第6話 見習いちゃん
照明が落ちても、拍手は止まらなかった。ナツに手を引かれ、ひよりは暗い舞台袖へ入った。リオもすぐ後ろから戻ってくる。客席から声が追いかけてきた。
「見習いちゃーん!」
ひよりは肩を跳ねさせた。振り返りそうになって、やめる。もうステージは見えない。黒いカーテンの向こうで、まだ青い光が揺れているのが少しだけ見えた。
「お疲れー!」
ナツが繋いでいた手を離し、そのままひよりの背中を叩いた。
「すごかったじゃん!」
「……何がですか」
「何がって」
ナツが笑う。
「全部」
ひよりは返事ができなかった。身体中が熱く、胸がまだ上下している。髪を留めたピンの下から汗が耳の横へ伝う間にも、さっきの自分が浮かんできた。客に向かって手を伸ばし、耳に手を当て、ハートまで作っていた。知らない男の人が失敗したハートを、わざわざ真似までしたのだ。
ひよりは両手で顔を覆った。
「……私、あんなことしてました?」
「してたしてた」
「止めてくださいよ」
「なんで?」
「なんでって……!」
顔から手を離すと、ナツは楽しそうに笑っていた。
「すごいウケてたじゃん」
「だから余計に恥ずかしいんですけど!」
思っていたより大きな声が出て、ひよりは口を閉じた。ナツが一瞬目を丸くしたかと思うと、また笑い始める。
「喋れるじゃん」
「喋れますよ」
「さっきまでずっと、すみません、はい、すみません、だったから」
「そんな言ってないです」
「言ってたよ」
横からリオが入った。
「五回くらい」
「数えてたんですか?」
「数えてないけど」
リオはマイクをスタッフに返しながら、ひよりの前まで来た。ステージで大きく笑っていた顔は、もう真面目な表情へ戻っている。額にはまだ汗が残っていた。
「あの間奏、何するか決めてた?」
「いえ。声をかけられたので、耳に手を当ててみたら、また返してくれて」
ひよりは片手を耳へ寄せかけ、途中で下ろした。さっきの客の声まで思い出してしまった。
「ハートも、前の人たちがやってくれたから。あの人、何回直しても斜めになって……」
つい笑いかけたが、リオはまだ真剣な顔をしていた。
「最後、後ろの方まで見てたよね」
「人がいたから」
リオは黒いカーテンの方を見た。ひよりもつられて振り返ったが、もう客の顔は見えなかった。
「初めて立って、振り覚えるだけでも大変なのに。途中から一人ずつ見てたでしょ」
「最初は、顔なんて上げられなかったです」
「それが途中からできてたんだよ」
そう言われると、否定もできなかった。最初は顔を上げるのも怖かった。なのに最後は、次にどの人を見るかまで考えていた。ひよりは自分の胸元を見た。大きな青いリボンが、呼吸に合わせて揺れている。
「楽しくなっちゃって」
小さく言った。リオがまたこちらを見た。その後ろから佐伯が歩いてきた。
「三人とも、お疲れさま」
片手にはスマートフォンを持ったままだった。
「榎本さん、大丈夫? 気分悪くない?」
「大丈夫です」
「水飲んで」
受け取ったボトルへ一口だけのつもりで口をつけたが、なかなか離せなかった。ようやく顔を上げると、ナツが笑っていた。
「喉からっからじゃん」
「暑かったので」
「歌ってないのにね」
「ちょっと歌いました」
「歌ったの?」
「最後だけ」
「マイクないのに?」
「だから歌ったんです」
ナツが声を上げて笑った。佐伯も口元を緩めたが、リオだけは少し考えるような顔をしていた。
「社長」
「ん?」
「廊下で見たときから、こうなると思ってた?」
佐伯はすぐには答えなかった。ひよりはボトルを両手で持ったまま、二人を見比べた。
「踊れるとは思ったよ」
佐伯が言った。
「止まるところも、重心の移し方もきれいだったから。でも」
一度、舞台の方を見る。
「客まで見るとは思ってなかった」
「……そんなに変なんですか?」
「変っていうか」
ナツが口を挟んだ。
「褒められてるんだよ」
「だったら最初からそう言ってください」
また、少し大きな声が出た。ナツが笑い、佐伯まで笑った。ひよりはボトルを口につけた。もう水はほとんど残っていなかった。
