199 硝子の箱庭
この日の午前、冬の陽射しはどこか弱々しかった。
凍えるような寒さの中、一軒の家の前に、一人の女性が立っていた。
その人は静かに佇み、目の前の家を見つめている。
「ヒューゥー」
冷たい風が、彼女の髪を揺らした。
何度も冬の風が、耳元を通り過ぎていく。
彼女は、顔にかかった髪を、そっと指で払う。
やがて、ゆっくりと扉を叩いた。
「はーい」
家の中から、明るい声が返ってきた。
その頃、医術院の中庭では、オニスが石を拾い集めていた。
「くそっ…… 三日連続かよ……」
その様子を、窓から二人の男が見ていた。
「あはははは」
「ふはははは」
モヒュランとヘルコットは、周囲を気にすることなく大きな声で笑っていた。
「あいつか、哀れな犠牲者は?」
「なかなかどうして、この配役にぴったりの見た目をしているじゃないか」
「そうなんだよ。僕も想像していた通りなんだ。不幸を呼び込む人物には、まさにうってつけの役どころだ。ふははははは」
オニスは石を拾いながら、歯を食いしばっていた。
明日は早朝から来て現場を押さえてやる! 見てやがれ!
「と、思っているんじゃないのか彼は。あはははは」
「たぶんね。ふはははは」
オニスの怒りは、笑い声にかき消されていた。
レンベル教授の研究室で、スキンスは一人だった。
助手も、教授も、他の補佐も、全員が講義やその他の用事で席を外していた。
静かな研究室で、スキンスは一睡もせずに論文を書き続けていた。
セリンとの久しぶりの会話。小さな倉庫に残されていた自分の論文。
それが、スキンスを駆り立てていた。
その時、ゆっくりと扉が開いた。
「失礼します」
スキンスは、静かにその人物に視線を向けた。
それは、ルーナだった。
「すみません。レンベル教授は?」
「……今は、席を外している。渡すものがあるなら私が預かる」
「それでは、お願いします」
スキンスの机に、直した論文を置いた。
ルーナは会釈をして、扉へ向かった。
スキンスは、その背中を目で追っていた。
「……少し、いいかな?」
ルーナは、振り向いて返事をした。
「はい……」
スキンスは、しばらくルーナを見つめてから口を開いた。
「きみが教授に近い立場にいることは、もちろん知っている」
ルーナの表情が、不快そうに歪んだ。
「……は?」
「あ、いや。誤解しないでくれ。咎めたいわけじゃない」
ルーナは、険しい表情でスキンスを見ている。
「私は元々、精神感応医術学にいたせいか、人の心が気になってしまう」
「……何がおっしゃりたいのですか」
「いや、すまない。余計なことだった」
立ち去ろうと振り向いたルーナに、スキンスの言葉が投げかけられた。
「自分を偽る必要はない」
その言葉で、ルーナの足が止まった。
「きみは今、周囲に反対されて自分を見失いかけている。違うか?」
「……」
「どんな困難があっても、自分の心に正直でいることが、後悔しない生き方だと私は……」
スキンスの言葉が、一瞬止まった。
「私は…… そう、思う」
ルーナは、ゆっくりと振り向いて、静かに俯いているスキンスを見つめた。
シレリの研究室で、シンとユウは今日も手持ち無沙汰だった。
掃除や片付け以外の指示はなく、ウノウと一緒に虫にエサをやっている。
「ほら、虫さんたちー、ご飯だよー」
「この虫、なんていう名前ですか?」
「んー、フータ」
シンは一瞬、困惑の表情を浮かべた。
「……違い、ますよね?」
その疑問に、ウノウはすぐに答えた。
「バレちゃったー」
冗談か本気か分かりにくいな……
冗談だったんだ……
同じことを思ったシンとユウは、顔を見合わせて小さく笑った。
「この虫たちには、感情はあるんですか?」
シンの質問に、ウノウは即答した。
「ないないない。だって虫だよー」
そこに、ひとりの助手が口を挟んだ。
「今エサをあげてるじゃないですか」
ユウは、助手の顔を見て少し考えた。
えーと、この人の名前は…… ミネさんだ。
「はい」
ミネの言葉に、シンが返事をして頷いた。
