第8話 次は金曜日
水曜日、仕事を終えたひよりは、ナツから教えられた駅の改札前にいた。会社からそのまま来たので、服はいつものシャツとパンツだった。ただ、肩に掛けた鞄だけは普段より少し重い。朝、家を出る直前になって、動きやすいTシャツとパンツを押し込んできたからだ。
「ほんとに来た」
改札の柱にもたれていたナツが、ひよりを見つけて手を振った。
「行っていいって言ったの、ナツさんですよね」
「言ったけど。半分くらい来ないと思ってた」
「なんでですか」
「だって、あれだけ『見学だけ』って言ってたから」
「今日も見学です」
「はいはい」
笑いながら歩き出したナツの後を追い、ひよりは高田馬場駅を出た。仕事を終えた時間でも、駅前にはまだ明るさが残っていた。歩いているうちに朝から着ていた薄手の上着が邪魔になり、ひよりは鞄の持ち手へ引っかけた。
練習場所は、駅から数分歩いた雑居ビルの二階にあった。階段を上がる途中から、閉まった扉の向こうで鳴っている音楽が聞こえてくる。ライブハウスほど身体を押してくる音ではないが、低音だけは床を通して足の裏まで届いた。
「もう始まってるんですか」
「うん。私、ひよりさん迎えに抜けてきただけだから」
「じゃあ、急いだ方がいいですよね」
「見学なのに?」
「……遅れるの嫌なので」
ナツが肩を揺らした。
「そういうとこ、真面目だよね」
扉を開けると、壁一面の鏡の前で六人が踊っていた。土曜日に見たレイ、ミオ、ユナ、リサと、赤いTシャツのリオ。その隣には、あの日はいなかった紫のTシャツの子がいる。
ひよりは入口で足を止めた。動画では何度も見た顔だった。土曜日、自分が代わりに入った位置にいるはずだった子。紫のTシャツを着たアンが、鏡越しにこちらへ目を向ける。
「はい、そこまで。いったん休憩にしましょ」
壁際にいた佐伯が音楽を止めた。六人の動きが止まり、ナツもその中へ戻っていく。
「ひよりさん来たよ」
「来た! 見習いちゃん!」
レイが真っ先に声を上げた。
「だから見習いじゃないって。本人、お客だって言ってたでしょ」
ミオがペットボトルを取りながら訂正する。
「じゃあ、お客ちゃん」
「もっと変になってる」
ユナまで笑い出し、ひよりは入口に立ったまま、どの人へ先に頭を下げるべきか迷った。
「こんにちは」
リサだけが普通に声をかけてくれた。
「あ、こんにちは。今日は、お邪魔します」
ひよりが頭を下げると、その間にアンがこちらへ歩いてきた。ひよりより少し背が低く、化粧をしていないせいか動画で見るより幼く見える。それでも、まっすぐこちらを見る目には妙な遠慮がなかった。
「榎本ひより?」
「はい」
「この前、あたしの代わりに出た人」
「……はい。すみませんでした」
アンの眉が上がった。
「なんで謝んの?」
「いや、その……勝手に場所に入ったので」
「勝手に入れたの佐伯さんでしょ」
「そうなんですけど」
「じゃあ佐伯さんが悪いじゃん」
「ちょっと。アタシに全部持ってこないでくれる?」
佐伯の言い方に、ひよりは思わずそちらを見た。土曜日、廊下で初めて会ったときとは何かが違う。
「……アタシ?」
「何よ」
「いえ」
隣でナツが吹き出した。
「そのうち慣れるよ」
「何にですか」
「社長に」
「ちょっとナツ?」
佐伯が睨むと、ナツは余計に笑った。
何に慣れればいいのか分からないまま、ひよりがもう一度アンへ向き直ると、アンはそんなやり取りを気にする様子もなく言った。
「土曜の動画、見たから。あとでちょっと聞きたいことある」
「聞きたいこと?」
「あとで」
それだけ言って、アンは自分の荷物の方へ戻っていった。
ひよりは小声でナツに聞いた。
「怒ってます?」
「どうだろ」
「どうだろって」
「ほんとに怒ってたら、たぶんもっと分かりやすいから大丈夫」
「それ、安心していい情報なんですか」
「たぶん」
「たぶん増えた」
ナツがまた笑った。
*
休憩が終わると、七人が鏡の前へ並んだ。
ひよりは邪魔にならないよう壁際へ寄り、鞄を足元へ置いた。音楽が始まると、さっきまで話していた七人の空気が一度に変わる。
土曜日にステージで見たときとは違った。衣装も照明もなく、客席から名前を呼ぶ声も飛んでこない。それでも七人が同じ拍子で動き始めると、ひよりの目はすぐに鏡の中へ引き寄せられた。
