第9話 天野まひる
「……ほんと?」
最初に口を開いたのはナツだった。ひよりは頷いた。
「はい」
「やった!」
両手を掴まれた。
「ちょ、ちょっと」
「だって、あれだけ見学だけって言ってた人が!」
「それはもういいじゃないですか」
「見習いちゃん昇格!」
奥からレイまで飛んできた。
「だから見習いじゃないです」
「じゃあ今日から何ちゃん?」
「榎本です」
「会社みたい」
ミオが笑った。
「お客ちゃんも卒業だね」
「その呼び方、一回しかされてません」
「青、そのまま使えるんじゃない?」
ユナまで寄ってくる。
「ほら、似合ってたし」
「ちょっと。一気に囲まないの」
リサの声で、三人が少し離れた。ひよりはようやくナツに掴まれていた手を取り戻した。さっきまで一緒に二時間近く踊っていた相手なのに、自分から入りたいと言った途端、急に七人の中へ放り込まれたような気がする。
「まあ、とりあえず」
リサが笑った。
「よろしくね」
「……はい。よろしくお願いします」
「私もよろしく」
ユナが手を上げ、ミオも続く。
「よろしく、お客じゃないちゃん」
「それ、もう何でもいいでしょ」
ひよりが返すと、レイが声を上げて笑った。
「もう普通に喋ってるじゃん」
「喋りますよ」
「最初と全然違う」
「それももういいです」
言い返しながら、ひよりも笑っていた。その横で、アンが壁から背中を離した。
「じゃあ今度から、代わりじゃないんだ」
そちらを向くと、アンの紫のTシャツが目に入った。土曜日、本当なら自分ではなくステージに立っていたはずの色だった。
「うん」
「じゃあ今度から、あたしたち四人でも踊るんだ」
「うん」
アンは一度だけ頷いた。
「じゃあ、次のライブであのソロ見てて」
「ソロ?」
「この前あんたが好き放題やったとこ」
「好き放題って」
「後ろで自分の準備ばっかしてないでよ。あたしの番、ちゃんと見てて」
「見てるよ。何するか決まったの?」
「今から決める」
「まだ決まってないじゃん」
「細かいなあ」
アンが笑った。その顔を見て、ひよりも少し安心した。
「……よろしく」
今度は後ろから声がした。リオだった。
「はい。よろしくお願いします」
「うん」
そこで会話が終わるかと思った。リオはまだ目の前にいる。
「……ほんとに来るんだ」
「来ますよ。今、入りたいって言いましたよね」
「そうだけど」
「何ですか?」
「いや、だから……よかったなって」
リオの目が一瞬だけひよりから外れた。
「人数も増えるし」
「はい」
「四人でできることも増えるし」
「はい」
「金曜、私も早めに来るから。分からないところがあったら聞いて」
「まだ、何が分からないか分からないです」
「……うん。それも金曜でいい」
ナツが横から「まだ水曜なのに」と笑うと、リオは返事をせずにペットボトルを取った。アンは口元を押さえ、今度はひよりを見る。何を待たれているのか分からず、ひよりはもう一度「お願いします」と頭を下げた。
「はーい、歓迎会はそこまで」
佐伯が手を叩いた。
「もう遅いんだから片づけるわよ。ひよりは金曜から最初から入ってもらうからね」
「最初から?」
「そりゃそうでしょ。もう見学じゃないんだから」
「あ」
言われて初めて気づいた。次にここへ来たとき、自分は壁際に立たなくていい。鞄を置いたら、最初から七人の中へ入る。
「何、その顔」
ナツに聞かれた。
「いや……」
ひよりは鏡を見た。七人が映っている。その少し手前に、自分が立っていた。
「ほんとに入るんだなと思って」
「今?」
「今」
また笑われた。
*
金曜日、仕事を終えて練習場所へ着くと、入口でナツが待っていた。
「今日、見学じゃないからね」
「分かってますよ」
「ほんとに?」
「着替え持ってきてます」
「前も持ってきてたじゃん」
「……あれは念のためです」
「今日は?」
「踊るためです」
ナツが満足そうに頷いた。
「進歩したねえ」
「何目線なんですか」
「先輩」
「同い年なのに?」
ナツの笑顔が一瞬だけ止まった。
「……同い年だよ?」