「この近づいている時の行動を観察するとね、ただの反射以上のものがあるように感じられるのね」
「へぇ~」
シンとユウは、ケースを覗き込んだ。
「それは、嬉しいと呼べるほどはっきりした感情ではなく、もっと小さく、もっと古い反応」
「古い反応……」
ユウがぼそっと呟いた。
「そう。感情の原型のようなものと言われているんですね」
うーん、難しいな……
「虫たちは小さな体で世界に反応し、快と不快、安全と危険のあいだを選んでいるように見えるのね」
確かに虫は捕まえようとすると逃げる。けど、それって感情なのかな……
「虫にも感情があるのかもしれないと言うなら、それは人間と同じ感情ではなく、生命が世界に反応するときに生まれる、いちばん古いかたちかもしれませんね」
うーん…… よくわからない。
首をかしげているユウの隣で、シンが口を開いた。
「つまり…… 人の心になる前の、心みたいなものがあるってことですか?」
「心、と言えるかは分かりません。ただ、まだ名前のついてない、感情の一歩手前にあるもの。そういう感じでしょうかね」
「これって、立証できないんですよね?」
「はい。無理ですね」
シンの質問に、ミネはあっさりと言った。
俺に使われたあの魔法は、おそらく人の感情反応を微細に感知するもの。だが、虫には通じない。それは、虫に感情がないからか。それとも、あの魔法が人にしか反応しないからか……
「虫以外では、どうでしたか?」
「動物も試してはみましたが、人に見られるような反応は確認できませんでした」
……動物に感情がないとは思えない。
「でも、反応がないからといって、その…… そこに心がないとは限らない…… ですよね?」
「……はい。その通りですね。なぜ人だけなのかは、まだ分かっていません」
分かってない……
ミネさんたちは、コルディアの魔法そのものに限界があるとは考えていない……
なぜ……
「だから、こうやって観察した行動を記録し、仮説を立て、論文にして議論するんです」
それに、人だけか……
それは、どこまでを指す言葉なんだ…… この世界には、人以外の種族もいる。
気になる。
けど、これ以上聞くのはやめておこう。
ミネは、ケースの中を這う虫たちを見つめた。
「証明できないから考えない、ではなく、証明できないものにどう近づくか…… ですね」
シンとユウは、もう一度ケースの中を覗き込んだ。
そして、エサに群がる虫を興味深く見つめた。
その時、アトリアが研究室に戻ってきた。
「おかえりなさーい」
ウノウが声をかけたが、アトリアは軽く頷いただけで、静かに席についた。
やがて、昼を告げる鐘が鳴った。
講義を終えた助手たちが戻ってきた。
少し遅れて、セリンも姿を見せた。
アトリアとセリンは目を合わせると、二人は何も言わず、そのまま教授室へ入っていった。
「あーしはのけ者ー! ブーブー」
すねるウノウを見て、助手たちが微笑んでいた。
届いた昼食をシンとユウが助手たちと一緒に並べていると、セリンとアトリアが教授室から出てきた。
「ちょっと出てくるわ。私とアトリアの昼食、誰か食べてくれる?」
「あーしが食べる―!」
ウノウが嬉しそうに手を挙げた。
「それと、私とアトリアの午後の講義もお願いできる?」
助手のひとりが、予定表を確認して返事をした。
「はい。大丈夫です」
「ありがとう」
セリンとアトリアは、そのまますぐに研究室を出ていった。
シンとユウは、その背中を見送った。
「……何かあったのかな?」
「うーん…… 急いでいるみたいだったね」
その時、研究室の扉が勢いよく開いた。
「失礼しまーす!」
研究室に所属してる生徒たちが、次々と入ってきた。
「あれ、まだお昼も食べてないのよ」
助手が驚いて声をかけた。
「すみません。でも、早く来たくて」
「私もです。すみません」
生徒たちの視線が、シンに向けられた。
「シン君。これ、良かったら食べてください」
フィーネが、包みを差し出した。
「お菓子、作ってきたの」