レイが中央へ出ると、その後ろでミオとユナが左右へ開き、空いた場所へナツが入る。リサが半歩下がったところをリオが抜け、その向こうでアンが向きを変える。
一人だけを見るなら追える。けれど七人になると、一人の動きを覚えるだけでは足りなかった。誰かが前へ出るとき、その人だけが大きく動いているわけではない。後ろでは別の誰かが道を空け、隣では腕が重ならないよう角度を変え、その次に入る場所まで作っている。全員が同じ振付を踊っているのに、好きなだけ大きく動いているわけではなかった。
アンがリオの後ろを通る。その瞬間だけ身体を少し横へ向けたのを見て、ひよりは理由を考えながら自分の右足を動かした。
曲が止まり、鏡の中の七人が腕を下ろした。
「やる?」
横から声がして、ひよりは足を止めた。ナツが笑っている。
「何をですか」
「今の」
「見てただけです」
「足は踊ってたけど」
言われて足元を見ると、右のつま先が、さっきアンが身体を向けた方向へ開いていた。ひよりは慌てて元へ戻す。
「これは、なんとなくです」
「じゃあ、なんとなく着替えたら?」
ナツの視線が、ひよりの鞄へ落ちた。ひよりは何も言わなかった。
「もしかして、持ってきてる?」
「何をですか」
「動ける服」
「……一応」
「見学なのに?」
「念のためです」
「何の念?」
答える代わりに、ひよりは鞄を持ち上げた。
「着替える場所、どこですか」
背後でナツが声を上げて笑った。
*
「せっかくだから、サビだけ入ってみる?」
着替えて戻ってきたひよりに、佐伯が声をかけた。
Tシャツと黒いパンツ姿になったひよりは、鏡に映る七人を見てから、自分の格好へ目を落とした。土曜日の白い衣装も、青いリボンもない。どう見ても会社帰りに運動をしに来ただけの人だった。
「本当に入るんですか?」
「嫌なら見ててもいいわよ」
「嫌とは言ってないです」
「じゃ、やろ」
レイが手を叩き、リオがひよりの前へ出た。
「ひよりは今日は後ろ。私とユナの間くらいに入って」
「はい」
「振りより位置を見て。分かんなくなったら、無理に動かなくていいから」
「分かりました」
「一回見せるね」
音楽が流れた。ひよりはその場から動かず、七人を目で追った。腕を返して身体を沈め、二歩で位置を変える。ナツが中央へ入るところでアンがその後ろを通り、リオが反対側へ抜ける。最後には七人が横へ広がり、音に合わせて腕を上げた。
曲が止まる。
「もう一回見る?」
佐伯に聞かれ、ひよりは七人が立っていた床へ視線を走らせた。誰がどこへ動いたか、頭の中で一度つなげてから顔を上げる。
「やってみます」
「え、もう?」
レイが目を丸くした。
「大体は」
「その大体、信用していいやつ?」
「たぶん」
「そっちもたぶんなんだ」
もう一度、音が流れた。ひよりは右足から踏み出し、腕を伸ばして向きを変える。ユナが前へ出るタイミングを待って後ろへ回り、一か所だけ遅れながらも、そのまま最後までついていった。七人とほとんど同じタイミングで腕を上げる。音が切れると、鏡の中でレイがこちらを見ていた。
「待って。今ので覚えたの?」
「全部じゃないです。途中、一個分かんなくて」
「一個?」
「ナツさんが真ん中に来る前です」
ミオが吹き出した。
「気持ち悪いくらい早いね」
ひよりはミオを見る。
「それ、褒めてます?」
「ちゃんと褒めてる」
「言葉が怖いんですけど」
「私も似たようなこと言おうと思ってた」
レイが言うので、ひよりはすぐに首を振った。
「やめてくださいよ」
ユナが笑い、隣でリサも口元を緩めている。ひよりも少しだけ笑った。
「じゃあ、今度は普通に合わせよう」
リオの声で、全員が位置へ戻った。ひよりも鏡を見ながら自分の場所を確かめる。
音楽が始まった。
今度はさっきより身体を大きく使った。右へ二歩入り、腕を伸ばして強い音に合わせて床を踏み込む。
「あっ」
すぐ横でユナの声がした。身体を避けるように、ユナが斜めへ抜ける。
「ストップ」
リオの声と同時に、佐伯が音を止めた。
「ごめんなさい!」
ひよりはすぐユナへ向いた。
「大丈夫、大丈夫。ぶつかってないから」
「今、私……」
「一歩大きい」
リオが床を指した。
「ひより、さっきここまで出てた。振りは合ってるけど、そこまで来るとユナが通れない」
