第10話 八人のリトルフレア
正式メンバーになって最初の水曜日。
「次、青がここね」
鏡の前に立ったレイが、床を指した。
ひよりは一歩動きかけてから、止まった。
「青って私ですか?」
「他に誰がいるのよ」
レイが呆れた顔をする。
「いや、まだ色で呼ばれるの慣れてなくて」
「青担当でしょ」
隣でストレッチをしていたアンが言った。
「そうだけど」
「じゃあ青じゃん」
「そうなんだけど……」
言い返しながら鏡を見ると、七人の隣に自分も映っていた。今日は練習着なので、白い衣装も青いリボンもない。それでも「青」と言われたら、もう自分が動く番らしい。
「ほら、まひる。そこ」
リオに呼ばれ、今度はすぐに返事をした。
「はい」
レイがこちらを見る。
「名前には反応するじゃん」
「ちょっとずつ慣れてるんです」
「じゃあ明日は青にも慣れて」
「一日で?」
「若いんだからいけるでしょ」
「レイもそんな変わらないじゃん」
ナツが言うと、レイはすぐに胸を張った。
「そりゃそうよ。あんたたちより動けるからね」
「じゃあ、お手本よろしく」
ナツが鏡の前を空ける。レイは勢いよく一歩出てから、待っている七人を見回した。
「ちょっと。私だけ踊らせる気?」
「はいはい、そこまで」
リサが二度手を叩く。大きな声でもないのに、それまで好き勝手に喋っていた全員が鏡へ向き直った。
「休憩終わってるよ。社長、音お願いします」
「アタシより仕切ってない?」
壁際でスマートフォンを操作していた佐伯が顔を上げる。
「社長が一緒に喋ってるからでしょ」
「今のアタシが悪いの?」
「半分くらいレイのせいだけど」
ミオが言った。
「なんでよ!」
「音出すわよー」
佐伯の声に続いて前奏が流れ、ばらばらだった八人の身体が一斉に動き出した。
*
八人で踊ること自体は金曜日にも経験していたが、今日は、ひよりを既存の振付へ入れるのではなく、最初から八人の形に見えるよう、立ち位置を組み直していた。
レイが中央へ出ると、ミオとユナがその左右を抜け、空いた場所へナツが入る。リサが身体を開いてリオを通すのを見て、ひよりも一歩下がった。正面だけを見ていたら、気づかなかった。誰かが大きく見える瞬間、その後ろでは別の誰かが半歩ずれ、次の人の場所を作っている。
アンが近づいてきたので、決められた方向へ身体を開いて通した。向きを変えた先では、さっきまでユナがいた場所が空いている。ひよりがそこへ入る間にも、八人の形は変わり続けた。
サビで全員が横へ広がると、左右へ伸ばした腕が鏡の中で連なった。一人では作れない大きな形を、ひよりは正面へ顔を向けたまま、目だけを端へ動かして追った。自分の腕もその一つだった。
次の拍子でユナが前へ出る。ひよりが下がったところへリオが入り、ナツも場所を変えた。誰かが前へ出るたびに自分の位置まで変わるので、下がることさえ思っていたより面白かった。
やがて自分の番が来ると、ひよりは二歩で前へ入り、強い音へ腕をぶつけるように伸ばした。思い切り止めてから身体を返す。戻るときには、その場所へもう別の人が入っていた。
その横へ滑り込み、止まらない曲についていく。最後の音で八人が顔を上げると、鏡の中に一つの形が残った。ひよりは肩を上下させながら、それを見ていた。
「今のいいじゃん」
レイが額の汗を手の甲で拭った。
「まひるもちゃんと馴染んでたし」
「なんか上からですね」
「褒めてるのよ」
「だったらもっと褒めてる感じで言ってください」
「面倒くさいなあ!」
「レイに言われたくない」
アンが口を挟む。
「何よ!」
また始まりそうになったところで、佐伯が手を叩いた。
「はい、今のもう一回やるわよ」
「休憩は?」
「さっき終わったでしょうが」
