切れたように崩れた。
「シン君! 大丈夫!?」
セリンがシンの元へ駆け寄り、革のベルトを外す。
その光景を、シレリ教授は開け放たれた扉の向こうから見ていた。
特別な休憩室のスタンサーでは、昼食の時間を迎えていた。
モヒュランとヘルコットは、窓際のテーブルで食事を共にしていた。
そこへ、フレンが近づいてきた。
「モヒュラン様。ご報告がございます」
「なんだい」
モヒュランは、フォークを置いた。
フレンは、一瞬だけヘルコットに視線を向けた。
「かまわない。言え」
「僕に話してくれた件だね」
ヘルコットは、すでにモヒュランから聞いていた。
「例の件ですが、ご指示通り、中庭に石をばらまいておきました」
「ご苦労」
「ですが……」
フレンは少し言いづらそうに続けた。
「あのふたりではなく、別の者が片付けておりました」
「別の者?」
「はい。なにやらぶつぶつと文句を言いながら、一人で石を拾い集めておりました」
モヒュランとヘルコットは、顔を見合わせた。そして、同時に吹き出した。
「ぶっ、ぶはははは」
「そいつも災難だな」
「まったくだ。とんだとばっちりだね」
ふたりは声を上げて笑った。
フレンも、愛想笑いを浮かべていた。
医術院の外にある小さなカフェ。
ルーナは、ひとりで昼食を取っていた。
温かいスープを口に運びながら、ぼんやりと窓の外を眺める。
「ルーナ」
聞き覚えのある声に、顔を上げた。
セディリオが、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「相席しても、かまわないかな」
ルーナは、しばらく無言でセディリオを見つめていた。
「……どうぞ」
ルーナが答えると、セディリオは静かに向かいの席に腰を下ろした。
その所作は、無駄がなく、どこまでも洗練されていた。
「急に声をかけて、驚かせてしまったかな」
「いいえ。別に……」
ルーナは、スプーンをそっと置いた。
「実は、きみを誘いたくてね」
「誘う…… 何かしら?」
「この時期、北の丘陵にある、出来始めの氷柱が美しいんだ。朝日を受けて、まるで宝石のように輝く」
セディリオは、窓の外に視線を向けた。
「馬車で行けば、数時間ほどで着く。もしよければ、一緒にどうかな」
ルーナは、言葉に詰まっていた。誘いを受けるべきか、断るべきか。
心の中で、迷いが渦巻く。
「……いつかしら?」
「出発は、明日の深夜」
氷柱を見てから戻れば、最低でも午前の講義には間に合わない。
「……優等生のあなたが、さぼるつもりなのかしら? 積み上げてきたものに傷がつくわよ」
「何も問題はないさ」
ルーナは、セディリオを見つめる。
「君との時間は、それ以上の価値がある」
セディリオは、優しく微笑んだ。
「……見てみたいわ。その氷柱を」
その答えを聞いて、セディリオは満足そうに微笑んだ。
「では、深夜3時に」
「ええ」
セディリオが立ち去ったあと、ルーナはまだ温もりの残るスープを見つめながら、静かに息を吐いた。
これでいいのね、ブリア……
騒ぎの声が聞こえた両隣の研究室から、助手が確認のために出て来た。
それに気づいたシレリ教授は、扉を閉めた。
「すみません、シレリ教授。大きな声が聞こえたのですけど、大丈夫ですか?」
右隣の研究室の助手が、心配そうに尋ねた。
「ええ、何の問題もないわ」
シレリ教授は、穏やかな表情で答えた。
「何かあったのですか?」
「あれですよ」
「……なんでしょうか?」
左隣の研究室の助手は、首を傾げた。
「庶務課に、お顔のよろしい新人が入った話を聞いてる?」
「いえ、すみません」
もう一人の助手が口を開いた。
「私は知ってます」
「その子が今来てるのよ。それで生徒がいつもよりハシャいだみたい」
「あー、そういうことですか」
助手は納得したように頷いた。
「そんなにかっこいいんですか? 私も見てみたいです」
「今度見にいらっしゃい。今の研究室を辞めたらね」
「それは、冗談きついです」
助手は苦笑いを浮かべた。
「私はあなたを高く評価してるのよ」
シレリ教授は、もう一人にも視線を向けた。
「あなたも」
「では、補佐になれなかったら拾ってください。それでは、失礼します」
ふたりは、それぞれの研究室に、笑顔で戻っていった。
両隣の扉が閉まるのを確認してから、シレリ教授は自分の研究室に入った。
「きょ、教授! コルディアの最中に事故が起きてしまって……」
「セリン、落ち着いて。途中からだけど見ていたの。詳細は後で聞くわ」
「……はい」
シレリ教授は、床に寝かされたシンを見つめた。
「シン君の容態は?」
「呼吸も心拍も安定していますが、意識が戻らなくて……」
「見せて」
シレリ教授は、心配そうに見守るユウのすぐ横で、シンの容態を確認した。
……ま、魔法だ! 今、シレリさんは、魔法を使っている!
ユウは、その様子をじっと見つめていた。
「大丈夫そうね」
その一言で、ユウはホッと胸を撫で下ろした。
「今は、油断せずに意識が戻るのを待ちましょう」
そう口にした後、シレリ教授はフィーネに声をかけた。
「フィーネ。大丈夫?」
「は、はい。それが、すごく熱さを感じていたんですが、今はどこも痛くなくて……」
「そう。良かった。怪我はしてないのね?」
「はい…… 不思議なくらい、ぜんぜん……」
次に、ウノウに視線を向けた。
「ウノウ……」
「あーしも全然平気」
「そう。良かった……」
シレリ教授は、安堵の息を漏らした。
それから、他の生徒や助手たち全員に視線を向けた。
「怪我をしている人はいない?」
「確認しましたが、大丈夫です」
アトリアが、研究室の奥で小さく呟いた。
結局、あれほどのことが起きたにもかかわらず、誰一人怪我をしていなかった。
「みんな、初めてのことで怖かったでしょう?」
その言葉に、ほとんどの者が頷いた。
「けど、似た例は過去にもあったの」
その言葉で、生徒や助手の表情が幾分か和らいだ。
「私も一度ではなくて、三回経験してるわ」
「三回もですか?」
助手のひとりが、驚いたように声を上げた。
「そう。だから、それほど珍しいことでもないの。とにかく、怪我がなくて良かったわ」
「……はい」
「今日の研究はお休みにしましょう。生徒は少し休んだら帰っていいわ」
「はい。わかりました」
「補佐と助手は、私と共に原因を究明するわ。忙しくなるわよ」
「はい。わかりました」
シレリ教授は、ユウに視線を向けた。
「ユウ君も、残ってくれる?」
「もっ、もちろんです!」
シレリ教授は微笑みを浮かべ、静かに頷いてみせた。
胸の内に渦巻く不安を、悟られぬように。