「なんで今、間があったんですか」
「なかった」
「ありましたよ」
「はい、早く入る!」
背中を押された。
「あ、逃げた」
「逃げてない!」
扉を開けると、すでに他の六人が鏡の前にいた。
「来た来た」
レイが手を上げる。
「八人目」
その言葉に、ひよりは一瞬だけ足を止めた。
八人目。
「ひより、着替えたらこっち」
リオが指したのは、前回ひよりが見学していた壁際ではなく、七人の並びの一番後ろだった。ひよりのために、前回まではなかった場所が一人分空いている。
「はい」
ひよりは鞄を置いた。
*
振りを覚えること自体は、やはり難しくなかった。ただ、前回と違って今日は最初から最後まで、七人に混じって踊っている。自分が大きく踏み込めば、誰かが避ける。逆に少し待てば、その目の前を誰かが抜け、その先に自分の進む場所ができる。
一度だけアンと腕が重なりかけ、途中で止めると、アンも同時に肘を引いた。二人は一瞬顔を見合わせたが、すぐ次の拍子に乗った。曲は止まらず、最後まで踊り終えてから、アンが鏡越しにこちらを見た。
「今の危なかった」
「アンもこっち来たじゃん」
「あたしは決まった位置」
「私も決まった位置」
「ちょっと内側だった」
「アンも」
「言うようになったね」
「お互いさまでしょ」
「はい、二人とも次は半歩ずつ気をつける!」
ナツにまとめられた。
「なんで私まで?」
「アンも近かったから」
「ほら」
「ひより、嬉しそうにしない」
「してない」
しばらく休んでから、もう一度同じ曲を流した。今度は腕が重ならなかった。ただそれだけなのに、最後の音で全員の動きが揃うと気持ちがよかった。
*
練習が終わり、水を飲んでいると佐伯に呼ばれた。
「ひより、ちょっと」
「はい」
鏡の前へ行くと、佐伯が小物を入れたケースを開けていた。
「明日のライブで正式に加入を発表するから、その前に決めときましょ」
「何をですか」
「まず色」
佐伯がケースから取り出した。大きな青いリボン。
「あ」
先週、自分が胸につけていたものだった。
「青でいこうと思う」
「これ、余ってたやつですよね」
「だから言い方」
横でナツが笑った。
「実際そうじゃないですか」
「最初はね」
佐伯がリボンを指先で揺らす。
「でも、もう青でいいと思うのよ」
ひよりはそれを見る。
「いいんですか?」
「ひよりさん、他の色がいい?」
ナツに聞かれた。
「いや、別にないけど」
「じゃあ青」
「そんな簡単に決めるんですか」
「だって、この前もう青振ってくれてた人いたじゃん」
ひよりは黙った。最初のサビで、眼鏡の男が一度下げたペンライトを思い出した。ボタンを押して持ち上げると、その光は胸のリボンと同じ青に変わっていた。
「……あの人、明日も来ますかね」
「どうだろ」
ナツが言う。
「来たら嬉しい?」
ひよりは少し考えた。
「まあ」
「嬉しいんだ」
「来てくれたら、ですよ」
「はいはい」
「何ですか、その言い方」
佐伯が青いリボンを机へ置いた。
「じゃ、青ね」
「はい」
「次、名前」
「名前?」
「ステージで呼ばれる名前」
ひよりは少し身構えた。
「変なのじゃないですよね」
「なんでみんなアタシを信用しないのよ」
少し離れたところでストレッチをしていたアンが顔を上げる。
「変だったら断った方がいいよ。ずっと呼ばれるんだし」
「アン?」
「大事じゃん」
「ちゃんと考えてるわよ」
佐伯がひよりへ向き直った。
「天野まひる」
「……」
「天野、まひる」
もう一度言われた。
「名字から変わるんですか?」
「芸名だもの」
「全部違うんだ」
「嫌?」
「いえ」
ひよりは口の中で一度転がすように、その名前を言った。
「天野まひる」
自分で自分を呼んだはずなのに妙だった。知らない女の子の名前を口にしたように聞こえる。
鏡には、汗で前髪を額へ張りつかせた自分がいた。Tシャツも、履き慣れた黒いパンツもいつものままで、顔も変わっていない。なのに、その名前だけは新しかった。
天野まひると呼ばれて嫌な顔をされた覚えはない。調子に乗って喋りすぎたことも、誰かが空けてくれた隣の席を自分から断ったこともない。
