第7話 一曲だけのはず
「……入るって、メンバーってことですか」
ひよりは、ようやくそれだけ聞いた。
「そうだよ」
「アイドルですよね?」
「そうだよ?」
「私が?」
ナツが一度、左右を見た。
「他に誰かいる?」
「いや、いないですけど」
答えてから、自分でもおかしな返事だと思った。ナツが吹き出した。
「そんな確認する?」
「だって」
ひよりはライブハウスの入口を見た。扉の向こうからは、もう次の出演者の音が漏れている。ほんの少し前まで、自分もあの地下にいた。白い衣装の胸に青いリボンをつけ、手を伸ばせば、名前も知らない人たちが返してくれた。
今はもう、いつもの服を着ている。
「私、今日、見に来ただけなんですけど」
「知ってる」
「一曲だけって言われて」
「うん」
「だから出たんです」
「うん」
「……アイドルになるつもりで出たわけじゃないです」
ナツは笑わなかった。
「それも分かってるよ」
あっさり返され、ひよりは次の言葉を失った。あんなに踊れたんだから、向いてるからと、もっと勧められると思っていた。そう言われれば、無理です、と返せたのに。
ナツは何も足さない。ひよりの方が落ち着かなくなった。
「……なんで私なんですか」
「楽しかったから」
「誰が?」
「ひよりさんが」
ひよりは口を閉じた。
「途中から、めちゃくちゃ楽しそうだったじゃん」
「それは……」
「楽しくなかった?」
すぐに否定しようとして、できなかった。最後のサビがもう一度あればいいと思った。客の声を、もっと聞きたかった。青い光を持ったあの男が、次は何をするのか見たかった。
「……楽しかったです」
「うん」
「すごく」
言ってしまうと、胸の奥が少しだけむず痒くなった。ナツが笑った。
「じゃあ、いいじゃん」
「よくないですよ」
「なんで?」
「だから困ってるんです」
「困るの?」
「だって、楽しくなかったら、今日だけで終われたじゃないですか」
ナツが目を丸くした。ひよりも、自分が何を言ったのか少し遅れて分かった。
「あ、違います。そういう意味じゃなくて」
「どういう意味?」
「一曲だけだったからできたんです。失敗しても、今日だけなら終わると思って。毎週あんなところに出るとか、ずっと人に見られるとか、そういうのは……」
言っているうちに声が小さくなった。ナツは少し考えてから頷いた。
「じゃあ、今日決めなくていいよ」
「え?」
「水曜と金曜、みんなで練習してるから。一回見に来たら?」
「練習を?」
「うん。見るだけでもいいし」
「見るだけ」
「そう」
ずいぶん簡単に言う。
「行ったら、入ることになるんじゃないですか」
「ならないよ」
「本当に?」
「どんな事務所だと思ってるの」
「今日、客をいきなりステージに上げた事務所です」
ナツが口を開いたまま止まった。
「あー……」
「ほら」
「それは社長が悪い」
「全部押しつけましたね」
「だって私じゃないもん」
ナツは笑いながら、上着のポケットからスマートフォンを取り出した。
「連絡先だけ交換しよ。気が向いたら連絡して。来なくても追いかけないから」
「追いかけてきたじゃないですか、今」
「今は言うの忘れてたから」
それは本当にそうらしい。ひよりは迷ってから、自分のスマートフォンを出した。連絡先を交換すると、画面に水瀬ナツの名前が増えた。今日まで、存在すら知らなかった人だった。
「じゃ、気をつけて帰ってね」
「はい」
「今日はありがと」
「こちらこそ」
ナツが地下へ戻ろうとする。
「あの」
ひよりが呼ぶと、ナツが振り返った。
「水曜、行くとは言ってないですからね」
「うん」
あまりにも普通に返された。ナツは手を振り、扉の向こうへ消えた。ひよりはしばらく、その扉を見ていた。
*
翌日は、昼近くまで寝た。身体を起こした途端、太腿が重かった。
「いた……」
両腕を上げると、肩にも少し張りがある。昨日、普段より大きく踏み込んだからだろう。