「短い!」
「その半分、あんたが喋ってた時間!」
レイが不満そうに自分の位置へ戻る。ひよりも笑いながら足元を確かめた。もう一度やりたかった。さっきと同じ八人で、今度はもう少しきれいに揃えたい。
*
その週末、八人になって初めてのライブを迎えた。
「今日は八人になったリトルフレアで、最後まで行きます!」
ミオがマイクを上げると、客席から拍手と声が返ってきた。
七人と横一列に並び、ひよりは客席を見た。レイを待つピンクに、ミオの白、ユナの緑、リサのオレンジ。赤、黄色、紫も揺れている。その中から、青はすぐに見つかった。
三本あった。一本はいつもの眼鏡の男で、今日は少し離れた場所にも二本揺れている。先週まではほとんど一人だった。まだ三本しかないのに、ひよりの目はそこへ吸い寄せられた。
前奏が始まると八人が散った。練習場より狭く、鏡の代わりに床の印しかないステージでも、次に誰が来るかは身体が覚えている。リサの横を抜けたところで白い光が動き、ひよりは前へ出たミオを見た。
「ミオー!」
次にユナが出ると、今度は緑が高く上がる。レイが中央へ飛び込めばピンクが激しく揺れ、リオが踏み込むと赤い光と一緒に名前が飛んだ。
ナツの歌では、声が客席の後ろまで抜けていくのを感じた。黄色を持つ客だけでなく、その周りの何人かまで身体を揺らしている。ひよりがそちらを見ているうちに、アンは自分の番を迎え、前列の紫へ片目を閉じた。
「アンー!」
すぐに声が返る。ひよりは後ろで拍子を取りながら、それを見ていた。八人いれば、八人分の客席がある。同じ曲の中で、声の向きまで次々に変わっていく。
曲の中盤、全員で大きく跳ねるところで、リサだけは足を床から離さず、腕の動きを大きく見せた。次の位置へ移る足取りも、他の七人より少しだけ小さい。
ひよりは一瞬そちらを見たが、リサはいつも通り笑っている。振付を間違えたようにも見えず、そのまま次の動きへ入ったので、ひよりもすぐ客席へ視線を戻した。
そして自分の番が来た。一歩前へ出る。
「まひるー!」
今度はすぐ分かった。眼鏡の男が、青を高く上げている。ひよりはその人へ腕を伸ばした。
「はい!」
マイクはない。それでも眼鏡の男はさらに青を振り、少し後ろにいた二本も続いた。もっと近くへ行きたい。あと一歩だけ前へ出れば、もっと大きく返せる気がした。
踏み出しかけたところで次の拍子が来た。レイが入ってくるので、ひよりは決められた位置まで下がった。空いた場所へ飛び込んだレイが客席を煽ると、今度はピンクが跳ねる。そこへミオとユナが加わるのを、ひよりは後ろから見た。
自分が下がっても、ライブは止まらない。声も消えない。三人の動く向こうには、次に自分が前へ出る場所がもう見えていた。
リオとナツが左右へ開くと、ひよりはアンと並んでその間へ飛び込んだ。同じ音で腕を上げ、青と紫が一緒に揺れるのを見る。横目でこちらを見たアンと一瞬だけ笑い合い、すぐ正面へ向き直った。
最後のサビでステージいっぱいに広がっても、右にも左にも誰かがいる。部屋の机を壁へ寄せ、誰にも見られないように踊っていた頃には、こんな景色があることすら知らなかった。
最後の音で全員が止まった。次の瞬間に押し寄せた歓声を受け、ひよりは息を切らしながら顔を上げた。八色の光が、目の前で混ざり合っていた。
*
「狭い!」
楽屋へ戻るなり、レイが声を上げた。
「何が?」
アンが水を飲みながら聞く。
「ここ! 八人いると狭すぎる!」
「レイの鞄がでかいんじゃない?」
ミオが床を見る。レイの足元には、大きなバッグが二つ並んでいた。
「こっちは衣装なんだから仕方ないでしょ」
「もう一個は?」
「私物」
「じゃあそれじゃん」
