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アイドルとは!  作者: Aramaki_mai
第一章 誕生
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8/60

第8話 次は金曜日

挿絵(By みてみん)

水曜日、仕事を終えたひよりは、ナツから教えられた駅の改札前にいた。会社からそのまま来たので、服はいつものシャツとパンツだった。ただ、肩に掛けた鞄だけは普段より少し重い。朝、家を出る直前になって、動きやすいTシャツとパンツを押し込んできたからだ。


「ほんとに来た」


改札の柱にもたれていたナツが、ひよりを見つけて手を振った。


「行っていいって言ったの、ナツさんですよね」


「言ったけど。半分くらい来ないと思ってた」


「なんでですか」


「だって、あれだけ『見学だけ』って言ってたから」


「今日も見学です」


「はいはい」


笑いながら歩き出したナツの後を追い、ひよりは高田馬場駅を出た。仕事を終えた時間でも、駅前にはまだ明るさが残っていた。歩いているうちに朝から着ていた薄手の上着が邪魔になり、ひよりは鞄の持ち手へ引っかけた。


練習場所は、駅から数分歩いた雑居ビルの二階にあった。階段を上がる途中から、閉まった扉の向こうで鳴っている音楽が聞こえてくる。ライブハウスほど身体を押してくる音ではないが、低音だけは床を通して足の裏まで届いた。


「もう始まってるんですか」


「うん。私、ひよりさん迎えに抜けてきただけだから」


「じゃあ、急いだ方がいいですよね」


「見学なのに?」


「……遅れるの嫌なので」


ナツが肩を揺らした。


「そういうとこ、真面目だよね」


扉を開けると、壁一面の鏡の前で六人が踊っていた。土曜日に見たレイ、ミオ、ユナ、リサと、赤いTシャツのリオ。その隣には、あの日はいなかった紫のTシャツの子がいる。


ひよりは入口で足を止めた。動画では何度も見た顔だった。土曜日、自分が代わりに入った位置にいるはずだった子。紫のTシャツを着たアンが、鏡越しにこちらへ目を向ける。


「はい、そこまで。いったん休憩にしましょ」


壁際にいた佐伯が音楽を止めた。六人の動きが止まり、ナツもその中へ戻っていく。


「ひよりさん来たよ」


「来た! 見習いちゃん!」


レイが真っ先に声を上げた。


「だから見習いじゃないって。本人、お客だって言ってたでしょ」


ミオがペットボトルを取りながら訂正する。


「じゃあ、お客ちゃん」


「もっと変になってる」


ユナまで笑い出し、ひよりは入口に立ったまま、どの人へ先に頭を下げるべきか迷った。


「こんにちは」


リサだけが普通に声をかけてくれた。


「あ、こんにちは。今日は、お邪魔します」


ひよりが頭を下げると、その間にアンがこちらへ歩いてきた。ひよりより少し背が低く、化粧をしていないせいか動画で見るより幼く見える。それでも、まっすぐこちらを見る目には妙な遠慮がなかった。


「榎本ひより?」


「はい」


「この前、あたしの代わりに出た人」


「……はい。すみませんでした」


アンの眉が上がった。


「なんで謝んの?」


「いや、その……勝手に場所に入ったので」


「勝手に入れたの佐伯さんでしょ」


「そうなんですけど」


「じゃあ佐伯さんが悪いじゃん」


「ちょっと。アタシに全部持ってこないでくれる?」


佐伯の言い方に、ひよりは思わずそちらを見た。土曜日、廊下で初めて会ったときとは何かが違う。


「……アタシ?」


「何よ」


「いえ」


隣でナツが吹き出した。


「そのうち慣れるよ」


「何にですか」


「社長に」


「ちょっとナツ?」


佐伯が睨むと、ナツは余計に笑った。


何に慣れればいいのか分からないまま、ひよりがもう一度アンへ向き直ると、アンはそんなやり取りを気にする様子もなく言った。


「土曜の動画、見たから。あとでちょっと聞きたいことある」


「聞きたいこと?」


「あとで」


それだけ言って、アンは自分の荷物の方へ戻っていった。


ひよりは小声でナツに聞いた。


「怒ってます?」


「どうだろ」


「どうだろって」


「ほんとに怒ってたら、たぶんもっと分かりやすいから大丈夫」


「それ、安心していい情報なんですか」


「たぶん」


「たぶん増えた」


ナツがまた笑った。


*


休憩が終わると、七人が鏡の前へ並んだ。


ひよりは邪魔にならないよう壁際へ寄り、鞄を足元へ置いた。音楽が始まると、さっきまで話していた七人の空気が一度に変わる。


土曜日にステージで見たときとは違った。衣装も照明もなく、客席から名前を呼ぶ声も飛んでこない。それでも七人が同じ拍子で動き始めると、ひよりの目はすぐに鏡の中へ引き寄せられた。