ひよりは布団の上で身体をひねり、無意識に右足を引いた。続けて腰を落としかけたところで、ようやく自分が何をしているのか気づいた。
「何やってんの」
誰もいない部屋で言った。
顔を洗って遅い朝食を食べ、録画していたアニメを一本再生した。画面の中では、主人公が敵の城へ忍び込んでいた。
見張りを倒したところで、ひよりはスマートフォンを手に取った。
通知は来ておらず、ナツからも何も届いていない。追いかけないと言ったのだから、当然だった。
スマートフォンを置いて続きを見たものの、主人公が城の奥へ進むころには、また手が伸びていた。今度は検索欄を開く。
何を調べようとしたのか考えるより先に、指が文字を打っていた。
リトルフレア。
入力し終えてから、ひよりは一度画面を見た。自分から検索している。それでも消さず、そのまま検索した。
公式アカウントや、昨日のライブについて書いている人、出演者の写真が次々に出てきた。
少し下へ動かすと、「昨日の新曲よかった」という投稿があった。そのすぐ下には、「最後の見習いちゃん誰だったんだろ」と書かれている。
「見習いちゃん……」
小さく口にした。名前を言っていないのだから仕方がない。さらに、「青の子、普通に踊れててびっくりした」という感想もあった。
ひよりは画面を閉じた。知らない人が自分のことを書いている。昨日、あれだけ大勢に見られたのに、文字になると急に落ち着かなくなった。
テレビへ目を戻す。話が少し進んでいたので巻き戻した。今度こそ見る。そう決めたはずなのに、数分後にはまたスマートフォンを持っていた。
ライブを主催したアカウントが、昨日の様子を短い動画にまとめている。ひよりは親指を止めた。出演したグループが数秒ずつ映る動画だった。ひよりは再生ボタンを押した。
知らないグループが二組続き、リトルフレアの名前が出る。
ピンク、白、緑、オレンジの四人が映ったあと、画面が切り替わる。そこには赤と黄色、その間に青がいた。
「うわ」
反射的にスマートフォンを伏せた。胸の鼓動が速くなった。自分が映ることくらい分かっていたのに、他人の撮った映像の中にいる自分は、鏡よりずっと知らない人に見えた。
数秒だけ伏せたままにした。テレビでは、止めたままの主人公が剣を構えている。
ひよりは結局、スマートフォンをもう一度表へ返した。動画を最初まで戻す。またリトルフレアのところまで待った。青い衣装の自分が、客席へ腕を伸ばしている。ほんの数秒の映像だったのに、自分が笑っていることはすぐ分かった。思っていたより、ずっと大きな口を開けていた。
「……こんな笑ってたんだ」
もう一度再生して、今度は顔ではなく足元を見た。リオの後ろを抜けるところで、ひよりの目が止まる。
少し近い。土曜はぶつからなかったけれど、もう少し自分の側へ寄った方がよかったかもしれない。
次に腕が上がる。止め方は悪くない。その直後、自分が客席のどこかを見て笑った。映像はそこで次のグループへ切り替わった。
ひよりは二回、三回と巻き戻し、四回目の途中でようやく自分が何をしているのか気づいて再生を止めた。
「もういいでしょ」
スマートフォンを机へ置いた。止めていたアニメを再開する。主人公はようやく敵へ斬りかかった。その戦いが終わるころには、スマートフォンはまた、ひよりの手の中にあった。
*
月曜日に会社へ行くと、土曜日のことなど最初からなかったようだった。いつもの服でいつもの机に座り、パソコンを立ち上げる。隣では電話が鳴り、少し離れた席では、昨日見たテレビの話をしている人がいた。
「榎本さん、週末ゆっくりできた?」
向かいの席から聞かれた。
「あ、はい。土曜はライブを……」
「ライブ?」
「見に行ってました」
「へえ。誰の?」
「リトルフレアっていう、アイドルです」
自分も出ました、とは言わなかった。嘘はついていない。
「アイドル好きなんだ。意外」
「あんまり、行ったことはないです」
それも本当だった。
相手は「そうなんだ」と言って、自分の画面へ向き直った。