*
「なに、この子。元気じゃん」
聞き覚えのある声に振り向いた。さっき舞台袖ですれ違った、ピンクの飾りをつけた女の子が立っていた。後ろには、白、緑、オレンジの衣装を着た三人もいる。前半にステージへ出ていた四人だった。
「ステージ行く前、めちゃくちゃ怯えてなかった?」
「レイ、最初からそこ言う?」
白い衣装の女の子が笑った。
「まずお疲れさまでしょ」
「あ、そうだった。お疲れ」
ピンクの子がひよりの肩を叩く。
「すごかったじゃん。途中から普通に客さらってたし」
「さらってはないです」
「さらってたさらってた。私、袖から見てたもん」
「レイは声が大きい」
オレンジの女の子が言った。その人は四人の中で一番落ち着いて見えた。ひよりの前へ来ると、畳んだタオルを差し出す。
「先にこれ使った方がいいよ。汗、すごいから」
「あ、ありがとうございます」
受け取って額を押さえる。
「リサ、そういうとこお母さんっぽいよね」
緑の女の子が言った。
「それ嫌いって言ってるでしょ」
「ごめん」
謝るのが早かった。白い衣装の子がひよりを覗き込んだ。
「で、この子、名前なんていうの?」
「榎本ひよりです」
「本名じゃなくて」
「え?」
「ステージの名前」
ひよりが佐伯を見ると、向こうもひよりを見ていた。二人が顔を見合わせている横で、ナツが口を開いた。
「ないよ」
「ないの?」
「今日いきなり連れてきたんだから」
白い子は一度瞬きをしてから、吹き出した。
「じゃあ本当に見習いちゃんなんだ」
「見習いでもないです」
ひよりは思わず訂正した。
「私、お客です」
一瞬、誰も何も言わなかった。レイが佐伯を見る。
「社長、客をステージに上げたの?」
「事情が事情だったんだよ」
「いや、それは聞いてるけど」
「それで踊れちゃったのが、この子」
ナツが言った。緑の子が、ひよりの胸元を見た。
「でも青、似合ってたよ」
「これ、借りただけです」
「そっか」
そう言いながら、青いリボンをじっと見る。
「そのままでもよさそうなのに」
ひよりは何と答えればいいか分からず、またタオルで額を押さえた。リオが隣から言った。
「左から、レイ、ミオ、ユナ、リサ」
「雑!」
レイが振り返った。
「ちゃんと紹介してよ」
「今したじゃん」
「名前並べただけでしょ」
「覚えられないよ、一気に言われても」
ミオにつられて、ひよりも少しだけ笑った。知らない人が一気に四人増えて、何を話せばいいのかは今も分からない。いつもなら、それだけで困っていた。
けれど、さっきまで声をかけてきたのは、もっと大勢の知らない人たちだった。名前も知られないまま呼ばれていたときに比べれば、目の前の四人は顔が見える。
「あの」
ひよりは四人へ頭を下げた。
「今日は、勝手に入ってすみませんでした」
「勝手に入れたの社長だから」
レイが即座に言った。
「そうそう」
ユナも頷く。
「責任取るならそっち」
「俺だけ悪者にしないでくれる?」
佐伯の声に顔を上げると、リサはまだ笑っていた。ミオはひよりよりも、佐伯の困った顔を見て楽しんでいる。それを見ているうちに、ひよりも口元が緩んだ。
*
ライブハウスを出た眼鏡の男は、階段の上で足を止めた。後ろから上がってきた男が肩へぶつかりそうになり、横へ避ける。
「何してんの」
「いや」
手に持ったペンライトを見る。
ペンライトは、まだ青く光っていた。
「さっきの青、誰?」
「見習いって言ってたじゃん」
「見習いちゃん?」
「知らん」
「次も出るかな」
後ろから、タンクトップ姿の男が上がってきた。
「出るなら見たい!」
「声でかいって」
「今日よかったじゃん!」
眼鏡の男がペンライトの電源を切ると、青い光が消えた。そのままスマートフォンを取り出した。
今日のライブについて投稿している人が、すでに何人かいた。投稿には、リオの歌やナツの声、新曲を褒める感想が並んでいた。その中に、一つだけ気になるものを見つけた。
――最後に出てきた見習いちゃん、何者?