レイが中央へ出ると、その後ろでミオとユナが左右へ開き、空いた場所へナツが入る。リサが半歩下がったところをリオが抜け、その向こうでアンが向きを変える。


一人だけを見るなら追える。けれど七人になると、一人の動きを覚えるだけでは足りなかった。誰かが前へ出るとき、その人だけが大きく動いているわけではない。後ろでは別の誰かが道を空け、隣では腕が重ならないよう角度を変え、その次に入る場所まで作っている。全員が同じ振付を踊っているのに、好きなだけ大きく動いているわけではなかった。


アンがリオの後ろを通る。その瞬間だけ身体を少し横へ向けたのを見て、ひよりは理由を考えながら自分の右足を動かした。


曲が止まり、鏡の中の七人が腕を下ろした。


「やる?」


横から声がして、ひよりは足を止めた。ナツが笑っている。


「何をですか」


「今の」


「見てただけです」


「足は踊ってたけど」


言われて足元を見ると、右のつま先が、さっきアンが身体を向けた方向へ開いていた。ひよりは慌てて元へ戻す。


「これは、なんとなくです」


「じゃあ、なんとなく着替えたら?」


ナツの視線が、ひよりの鞄へ落ちた。ひよりは何も言わなかった。


「もしかして、持ってきてる?」


「何をですか」


「動ける服」


「……一応」


「見学なのに?」


「念のためです」


「何の念?」


答える代わりに、ひよりは鞄を持ち上げた。


「着替える場所、どこですか」


背後でナツが声を上げて笑った。


*


「せっかくだから、サビだけ入ってみる?」


着替えて戻ってきたひよりに、佐伯が声をかけた。


Tシャツと黒いパンツ姿になったひよりは、鏡に映る七人を見てから、自分の格好へ目を落とした。土曜日の白い衣装も、青いリボンもない。どう見ても会社帰りに運動をしに来ただけの人だった。


「本当に入るんですか?」


「嫌なら見ててもいいわよ」


「嫌とは言ってないです」


「じゃ、やろ」


レイが手を叩き、リオがひよりの前へ出た。


「ひよりは今日は後ろ。私とユナの間くらいに入って」


「はい」


「振りより位置を見て。分かんなくなったら、無理に動かなくていいから」


「分かりました」


「一回見せるね」


音楽が流れた。ひよりはその場から動かず、七人を目で追った。腕を返して身体を沈め、二歩で位置を変える。ナツが中央へ入るところでアンがその後ろを通り、リオが反対側へ抜ける。最後には七人が横へ広がり、音に合わせて腕を上げた。


曲が止まる。


「もう一回見る?」


佐伯に聞かれ、ひよりは七人が立っていた床へ視線を走らせた。誰がどこへ動いたか、頭の中で一度つなげてから顔を上げる。


「やってみます」


「え、もう?」


レイが目を丸くした。


「大体は」


「その大体、信用していいやつ?」


「たぶん」


「そっちもたぶんなんだ」


もう一度、音が流れた。ひよりは右足から踏み出し、腕を伸ばして向きを変える。ユナが前へ出るタイミングを待って後ろへ回り、一か所だけ遅れながらも、そのまま最後までついていった。七人とほとんど同じタイミングで腕を上げる。音が切れると、鏡の中でレイがこちらを見ていた。


「待って。今ので覚えたの?」


「全部じゃないです。途中、一個分かんなくて」


「一個?」


「ナツさんが真ん中に来る前です」


ミオが吹き出した。


「気持ち悪いくらい早いね」


ひよりはミオを見る。


「それ、褒めてます?」


「ちゃんと褒めてる」


「言葉が怖いんですけど」


「私も似たようなこと言おうと思ってた」


レイが言うので、ひよりはすぐに首を振った。


「やめてくださいよ」


ユナが笑い、隣でリサも口元を緩めている。ひよりも少しだけ笑った。


「じゃあ、今度は普通に合わせよう」


リオの声で、全員が位置へ戻った。ひよりも鏡を見ながら自分の場所を確かめる。


音楽が始まった。


今度はさっきより身体を大きく使った。右へ二歩入り、腕を伸ばして強い音に合わせて床を踏み込む。


「あっ」


すぐ横でユナの声がした。身体を避けるように、ユナが斜めへ抜ける。


「ストップ」


リオの声と同時に、佐伯が音を止めた。


「ごめんなさい!」


ひよりはすぐユナへ向いた。


「大丈夫、大丈夫。ぶつかってないから」


「今、私……」


「一歩大きい」


リオが床を指した。


「ひより、さっきここまで出てた。振りは合ってるけど、そこまで来るとユナが通れない」


「……はい」


ひよりは足元を見た。土曜日には、大きく踏み込むほど客から声が上がり、腕も足も届くところまで伸ばす方が気持ちよかった。同じように踊っただけなのに、今日はユナの通る場所を塞いでしまった。