「あ、ありがとう」
ブリアも負けじと包みを取り出した。
「私も作ってきたの」
「ど、どうも。ありがとう」
それを見て、ユウは懐かしく感じていた。
元の世界の建築現場でよく見ていた光景だ…… シンは、この世界でも変わらずモテる。
いつも言葉使いが丁寧なエレノールが、シンの隣の椅子に突然座った。
「私は何ひとつご用意しておりませんの。母が、厨房に立つことをお許しくださいませんでしたから」
そう言って、シンが手に持っていた物を強引に奪い取った。
「あっ。そ、それ今から……」
困っているシンに、奪い取ったスプーンでスープをすくって、口元に運んだ。
「どうぞ、お召し上がりくださいませ」
「え…… いや、あの……」
「お熱いようでしたら、冷ましましょうか?」
そう言って、エレノールはふうふうとやさしく息を吹きかけた。
その様子を、生徒たちも助手も固唾を飲んで見守っていた。
「さあ、どうぞ」
シンは戸惑いながらも、せっかくの行為を無駄にしては悪いと思い、ゆっくりとスプーンを口に含んだ。
「……美味しいかしら?」
「はい。とても……」
「とても…… うふ。おじょうずですこと」
エレノールが満足そうな笑みを浮かべた瞬間、生徒たちが一斉に声を上げた。
「エレ、交代して。次、私ね!」
「じゃあその次は私!」
「私もしたい!」
エレノールの後ろには、自然と順番が出来ていた。
そんな中、フィーネとブリアはユウに声をかけた。
「ユウ君もどうぞ」
ふたりはお菓子をユウに差し出した。
「え? ぼ、僕にも…… ありがとうございます」
それを見ていたウノウが叫んだ。
「あーしのは!? あーしのはどこ!」
「補佐のはないですよ。たぶん…… いえ、絶対」
助手の一言で、研究室に笑い声が響いた。
その時、教授室の扉がわずかに開いていた。
シレリも笑みを浮かべて、その光景を見守っていた。
そして、静かに扉を閉じた。
昼食の休憩が終わろうとしている頃。
学長室には、教授たちが足を運ぶようになっていた。
「教育に身分や貧困で差があってはいけない」
学長は、訪ねてきた教授や補佐に、熱心に教育論を説いていた。
あれほどの演説をしても、学長は今日もここにいる。
王立学務院には、とうに報告が届いているはずだった。
それでも、何の処分も下されない。
それにより、自然と学長室を訪れる者が増えていった。
まるで、風向きを伺うかのように。
だが、あれほど学長を慕っていたシレリが、姿を見せることは一度もなかった。
夕刻になっても、セリンとアトリアは戻ってこなかった。
生徒がひとり、またひとりと帰っていく中、助手が指示を仰ごうと、教授室の扉をノックした。
だが、中にいるはずのシレリから返事がない。
戸惑っていると、ウノウが突然扉を開けた。
「教授、何してんのー? もう帰るよー」
ウノウの呼びかけにも、机に向かっているシレリは何も答えない。
その様子を見て、ウノウはシレリに近づいた。
研究室から、助手たちが心配そうに見守っている。
まるで、今から起きることが分かっているかのように。
ウノウは大きく息を吸い込んだ。
「スーーーゥ」
そして、シレリの耳元で叫んだ。
「教授ーー!」
「キャーー!」
シレリは、驚きのあまり椅子から転げ落ちてしまった。
「うひゃひゃひゃひゃひゃ」
床に座り込むシレリを見て、ウノウは爆笑していた。
しばらく呆けていたシレリは、床に落ちた魔法石を手に取った。
それから、ゆっくりと立ち上がり、椅子に座り直した。
「ウノウ」
「はーい」
「今は遊ぶ気分じゃないの。出て行って」
その言葉を聞いて、ウノウはしょんぼりして研究室に戻ってきた。
「うー……」
助手たちがウノウに近づく。
「教授は今忙しいんですよ。私たちが残ってサポートしますから、補佐はもう帰りましょうね」
「うー…… 甘いものが食べたい」
その言葉に、ミネが反応した。
「私が付き合います!」
手を挙げて、大きな声で答えた。
びっくりしたー。ミネさん、甘いものが好きなのかな?