当たり前だった。今、初めて聞いた名前なのだから。
「ひよりさん?」
ナツの声で、鏡から目を離した。
「どう?」
「……変な感じです」
「やっぱり嫌?」
佐伯が聞く。
「そうじゃなくて」
もう一度言ってみる。
「天野まひる」
まだ自分の名前には聞こえない。それでも、嫌ではなかった。
「これなら」
ひよりは青いリボンを見た。
「いいです」
「これならって何よ。結構考えたんだから」
「ありがとうございます」
「最初からそう言いなさいよ」
佐伯がリボンを差し出した。ひよりは両手で受け取る。
「青担当、天野まひる」
ナツが言った。ひよりは青い布を見下ろした。
「……なんか、急にそれっぽい」
「それっぽいじゃなくて、アイドルになるの」
「あ」
アンが呆れた顔をした。
「まだそこ?」
「分かってるよ」
ひよりはリボンを持ち直した。
「分かってるけど、ちょっとずつでいいでしょ」
*
家に帰ると、母に「明日も出かけるの?」と聞かれた。
「うん。ライブ」
それだけ答えた。見に行く側ではないことも、明日は「榎本ひより」ではない名前でステージに立つことも、まだ言わなかった。
*
土曜日、衣装は先週と同じ予備の白だった。サイズも、髪を留める位置も同じ。ただ、胸についた青いリボンだけは、もうその日限りの借り物ではなかった。
「まひる」
横から呼ばれた。ひよりは反応しなかった。
「まひる」
「……あ」
振り返ると、ナツが笑っている。
「やっぱり慣れてないじゃん」
「昨日決まったばっかりなんだから無理ですよ」
「今日はそれで呼ばれるんだよ」
「分かってます」
「ほんと?」
「ナツさん、今日そればっかり」
紫の衣装を直していたアンが間に入る。
「今日はあたしいるからね」
「見れば分かるよ」
「場所、取らないでよ」
「取らないって」
「ソロも」
「それも取らない」
「ちゃんと見てて」
「何するの?」
「まだ秘密」
「決まったんだ」
「昨日考えた」
「ほんとにやったんだ」
「やるって言ったじゃん」
アンが得意そうに笑った。
「ひより」
今度はリオだった。そちらにはすぐ反応できた。
「何ですか」
「二番、アンの後ろ通るところ大丈夫?」
「大丈夫」
「最後、私が前へ出たあと右へ――」
「それも大丈夫です」
「一応もう一回」
「リオ」
アンが呼ぶ。
「何?」
「心配しすぎ」
「確認してるだけ」
「さっきも聞いてたじゃん」
「聞いてない」
「聞いてたよ」
ナツまで加わる。
「三回目くらい」
「三回も聞いてない!」
ひよりは思わず笑った。
「大丈夫ですよ。分からなくなったらリオ見るから」
リオが黙った。
「……うん」
「何ですか」
「何でもない」
また顔を逸らす。アンが口元を押さえている。
「笑わないで」
「まだ何も言ってないじゃん」
「言わなくても分かるから」
客席から大きな歓声が上がり、四人の会話が止まった。前半を担当するアダルト組の曲が終わったらしい。ひよりはカーテンの隙間へ顔を寄せた。
前の方でピンク、白、緑、オレンジの光が揺れている。少し離れた赤と黄色は、後半に出るリオとナツを待っているのだろう。紫も混じるその中に、一本だけ青があった。
「あ」
先週の眼鏡の男だった。まだ青が正式な色だとは誰も発表していないのに、今日も青を持っている。隣の客と話しながら、時々ステージの端を見ていた。
「来てるね」
ナツが横から覗く。
「はい」
「よかったね」
「……はい」
今度は否定しなかった。
ステージからミオの声が響いた。
「今日は最後に、リトルフレアからお知らせがあります!」
客席がざわつく。ひよりはカーテンから離れた。急に喉が乾いた。
「行くよ」
先に歩き出したリオをナツとアンが追い、ひよりも三人の後ろへついた。
*
レイたち四人と入れ替わって、リオ、ナツ、アンがステージへ出た。ひよりも三人の後ろの位置へ入る。
客席で、青い光が高く上がった。
ナツがマイクを上げる。
「『フライング・ハート』!」