眼鏡の男はその投稿に反応をつけた。画面を閉じかけて、やめる。投稿欄を開き、自分でも一つ打った。
――見習いちゃん、また出るなら次も行きたい。
短い文を一度だけ読み返し、そのまま送信した。
*
衣装を脱ぐと、急に寒かった。ひよりは会社にも着ていく薄いシャツへ袖を通し、自分のパンツを履いて鏡の前へ戻った。スカートの広がる感じは、もうない。
机の上に、ナツにつけてもらった青いリボンがあった。さっきまで胸の真ん中で揺れていたのに、衣装から外されると、ただの大きなリボンに見える。髪のピンも抜くと、前髪が落ちてきた。目元が隠れて、ひよりは少し安心した。
「はい」
リボンをナツに渡す。
「ありがとうございました」
「こっちこそ」
ナツは受け取ったが、すぐにはケースへ戻さなかった。
「ほんと似合ってたよ」
「もういいです、それは」
「なんで」
「恥ずかしいから」
「ステージであれだけやって?」
「ステージの話はしないでください」
「無理でしょ」
ひよりは鞄を持った。鏡の中には、白い衣装も青いリボンもない、いつもの自分がいた。化粧は少し残っていたが、それでもさっきステージで見た自分とは違って見える。
これで終わりなのだと思うと、変な一日だったという感想だけでは片づけにくかった。ライブを見に来ただけなのに、知らない曲を覚えて、知らない人たちと一緒に踊った。客に声をかけられ、自分へ向いた青い光まで見た。何より、楽しかった。
そこまで考えて、ひよりは鞄の持ち手を握り直した。楽しかった一日として終わればいい。今日だけなら、それで十分だった。
「社長」
リオの声がした。佐伯がスマートフォンを見ていた。
「アン?」
「うん」
楽屋の空気が少し変わった。ナツも青いリボンを持ったまま、佐伯を見る。
「連絡ついた?」
「ついた。無事だって」
リオの肩が少し下がった。
「よかった……」
その声に重なるようにナツも息を吐き、佐伯は画面を消した。
「話はあとでする。今日はこのままにはしない」
声は静かだった。それ以上、誰も何も言わなかった。
ひよりは机の上に残った紫の衣装を見た。本当なら今日ここにいたはずの人の場所へ、自分は青いリボンをつけて一曲だけ入った。やっぱり今日だけでいい、とひよりは思い直した。
*
「今日は、本当にありがとうございました」
ひよりは楽屋の入口で頭を下げた。
「こちらこそ。助かりました」
佐伯も頭を下げる。
「気をつけて帰って」
「はい」
「またね、ひよりさん」
ナツが手を振る。ひよりも小さく振り返した。リオは何か言いかけてから、結局「……お疲れさま」とだけ言った。
「お疲れさまでした」
階段を上がるにつれて、次の出演者の低い音が遠くなった。外へ出ると夜の空気が冷たく、さっきまでライトの下にいたせいか、街灯まで暗く見える。
ひよりはスマートフォンで時間を確かめた。帰ったら風呂に入って、汗のついた髪も洗おう。明日は休みだから、寝る前に今日見られなかったアニメの続きを――
「ひよりさん!」
後ろからの声に振り返ると、階段を駆け上がってきたナツが、扉を押して外へ出てきた。
「どうしたんですか?」
「ちょっと待って」
ナツは数歩近づき、息を整えた。
「言うの忘れてた」
「何を?」
ナツが顔を上げる。さっきまでつけていた黄色い飾りは外していた。それでも、ステージで見た笑い方だけは同じだった。
「ねえ、ひよりさん」
「はい」
「リトルフレア、入らない?」
ひよりは瞬きをした。後ろを車が一台通り過ぎた。
聞き間違えたと思った。けれどナツは、そのまま返事を待っていた。