ユウはそう思った。
他の助手にシレリを託し、ミネはウノウと研究室をあとにした。
「ふたりも今日は帰っていいと思うわ」
助手からそう言われ、シンとユウも研究室をあとにした。
その帰り道で、シンが呟いた。
「おー、寒い。しかしよー、今日も楽だったけど、正直することなくて暇だよなー」
「うん。けど、みんな優しくていい人たちだよね。僕にもお菓子くれたし」
ユウはもらったお菓子の入ったポケットに手を添えた。
「シンは食べてたけど、美味しかった?」
「ああ。素朴な感じかな。俺たちが食ってた物と比べると、甘味が足りない。けど、もう身体が慣れすぎてるよな、この世界の食事に」
「そうだね。ただ……」
シンはユウに視線を向けた。
「……ご飯食べたい」
その言葉で、シンは笑みを浮かべた。
「ふふふ、だなー。完全に慣れたとはいえ、そこの欲だけは収まらないよな」
「うん」
「またうどんでも作って気を紛らすか」
「それいいね! 作って作って」
「ミアちゃんとスカイラーさんには悪いけど、こっそり食べないとな。ずるずるすすってるのをふたりに見られたら、あの時のシャリィ以上に変な顔されるかもしれない」
「うんうん。マナーが最悪みたいだから、見られないように気をつけないとね」
そう言った後、ユウはふと空を見上げた。
そういえば…… シャリィさんと全然会ってない。
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
もうすっかり暗くなった寒空の下を歩いてきた二人は、扉に手をかけた。
その時、中から楽しそうなミアの声が聞こえた。
「お客さんかな?」
「みたいだね」
二人は顔を見合わせて、扉を開けた。
「ただいまー」
「おかえりなさーい!」
ミアが笑顔で出迎えた。
そのミアの後ろを覗き込んだシンの目に、見覚えのある姿があった。
「あ、あれ……」
「どうしたのシン?」
ユウも中を覗き込んだ。
「えっ……」
二人の目に映った人物、それは……
「セ、セリンさん?」
「こんばんは」
リビングには、アトリアも座っていた。
「アトリアさん……」
シンとユウは、驚きを隠せなかった。
そのふたりに向けて、ミアは嬉しそうに、とんでもないことを告げた。
「あのね、今日からお姉さんたちが一緒に住むことになったの!」
「……はぁーーー!?」
「……えーーー!?」
シンとユウは、同時に声を上げた。
だが、シンは一瞬で真顔に戻った。
俺とユウは、ケースの中の虫……
「セリンさんと、アトリアさん。ふたりはもちろん知ってるよね」
「もちろんだよ。今日も一緒だったんだー」
ユウが笑顔で答える横で、シンも微笑を浮かべていた。
研究室だけならまだしも……
これは、まずいな……
賑やかな声が漏れる家の向かい。
その屋根の上で、深くフードを被ったゼロアスは、月を背にして窓明かりを見つめていた。
「めんどくさ…… 増えちゃったじゃん」
ゼロアスはゆっくりと振り向き、背後の月を眺めた。
5月9日の掲載はお休みいたします。
次回は、5月16日の掲載になります。
宜しくお願いします。