「……はい」
ひよりは足元を見た。土曜日には、大きく踏み込むほど客から声が上がり、腕も足も届くところまで伸ばす方が気持ちよかった。同じように踊っただけなのに、今日はユナの通る場所を塞いでしまった。
「すみません」
「もう謝ったでしょ」
リオの声に、ひよりが顔を上げる。
「次、そこだけ小さくして。もう一回やろ」
「……はい」
叱られると思っていたわけではない。それでも、もう一度と言われたことに少しだけ驚いた。
「社長、頭からお願いします」
「はーい」
すぐに音楽が戻った。同じところまで来ると、ひよりは踏み込む前に横を見た。ユナが来る。さっきより一歩を小さく取ると、今度は何事もなく目の前を抜けていった。
そのまま次の位置へ入れば、正面からアンが来た。この角度で腕を伸ばせば重なる、と気づいた瞬間、アンが半歩外へ開く。ひよりも少し腕の向きを変えると、二人の間にちょうど一本分の空間ができた。
鏡越しに目が合った。次の音が来る。二人は同時に別の方向へ向いた。
今度は誰も止めなかった。曲が最後まで進み、八人の身体が同じ拍子で止まる。
「今の全然いいじゃん」
レイが言った。
「ほんとですか」
「うん。最初がでかすぎただけ」
「レイ」
リサが呆れたように呼ぶ。
「言い方」
「でも本当じゃん」
ひよりは、さっきユナの進路を塞いだ場所をもう一度見た。ここまで大きく出ると通れないから、半歩戻る。何が駄目だったのか分かり、直してみれば、次には同じ場所を一緒に踊れる。
それが、妙に気持ちよかった。
「何笑ってるの?」
ユナに聞かれ、ひよりは自分の口元へ触れた。
「え?」
「今、笑ってたよ」
「……別に」
笑っていたことに、自分では気づいていなかった。
*
休憩に入ると、ひよりは壁際へ座り、ペットボトルの水を飲んだ。身体を動かすつもりで来たわけではないはずなのに、Tシャツの背中には薄く汗が張りついている。
「ねえ」
アンが隣へ座った。さっき言っていた話だと分かり、ひよりはボトルを膝の上へ置いた。
「はい」
「土曜の動画なんだけど」
「……はい」
「あのソロ。次、あたしやりづらいんだけど」
「え?」
アンは両手の指で小さなハートを作ってみせた。
「あたし、これ前に出して、回って終わりだったの。なのに客に声出させるし、ハート作らせるし、間違ってる人まで拾うし」
「間違ってる人を拾ったわけじゃないです」
「真似してたじゃん」
「あれは、向こうが直してくれたから」
「それをまた真似したでしょ」
「……しました」
「ほら」
アンは指をほどき、少し不満そうに口を尖らせた。
「次、普通にこれやったら地味じゃん」
「ごめん」
「だから、なんで謝るの?」
「困るって言うから」
「困るけど、助かったのは助かったし」
アンは水を一口飲んでから、少しだけ声を落とした。
「来なかったのは、あたしだから。佐伯さんとはもう話したし」
ひよりは返事をしなかった。アンもそれ以上、その日の欠席について話そうとはしなかった。何か聞くべきなのか迷ったが、知り合ったばかりの自分が聞くことでもない気がした。少しして、アンが膝を立てる。
「だから次、あたしも何かやる」
「何を?」
「まだ決めてない」
「ハートじゃなくて?」
「それを今考えるんでしょ。一回あんたに持ってかれたままなの、なんか嫌だし」
「私、勝負するつもりは」
「今はしてない」
「今は?」
「細かいなあ」
アンが笑い、ひよりもつられて笑った。
「あと、アンでいいから」
「え」
「アンさんって変。あたし十七だし」
「私より下ですよね」
「だから何?」
「いや……なんとなく」
「じゃ、アン」
「うん」
口に出してみると、さっきまでより少しだけ距離が近くなった気がした。
「でも、その……あれは良かったと思う」
横から声がして、二人が同時に顔を上げた。タオルを首に掛けたリオが立っていた。
「分かってる」
アンが答える。
「客もすごい返してたし」
「だから次、あたしもやるって話してたんだけど」
アンが隣のひよりを指した。リオは二人を見比べてから、首のタオルを片手で掴んだ。
「……それなら、いいけど」
「ひよりが困ってたら助けに来たわけ?」
「聞こえたから来ただけ」
少し離れたナツが、とうとう笑い声を漏らした。リオはそちらへ向いたが、ひよりに見られていると気づくと、声を抑えた。