先週と同じ前奏に、四人で足を踏み出した。二番でアンの後ろを通り、ひよりは決められた位置へ入った。間奏になると、今度はアンが前へ出る。ひよりは斜め後ろで拍子を取りながら、その動きを追った。
アンは客席の端へ身体を向け、両手の指で小さなハートを作った。紫を持った客へ差し出しかけて、すぐ自分の頬へ引き寄せる。
横顔が見えた。唇を尖らせ、首を少し傾けている。紫の光が前へ伸びた。アンはまだ渡さない。頬にハートを寄せたまま、次の強い音で、ぱっと笑った。その人へ両手が伸びる。
「アンー!」
声と一緒に紫が跳ね、周りからも歓声が上がった。アンはその声を浴びながらくるりと回り、間奏の終わりに合わせて戻ってくる。
ひよりは思わず笑った。自分まで、あの小さなハートをいつ渡すのかと待っていた。目が合うと、アンの片方の眉が得意そうに上がった。ひよりは頷いた。リオが前へ出たところで右へ開き、笑ったまま最後のサビに入った。
曲が終わると、レイのピンク、ミオの白、ユナの緑、リサのオレンジがステージへ戻ってきた。赤のリオ、黄色のナツ、紫のアンが、その隣へ並ぶ。客席から名前が飛んだ。ひよりだけはいったん袖へ戻った。
「そして」
ミオがマイクを持ったまま、こちらを見る。
「もう一人います」
客席がざわついた。
「見習いちゃーん!」
誰かが叫んだ。あちこちから笑い声が上がる。ひよりは袖で顔をしかめた。
「まだそれなんだ……」
前にいたスタッフが笑った。ミオもステージの上で笑っている。
「そう。その見習いちゃんなんですが」
「見習いじゃないです」
小声で言っても、さすがに客席までは届かなかった。
「今日から正式に、リトルフレアの新メンバーになりました!」
拍手が上がった。一番端で、青い光が大きく振られる。
「どうぞ!」
呼ばれてステージへ出ると、ライトの熱が頬に当たった。先週と同じくらい客席は近い。けれど今日は、床の印を探すより先に、七人が少しずつ横へ詰めるのが見えた。
最初から、自分一人分の場所が空いている。ひよりがそこへ入ると、ピンク、白、緑、オレンジ、赤、黄、紫に青が加わり、八人が横に並んだ。
「ほら」
隣のレイに背中を軽く叩かれる。
「自己紹介」
「あ、はい」
受け取ったマイクは、思ったより重かった。ステージで持つのは初めてだ。手の中へ収めて客席を見ると、眼鏡の男が青を上げている。その少し後ろでも、誰かがペンライトの色を青に変えた。
ひよりはマイクを口元へ近づけた。
「新しく入りました。青担当の――」
そこで、一度止まった。榎本ひよりなら、そのまま言えた。けれど今日は、昨日初めて聞いたばかりの名前を口にしなければならない。まだ自分でも、呼ばれてすぐには振り向けない名前だった。
青い光が揺れている。ひよりは息を吸った。
「天野まひるです」
「まひるー!」
真正面から声が飛んだ。
ひよりは反射的に横を見た。リオも、ナツも、アンも動いていない。
「あなた」
ナツがマイクから口を離して、小さく言った。
「あ」
客席から笑いが起きた。眼鏡の男が、青い光をもう一度高く上げる。
「まひるー!」
今度は分かった。ひよりはその人をまっすぐ見て、マイクを握り直した。
「はい!」
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地下アイドルとは、小さなライブハウスやイベント会場を中心に活動し、ファンとの近い距離感を大切にしながら少しずつ人気を広げていくアイドルです。
学生として学校に通ったり、会社員やアルバイトとして働いたりしながら、歌やダンスの練習、SNS更新、配信、ライブ準備などを続けている人も多くいます。
週末は対バンライブやイベントに出演し、ライブ後にはチェキや特典会でファンと交流することもあります。
大きな舞台に立つまでの道のりは簡単ではありませんが、小さな会場で経験を積み、応援してくれる人を一人ずつ増やしながら、夢へ向かって進んでいく――それが地下アイドルの大きな魅力です。
※活動内容や活動の仕方は、グループ・事務所・本人によって異なります。これは一般的な一例です。