「すみません」


「もう謝ったでしょ」


リオの声に、ひよりが顔を上げる。


「次、そこだけ小さくして。もう一回やろ」


「……はい」


叱られると思っていたわけではない。それでも、もう一度と言われたことに少しだけ驚いた。


「社長、頭からお願いします」


「はーい」


すぐに音楽が戻った。同じところまで来ると、ひよりは踏み込む前に横を見た。ユナが来る。さっきより一歩を小さく取ると、今度は何事もなく目の前を抜けていった。


そのまま次の位置へ入れば、正面からアンが来た。この角度で腕を伸ばせば重なる、と気づいた瞬間、アンが半歩外へ開く。ひよりも少し腕の向きを変えると、二人の間にちょうど一本分の空間ができた。


鏡越しに目が合った。次の音が来る。二人は同時に別の方向へ向いた。


今度は誰も止めなかった。曲が最後まで進み、八人の身体が同じ拍子で止まる。


「今の全然いいじゃん」


レイが言った。


「ほんとですか」


「うん。最初がでかすぎただけ」


「レイ」


リサが呆れたように呼ぶ。


「言い方」


「でも本当じゃん」


ひよりは、さっきユナの進路を塞いだ場所をもう一度見た。ここまで大きく出ると通れないから、半歩戻る。何が駄目だったのか分かり、直してみれば、次には同じ場所を一緒に踊れる。


それが、妙に気持ちよかった。


「何笑ってるの?」


ユナに聞かれ、ひよりは自分の口元へ触れた。


「え?」


「今、笑ってたよ」


「……別に」


笑っていたことに、自分では気づいていなかった。


*


休憩に入ると、ひよりは壁際へ座り、ペットボトルの水を飲んだ。身体を動かすつもりで来たわけではないはずなのに、Tシャツの背中には薄く汗が張りついている。


「ねえ」


アンが隣へ座った。さっき言っていた話だと分かり、ひよりはボトルを膝の上へ置いた。


「はい」


「土曜の動画なんだけど」


「……はい」


「あのソロ。次、あたしやりづらいんだけど」


「え?」


アンは両手の指で小さなハートを作ってみせた。


「あたし、これ前に出して、回って終わりだったの。なのに客に声出させるし、ハート作らせるし、間違ってる人まで拾うし」


「間違ってる人を拾ったわけじゃないです」


「真似してたじゃん」


「あれは、向こうが直してくれたから」


「それをまた真似したでしょ」


「……しました」


「ほら」


アンは指をほどき、少し不満そうに口を尖らせた。


「次、普通にこれやったら地味じゃん」


「ごめん」


「だから、なんで謝るの?」


「困るって言うから」


「困るけど、助かったのは助かったし」


アンは水を一口飲んでから、少しだけ声を落とした。


「来なかったのは、あたしだから。佐伯さんとはもう話したし」


ひよりは返事をしなかった。アンもそれ以上、その日の欠席について話そうとはしなかった。何か聞くべきなのか迷ったが、知り合ったばかりの自分が聞くことでもない気がした。少しして、アンが膝を立てる。


