第5話 まだ名前も知らない
青いペンライトを持った眼鏡の男が、目を丸くしていた。ひよりは自分の胸を指さした。男が大きく頷き、隣の人まで頷くので、思わず吹き出してしまった。
「かわいい!」
少し離れたところから声が飛んだ。
ひよりは膝を弾ませ、横へ二歩、滑るように移った。進む方向とは逆側へ肩を残し、次の強い音で身体の向きを切り返す。
青い光が追いかけてきた。ひよりは踏み出しかけた足を止め、その男へ顔を向けて片手を耳に当ててみせた。
真正面から、声が返ってきた。思っていたより大きい。
ひよりは目を見開き、次の拍子で肩をすくめた。驚いた顔のまま、つま先でくるりと向きを変える。客席から笑い声が上がり、ひよりも笑いながら、着地した足でもう一度床を蹴った。
白い裾がひらくのに合わせて、両腕を頭の上へ上げた。大きなハートにすると、客席にも、いびつなハートがいくつかできた。
眼鏡の男が作ったハートは、片方だけ高かった。ひよりはその人を指し、ハートを作り直した自分の肘を片方だけ低くした。男が慌てて腕の位置を直す。今度は逆へ傾いて、隣の客に肩を叩かれていた。
ひよりは口を大きく開けて笑い、両腕をぱっとひらいた。
指先で作るハートは、結局、一度もしなかった。
腕を下ろしながら膝を折り、短く刻まれる音に合わせて肩を二度跳ねさせる。止まったところで顔だけを客席へ向けると、正面の男が声を上げるより先に、後ろから歓声が飛んだ。
ひよりはそちらを見た。柱の横で、ペンライトを持っていない女性が手を叩いていた。柱の向こうにも、まだ顔があった。
次はあの人たちへ手を伸ばそうとして、間奏の終わりを知らせる音を聞いた。
ひよりは片足を引き、身体を半分返した。振り返った先で、リオとナツが動き出していた。
まだ前にいたかった。それでも、戻る足は音を外さなかった。
振り上げた腕の左に赤、右に黄色がひらき、三人で最後のサビへ入った。
「はい! はい! はい!」
ひよりは息を吸い損ねた。
さっきまで前の方から聞こえていた声が、今は後ろからも重なっていた。腕を上げた客の隙間から、さらに別の腕が上がる。ペンライトを持っていない手まで、二人の歌う言葉に合わせて動いていた。
間奏前より近くに人の顔がある。後ろにいた客が、少しずつ前へ寄ってきていた。ひよりはその顔を順番に見て、振り付けの通りに手を伸ばした。左端の女性と目が合うと、まだ少しだけ逸らしそうになった。けれど次の拍子が来るまで、その人の持つ光の先を見ていた。
ナツが横に並び、歌いながら肩を軽くぶつけてきた。
ひよりの腕が一瞬止まりかけた。ナツはもう客席を向き、何事もなかったように次の言葉を歌っている。
動画にはなかった。
ひよりは横目でナツを見た。向こうは歌っていて、こちらを見る気配もない。次に並ぶところまで待ち、今度は自分から小さく肩を寄せた。
ナツの声の終わりに、笑いが混じった。客席の黄色い光が激しく揺れた。ひよりはそのまま、青いリボンが跳ねるくらい大きく腕を回した。
次に向き合ったリオの額には、汗が浮いていた。歌の合間に短く息を継ぐ。その近さに、ひよりは一瞬だけ目を見開いた。二人で片腕を伸ばすと、指先が重なる寸前、リオが手を引いて大きく踏み出す。
ひよりもついていった。間奏で見惚れた足の運びを思い出し、自分も一歩を広く取ってみる。
リオのスカートへ、ひよりの白い裾が重なった。二人で向きを変え、ひよりは元の場所へ足を戻した。リオはもうマイクを上げ、前の客へ手を伸ばしている。
ひよりも、その隣へ腕を伸ばした。足元はもう見なかった。戻る場所は、分かっていた。
舞台袖を向く振りで、佐伯が目に入った。佐伯は片手にスマートフォンを握り、口を少し開けて舞台を見ていた。画面は暗いままだった。
ひよりは口の端を上げた。佐伯が目を瞬いたときには、もう客席へ向き直っていた。
髪を留めたピンの下を汗が伝った。
白い衣装の裾が太腿に触れ、息を吸うたびに胸の青いリボンが動く。暑かった。喉も乾いていたのに、二人の歌につられて、ひよりの口からも声が出た。
覚えたばかりのサビだった。高い音へ上がりきれず、声が少し裏返る。マイクを持っていなくてよかったと思いながら、それでも次の言葉まで歌った。
ナツの声は、同じところを軽々と越えていった。ひよりはその声に合わせて口を動かし、前へ出た。腕をひらくと、正面で青いペンライトが上がった。あの眼鏡の男が、今度は傾いていないハートを作っていた。
最後にもう一回、返してあげたかった。けれど次の振りは決まっていたので、そちらを見て笑うだけにした。男が隣の人の肩を叩き、何か叫んでいた。
ひよりは片足を跳ね上げ、戻る場所へ踏み込んだ。
ナツが横を抜け、リオと前後が入れ替わる。二人の間から客席が見える瞬間を待ち、ひよりは顔を上げた。次にはまた離れるのが惜しくて、身体が向きを変えるぎりぎりまで客席を見ていた。
曲を聴いたときは、これくらいの長さでちょうどよかった。今は、最後のサビがもう一度あればいいのにと思った。
歌が終わり、伴奏だけが残った。動画の終わりが頭の中で続いていた。リオが一歩下がり、ナツが向きを変える。その間を通って、ひよりは決まった場所で足を止めた。
腕を伸ばし、もう片方の腕を返す。最後の音で、三人が顔を上げた。
一瞬、音がなくなった。
ひよりは息を吐こうとして、その息ごと押し戻された。
歓声だった。
近くの声も遠くの声も区別できなかった。いくつもの手が重なり、赤と黄色と青の光が、さっきより高いところで揺れていた。
「リオー!」
「ナツー!」
「見習いちゃーん!」
ひよりは伸ばしていた腕を下ろし忘れた。ナツの手が、その手を掴んだ。反対側からリオも手を伸ばしてきて、三人で繋いだ手が上がると、客席の声がもう一度膨らんだ。
「ありがとうございました!」
二人に合わせ、ひよりも頭を下げた。顔を上げても、まだ拍手が続いていた。最初に立ったときよりも、たくさんの顔が見える。ひよりは二人の手を握り返したまま、もう一度頭を下げかけた。
「あの子、誰?」
声が聞こえた。別の場所からも、似た声がした。自分のことだった。胸元の青いリボンを指す人までいる。
ひよりは口を開きかけた。
そういえば、名前を言っていない。
そのとき、照明が落ちた。
リオの赤も、ナツの黄色も、ひよりの青も、いっぺんに暗がりへ消えた。
拍手は止まらなかった。ステージが見えなくなっても、まだ上がっているペンライトがあった。
「今の、誰?」
「見習いって。それしか言ってない」
「名前は?」
誰も答えられなかった。