「ナツ。そうやって笑うから、変になるんでしょ」
「私は何もしない方がよさそうだね」
ナツはボトルを持って離れていく。リオも「ちょっと」と呼び止めながら後を追った。
ひよりは二人の背中を見送ってから、アンへ向き直る。
「何なんですか?」
「知らない」
アンはそう答えたが、少し笑っていた。
*
「最後、一回だけ最初から通すわよー」
佐伯の声がかかり、全員が鏡の前へ戻った。ひよりも自然にさっきの後ろの位置へ向かい、そこで初めて、自分が何のためにここへ来たのかを思い出した。見学だったはずだ。ところが時計を見ると、もう二時間近く経っている。そのうちかなりの時間を、自分も七人と一緒に踊っていた。
「ひよりさん」
ナツが振り返る。
「何?」
「最後までやる?」
少しだけ考えて、ひよりは頷いた。
「やります」
「うん。知ってた」
「じゃあ、なんで聞いたんですか」
「一応」
音楽が始まった。今度は最初からなので、まだ知らない振付もある。そこでは前の七人を見ながら無理に大きく動かず、分かるところまで来ると身体を合わせた。
リオが前へ出ると、ナツの歌声が部屋を抜けていった。マイクも何も使っていないのに、踊りながら出しているとは思えないほど音がぶれない。その後ろでアンが振り向くのを見ながら、ひよりは先に半歩引いた。
さっき塞いでしまった進路を、今度はユナがそのまま抜けていく。ひよりも止まらず、次の位置へ入れた。
鏡の中には七人がいて、その後ろに自分もいる。白い衣装もない。胸に青いリボンもない。客席から「見習いちゃん」と呼んでくれる人もいない。それでも、サビへ入るころには自然と口元が緩んでいた。
土曜日とは違う。今日は誰かが来なかったから、この場所にいるわけではない。ただ一緒に踊っている。
最後の音で八人の身体が止まり、部屋にいくつもの荒い呼吸が重なった。
「お疲れー!」
レイがその場へ座り込んだ。
「もう無理。腹減った」
「さっきお菓子食べてたでしょ」
ミオが言う。
「あれは休憩」
「食事じゃないの?」
「別腹」
「使い方違うよ」
あちこちから笑い声が上がる。ひよりも息を整えながら笑った。
歓声はなかった。青い光もなかった。それでも、まだ少し踊り足りなかった。
*
着替えを終え、ひよりは鞄を肩へ掛けた。
「今日はありがとね」
佐伯が入口まで来た。
「いえ。こっちこそ、ありがとうございました」
「加入の話は急いで決めなくていいわよ。ナツが勝手に口説いただけなんだから」
「口説いたって言い方やめてよ」
離れたところからナツが声を上げる。
「だって似たようなもんでしょ」
「全然違う」
二人の言い合いを聞きながら、ひよりは扉を開けた。
「じゃあ、お疲れさまでした」
「お疲れー」
何人かが手を振ったので、ひよりも振り返した。廊下へ出て階段の方へ歩きかけたところで、ふと足が止まる。ひよりは振り返った。
「あの」
まだ扉の近くにいたナツが顔を出す。
「ん?」
「次って……金曜ですよね?」
ナツが一瞬だけ目を丸くしたあと、すぐに笑った。
「来るの?」
聞かれて、ひよりは答えられなかった。金曜も仕事が終わったら、この駅へ来る。朝にはまた着替えを鞄へ入れるのだろう。そこまで浮かんでから、ひよりはナツを見た。今度は、何の念のためだと言うつもりだろう。
扉の奥では佐伯もこちらを見ていた。
「佐伯さん」
「なあに?」
「この前の話って、まだ……」
そこまで言って、ひよりは口を閉じた。また向こうから答えを出してもらおうとしている。
土曜日は、一曲だけだった。今日は、見るだけのつもりだった。どちらも、もう終わっている。
ひよりは部屋の中へ目を向けた。ナツの後ろにはリオがいて、少し離れたところでアンもこちらを見ている。レイたち四人まで、何の話が始まったのかと片づける手を止めていた。
ひよりは鞄の紐を握り直した。
「今日みたいに、誰かの代わりじゃなくて……私も一緒に踊りたいです」
ナツが笑うのをやめた。佐伯も何も言わず、ひよりの続きを待っている。部屋にいた全員の視線が集まった。土曜日の客席より、ずっと少ない。それでも今度は、目を逸らさなかった。
「私、入りたいです」
一度、自分の口から出た言葉を確かめる。
「リトルフレアに」