「私だけじゃないって!」
「それ、大阪まで持ってくの?」
ミオが笑いながら聞いた。
「持ってくわよ。必要なものなんだから」
「大阪?」
ひよりが聞き返すと、レイは荷物を押し込みながらこちらを見た。
「その話、まひるにはまだしてなかったっけ。まあ、ちゃんと決まったらね」
「何が?」
「決まったら!」
レイが荷物を壁際へ押し込んだ。ようやくできた隙間をユナが通ろうとして、反対側の壁へ肩をぶつける。
「ほら、狭い!」
「今のはユナが無理やり通ったからでしょ」
ナツが笑いながら床へ座った。
ひよりもペットボトルを置く場所を探す。
「これ、どこ置けばいい?」
「私の横でいいよ」
リオが自分のタオルを寄せた。
「ありがとう」
ボトルを置き、ひよりは壁へ背中を預けた。脚は重く、汗を吸った衣装が肌へ張りついている。それでも、もう一曲やれと言われれば立てそうだった。
ミオとユナはさっきのMCについて話していたが、いつの間にか「昨日録ったやつ」の声がどうだったとか、二人にしか分からない話へ移っていた。アンは鏡に向かって前髪を直し、レイはまだ自分だけ荷物が多いわけではないと主張していた。
誰かが喋れば、別の誰かが勝手に口を挟む。途中から何の話だったのか分からなくなっても、また別の話が始まる。ひよりは水を飲みながら、その中にいた。何を言えばいいのか考え込まなくても、いつの間にか自分まで何か言っている。
「ねえ」
リサの声がした。レイの話が途中で止まった。椅子に座っていたリサは、膝の上に置いた両手を重ね直していた。
「ちょっと話あるんだけど」
「何?」
レイが聞く。
「説教?」
「なんで私が説教するの」
「さっき荷物広げてたから」
「自覚あるじゃん」
アンに言われたレイが何か返そうとしたところで、リサが笑った。
「怖い話じゃないよ」
それから、少しだけ姿勢を正した。
「私、結婚することになりました」
ひよりは口につけかけたペットボトルを止めた。
「ええっ!?」
レイが椅子から立ち上がる。
「いつ!?」
「ちょっと待って。本当に?」
ナツまで声を上げた。
「うん。本当に」
リサだけがいつも通りだった。
「なんで今まで言わなかったの?」
「ちゃんと決まってから言おうと思ってたから」
「相手って、前に言ってた人?」
ユナが身を乗り出す。
「そう」
「おめでとう!」
ユナが真っ先に言った。そこで、止まっていた全員が一斉に喋り始めた。
「そうじゃん、おめでとう!」
「おめでとう、リサ」
「私も……おめでとうございます」
ひよりが少し遅れて言うと、ミオがこちらを見る。
「なんでまひるだけ結婚式の来賓みたいなの」
「だって、こういうの初めてなんですけど」
「結婚報告に慣れてる十九歳の方が嫌でしょ」
「あ、それもそうですね」
リサが笑った。
「ありがとう」
そこから、質問がしばらく続いた。いつ決まったのか。式はどうするのか。レイは途中から自分が招待される前提で話し始め、ミオに「まだ呼ぶって言われてないよ」と止められている。
「呼ぶよ」
リサが言う。
「ほら!」
「なんで勝ち誇るの?」
また声が重なった。その騒ぎが少し落ち着くのを待って、リサが口を開いた。
「あとね」
ナツが顔を上げる。
「まだあるの?」
「赤ちゃんもできました」
今度は、すぐに誰も喋らなかった。ユナの目が大きくなり、レイも言葉を失った。ナツは一度だけリサのお腹へ目を向けてから、その顔を見る。
「……そっちも、おめでとう」
リオが言った。
「うん。ありがとう」
少し遅れて、何人かの祝福が重なった。さっきより静かだった。アンは鏡から離れ、リサへ身体を向ける。
「じゃあ、リサ」
そこで一度、言葉が止まった。
「アイドルは?」
リサはアンを見た。