「だから次、あたしも何かやる」


「何を?」


「まだ決めてない」


「ハートじゃなくて?」


「それを今考えるんでしょ。一回あんたに持ってかれたままなの、なんか嫌だし」


「私、勝負するつもりは」


「今はしてない」


「今は?」


「細かいなあ」


アンが笑い、ひよりもつられて笑った。


「あと、アンでいいから」


「え」


「アンさんって変。あたし十七だし」


「私より下ですよね」


「だから何?」


「いや……なんとなく」


「じゃ、アン」


「うん」


口に出してみると、さっきまでより少しだけ距離が近くなった気がした。


「でも、その……あれは良かったと思う」


横から声がして、二人が同時に顔を上げた。タオルを首に掛けたリオが立っていた。


「分かってる」


アンが答える。


「客もすごい返してたし」


「だから次、あたしもやるって話してたんだけど」


アンが隣のひよりを指した。リオは二人を見比べてから、首のタオルを片手で掴んだ。


「……それなら、いいけど」


「ひよりが困ってたら助けに来たわけ?」


「聞こえたから来ただけ」


少し離れたナツが、とうとう笑い声を漏らした。リオはそちらへ向いたが、ひよりに見られていると気づくと、声を抑えた。


「ナツ。そうやって笑うから、変になるんでしょ」


「私は何もしない方がよさそうだね」


ナツはボトルを持って離れていく。リオも「ちょっと」と呼び止めながら後を追った。


ひよりは二人の背中を見送ってから、アンへ向き直る。


「何なんですか?」


「知らない」


アンはそう答えたが、少し笑っていた。


*


「最後、一回だけ最初から通すわよー」


佐伯の声がかかり、全員が鏡の前へ戻った。ひよりも自然にさっきの後ろの位置へ向かい、そこで初めて、自分が何のためにここへ来たのかを思い出した。見学だったはずだ。ところが時計を見ると、もう二時間近く経っている。そのうちかなりの時間を、自分も七人と一緒に踊っていた。


「ひよりさん」


ナツが振り返る。


「何?」


「最後までやる?」


少しだけ考えて、ひよりは頷いた。


「やります」


「うん。知ってた」


「じゃあ、なんで聞いたんですか」


「一応」


音楽が始まった。今度は最初からなので、まだ知らない振付もある。そこでは前の七人を見ながら無理に大きく動かず、分かるところまで来ると身体を合わせた。


リオが前へ出ると、ナツの歌声が部屋を抜けていった。マイクも何も使っていないのに、踊りながら出しているとは思えないほど音がぶれない。その後ろでアンが振り向くのを見ながら、ひよりは先に半歩引いた。


さっき塞いでしまった進路を、今度はユナがそのまま抜けていく。ひよりも止まらず、次の位置へ入れた。


鏡の中には七人がいて、その後ろに自分もいる。白い衣装もない。胸に青いリボンもない。客席から「見習いちゃん」と呼んでくれる人もいない。それでも、サビへ入るころには自然と口元が緩んでいた。


土曜日とは違う。今日は誰かが来なかったから、この場所にいるわけではない。ただ一緒に踊っている。


最後の音で八人の身体が止まり、部屋にいくつもの荒い呼吸が重なった。


「お疲れー!」


レイがその場へ座り込んだ。


「もう無理。腹減った」


「さっきお菓子食べてたでしょ」


ミオが言う。


「あれは休憩」


「食事じゃないの?」


「別腹」


「使い方違うよ」


あちこちから笑い声が上がる。ひよりも息を整えながら笑った。


歓声はなかった。青い光もなかった。それでも、まだ少し踊り足りなかった。


*


着替えを終え、ひよりは鞄を肩へ掛けた。


「今日はありがとね」


佐伯が入口まで来た。


「いえ。こっちこそ、ありがとうございました」


「加入の話は急いで決めなくていいわよ。ナツが勝手に口説いただけなんだから」


「口説いたって言い方やめてよ」


離れたところからナツが声を上げる。


「だって似たようなもんでしょ」


「全然違う」


二人の言い合いを聞きながら、ひよりは扉を開けた。


「じゃあ、お疲れさまでした」


「お疲れー」


何人かが手を振ったので、ひよりも振り返した。廊下へ出て階段の方へ歩きかけたところで、ふと足が止まる。ひよりは振り返った。


「あの」


まだ扉の近くにいたナツが顔を出す。


「ん?」


「次って……金曜ですよね?」


ナツが一瞬だけ目を丸くしたあと、すぐに笑った。


「来るの?」


聞かれて、ひよりは答えられなかった。金曜も仕事が終わったら、この駅へ来る。朝にはまた着替えを鞄へ入れるのだろう。そこまで浮かんでから、ひよりはナツを見た。今度は、何の念のためだと言うつもりだろう。


扉の奥では佐伯もこちらを見ていた。


「佐伯さん」


「なあに?」


「この前の話って、まだ……」


そこまで言って、ひよりは口を閉じた。また向こうから答えを出してもらおうとしている。


土曜日は、一曲だけだった。今日は、見るだけのつもりだった。どちらも、もう終わっている。


ひよりは部屋の中へ目を向けた。ナツの後ろにはリオがいて、少し離れたところでアンもこちらを見ている。レイたち四人まで、何の話が始まったのかと片づける手を止めていた。


ひよりは鞄の紐を握り直した。


「今日みたいに、誰かの代わりじゃなくて……私も一緒に踊りたいです」


ナツが笑うのをやめた。佐伯も何も言わず、ひよりの続きを待っている。部屋にいた全員の視線が集まった。土曜日の客席より、ずっと少ない。それでも今度は、目を逸らさなかった。


「私、入りたいです」


一度、自分の口から出た言葉を確かめる。


「リトルフレアに」

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