ひよりも画面へ顔を向けた。頼まれていた数字を入力する。
しばらくして、右足が土曜日の拍子に合わせ、踵を上げたり下ろしたりしていることに気づいた。頭の中では「はい、はい、はい」と客の声まで続いている。
ひよりは慌てて足を止め、周囲を見た。誰もこちらを気にしていない。両足を床へつけ、仕事に戻った。
少しすると、今度は左足のつま先が拍子を取り始めた。
「……」
机の下で、自分の靴をもう片方の靴で押さえた。
*
昼休み、弁当を食べ終える少し前にスマートフォンを開いた。ニュースを見て、天気も確かめた。そこでやめればよかった。
検索履歴に残っていたリトルフレアの名前を押すと、昨日と同じような投稿が並んだ。大勢が騒いでいるわけではない。少し下へ動かしたところで、一つだけ初めて見る文章があった。
――見習いちゃん、また出るなら次も行きたい。
ひよりの指が止まった。「また出るなら次も行きたい」。上手かった、でもない。かわいかった、でもない。書かれていたのは「次も」だった。
そこまで読んで画面を閉じ、残っていた卵焼きを口へ入れた。けれど、噛んでいる途中でもう一度開いてしまった。文章は変わっていなかった。
反応をつけそうになり、やめる。自分への感想に自分で反応するのは、さすがに変だ。スマートフォンを伏せた。
午後の仕事が始まっても、短い一文が頭の端に残った。「また出るなら」――出ない、と決めればそこで終わるはずなのに、その後ろの「次も行きたい」まで一緒についてくる。
*
家へ帰って夕食を済ませ、風呂から上がった。部屋で髪を乾かし、テレビのリモコンを持ったところで、机のスマートフォンへ目がいく。電源を入れる前に、そちらへ手を伸ばした。
ナツとの連絡画面は、土曜日に交換したばかりなので、ほとんど何もない。最後に送られてきた、よろしく、という短い文を見ていた。
ひよりは入力欄を押し、「水曜の練習なんですけど」まで打ったが、すぐに消した。スマートフォンを置いて水を飲みに立ち、戻るとまた画面をつける。
今度は「水曜って何時からですか」と打った。けれど、これでは行くつもりみたいで、また全部消した。
「別に、行くって決めたわけじゃないし」
誰も聞いていない。ひよりはベッドへ腰を下ろした。見るだけでもいい。土曜日のナツの声を思い出し、ひよりは膝に置いたスマートフォンを裏返した。
けれど、ライブハウスへ行ったときも最初は「見るだけ」のつもりだった。ひよりは顔をしかめた。
「あれ、全然見るだけじゃなかったじゃん」
言ったところで、ナツのせいではない。それでも少し腹が立った。
ひよりはもう一度スマートフォンを取った。今度は「水曜の練習、見学だけでも行っていいですか」と最後まで打った。読み返しているうちに親指が止まる。戻るなら今だった。それでも、送信した。
「あ」
声が出た。取り消そうか迷っているうちに、既読がついた。
「早っ」
数秒後、返事が来た。
――もちろん!
続けて、場所と待ち合わせについて短い連絡が届く。最後には、笑っているスタンプまでついていた。ひよりはしばらく画面を見た。
「見学だけだから」
ナツに送る代わりに、自分の部屋へ言った。
スマートフォンを机へ置き、そのままベッドへ戻ろうとして足を止めた。少し迷ってから机の端へ両手をかけ、壁際まで押す。椅子も横へ寄せ、床に何もないことを確かめた。
音楽は流さなかった。土曜日に一度踊っただけなのに、最初の音はまだ頭の中に残っていた。
リオとナツの肩が後ろにあったときの向きで立ち、腕を伸ばして振り向く。身体は続きを覚えていて、右足を引き、腰を落とし、リオの後ろを抜けるところで一度止まった。
日曜に見た映像では、少し近かった。ひよりは元の位置へ戻り、今度は一歩を少しだけ自分の側へ取ってやり直した。頭の中の曲が、そのままサビへ入る。
水曜日は見学するだけだ。ひよりは誰にも聞かせずそう決めたまま、土曜日より大きく腕を伸ばした。