「卒業しようと思ってる」
扉の向こうでは、次の出演者の曲が鳴っていた。低い音が壁を通して響いている。さっきまでその音に負けないくらい騒いでいたのに、今は誰の声もなかった。
「社長には、もう話してあるから」
リサが続ける。
「今日で終わりじゃないよ。今決まってるライブは出るし、最後の日もちゃんと作ってもらうつもり」
「もちろん、前みたいに全部はやらないよ。先生にも相談してるし、跳ぶところとか負担の大きい振りは減らしてもらってる。体調が悪かったら、その日は出ない」
ひよりは、さっきのステージを思い返した。そういえばリサだけ、跳ばなかったところがあった。
あれは間違えたんじゃなかったのか。
「……そっか」
ナツが言った。
レイはさっきまで動かしていた鞄から手を離している。ユナもミオも黙ったままで、リオは膝に置いたタオルへ視線を落としていた。
ひよりは七人を見た。ついさっきまで同じステージにいた。八人で最初から最後まで踊ったのは、今日が初めてだった。
「あの」
考えるより先に、声が出た。
「でも私、入ったばっかりなんですけど」
全員がこちらを見る。アンが眉を上げた。
「それ、今言う?」
「分かってる!」
ひよりは自分でも驚くくらい大きな声を出した。
「言い方おかしいのは分かってるけど……」
その先で詰まった。リサが結婚するのは嬉しい。赤ちゃんができたことだって、ちゃんとおめでたいと思っている。それなのに、八人でなくなるのは嫌だった。
「今日、やっと八人で最初から最後まで踊ったのに」
今度は少し声が小さくなった。
「だから、その……」
言葉を探したが、うまく続かなかった。
「すみません」
「謝るなら最初から言わなきゃいいのに」
アンが言う。
「今それ私も思った」
「じゃあ言わないでよ」
「もう言ったじゃん」
ひよりは口を閉じた。何も返せない。リサはしばらく黙って二人を見ていたが、やがて小さく笑った。
「まひる」
「はい」
「ありがとう」
「え?」
「嫌だって思ってくれたんでしょ」
ひよりはすぐに答えられなかった。そう言われると、余計に恥ずかしくなる。
「……まあ」
「そこは素直に言いなよ」
アンが呆れた声を出す。
「うるさいなあ」
ひよりは膝を抱え直した。
リサが笑ってくれたことにほっとして、ひよりも口元を緩めた。それでも、八人で並んださっきの場所を思い出すと、次に何と言えばいいか分からなくなる。
「卒業って、いつですか」
「まだ少し先」
リサが答えた。
「じゃあ、次のライブは?」
「出るよ」
「八人で?」
「八人で」
ひよりはそこでようやく息を吐いた。次も八人で立てる。今日だけで終わるわけではない。けれど、これまで当たり前に来ると思っていた「次」に、終わりがあることだけは分かってしまった。
「まひる」
リサに呼ばれた。ひよりはすぐ顔を上げる。
「はい」
「それまではよろしくね」
リサは普段と変わらない顔で笑っていた。ひよりも頷く。
「はい。よろしくお願いします」
返事まで、一拍も空かなかった。
※妊娠初期の運動について
妊娠の経過に問題がない場合、妊娠前から行っていた運動やダンスは、体調に配慮しながら継続できるとされています。(※諸説あります!)本作のリサも、医師に相談したうえで無理のない範囲でステージに立っている設定です。なお、実際の妊娠中の運動については個人差があります。
桜庭リサ(オレンジ担当)
リトルフレア結成時から活動してきた最年長メンバー。おっとりした雰囲気ですが、実はかなり肝が据わっており、騒がしいメンバーたちを自然に支える存在です。結婚と妊娠を機に、アイドルとしての卒業を決めました。もう卒業してしまうので、ここで少し紹介しておきます。




