第4話 客席が近い
腕を伸ばして振り向くと、踏み出す足の先に客席があった。
近い。
ひよりは思わず顎を引いた。前の列の人なら、口元の動きまで見えてしまう。ライトで顔が見えなくなると思ったのは、最初だけだった。
右足を引いて腰を落とし、身体を起こすときに視線を客席の奥へ逃がした。次の腕の向きも、下がる場所も分かっている。動画の中で見た動きが、今は自分の身体にくっついて動いていた。
「見習い、頑張れー!」
誰かが声をかけた。ひよりは返事をしそうになり、口を閉じた。左足を軸に向きを変えると、スカートが思ったより大きくひらいた。部屋で何度回っても、裾はこうならなかった。目の端を横切った青が、身体を止めた後も少しだけ揺れていた。
リオの歌が始まった。ひよりは二歩下がり、空いた場所に入ってくるリオと腕の向きを揃えた。振り向いた先には、こちらへ手を伸ばすナツがいた。
三人の手が、同じ瞬間に止まった。ナツが少し目を見開き、マイクを口元へ寄せた。ひよりが目を戻すより先に、歌が始まった。やわらかいのに、後ろまで抜けていく声だった。家で聴いた動画より、ずっと近くに息づかいがある。ひよりはその声に気を取られかけながらも、ナツの立つ場所を空けた。
サビへ入る前、左の小指を折り込み損ねた。直そうとしたときには、もう腕を下ろす拍だった。ひよりは手の形を諦め、そのまま振り下ろした。
横のリオと肩が揃い、踏み出すタイミングも重なった。最後に顔を上げるところでライトが目に入り、客席から、おっ、という短い声がした。指まで気にしている人がいるだろうか。客席を見る余裕はまだなく、ひよりは真ん中へ出るリオを目で追った。
そこから大きく腕を振った。音が一度に広がり、二人の歌声が重なる。
「せーので、こっちを向いて!」
ひよりが顔を向けると、前の列の何人かが腕を上げた。その一人がこちらを見ていて、ひよりの腕が戻るのに合わせ、その人も腕を戻した。
次の振りでも同じだった。ひよりはまたそちらを見てしまった。
目が合うと、その人は手元のペンライトを一度下げた。親指でボタンを押し、すぐに持ち上げる。
光が、青に変わっていた。
胸元につけてもらったリボンと同じ色だった。喉の奥が、きゅっと狭くなった。こんなところで泣いたら困る。まだ最初のサビなのに。
ひよりは口元に力を入れ、片足を跳ね上げた。相手はもう、青い光を上げて次の動きを待っていた。
*
最前列で青いペンライトを持っていた眼鏡の男が、隣の客へ顔を寄せた。
「この子、新しく入ったの?」
「知らない。発表、なかったよな」
隣の客も、踊っているひよりから目を離さなかった。
最初は顔を見ていた。髪を片側だけ留めた子が、二人の後ろで固い表情をしている。伏せていた目が上がると、客はつい身を乗り出した。青いリボンと白い衣装が、よく似合っていた。
ところが、その子の足は止まらなかった。リオが前へ出ると、青はもう反対側へ回っている。誰かの腕を見てから上げるのではなく、三人の手が一緒に上がり、一緒に下りた。
「普通に、うまくない?」
青い光を持った男が言った。
隣の客は答える代わりに、胸元で拍手していた手を頭の上へ上げた。二番へ入るところで、一度だけ大きく声をかける。
青い子の目が、少しこちらへ向いた。男もペンライトを持ち直した。リオを見るつもりで顔を動かしたのに、気づくとまた、赤い衣装の後ろを通る青を追っていた。
*
二番の移動が来た。ひよりはリオの後ろへ回り、ナツが前へ出るのに合わせて反対側へ抜けた。映像で見た練習場所よりも狭く、リオの袖がすぐ近くを通ったが、身体の向きを変えればぶつからずに済んだ。
止まる足に合わせ、ナツの歌が伸びた。
リオが横へ戻ってきて、何か短く言った。音に紛れて聞こえず、ひよりは顔を寄せかけたが、もう次に二人で前を向くところだった。
慌てて客席へ顔を戻す。少し遅れて流れた前髪が頬にかかり、ピンで留めてもらったところだけが動かなかった。
こちら側には、さっきとは違う顔があった。黄色い光を両手に持ち、ナツが近づくたびに膝を曲げる人がいる。後ろで腕を組んでいた人も、今は片手だけ拍子を取っていた。
赤い光を持った女性と目が合いかけ、ひよりはまだ目を合わせきれず、その隣へ視線を逃がした。女性は気にした様子もなく、リオの歌うところで大きく腕を振っていた。
ひよりも振り付けに合わせて腕をひらいた。袖で小さくなぞったときより、肘を遠くまで持っていける。壁も家具もない場所で、伸ばした手が勢いよく止まった。
もう少し、強く止めてみたい。
次に同じ動きが来たとき、ひよりは足を大きく踏み込んだ。青いリボンが跳ね、客席の端で誰かが声を上げた。
リオがこちらを向いた。ひよりは伸ばした腕を曲げず、次の拍子まで止めてから引き寄せる。次に向き合うところでは、リオも深く踏み込んできた。二人の間で布が揺れ、足元へ赤い光が落ちる。
すぐ近くのリオの顔を、初めて目を逸らさずに見た。その口の端が上がると、ひよりも口元の力を抜き、大きく踏み返した。
間奏へ入ると、リオはそのままひよりの前を通って真ん中へ出た。ここから、一人ずつだった。赤い衣装が低く沈み、すぐに跳ね上がる。リオは振り向きざまに客席を指し、その手を引き寄せた。
「リオー!」
声を受けながら、逆側へ大きく踏み込んだ。髪が肩を打ち、スカートの赤がひらく。
さっき自分が踏み込んだ動きより、もう一つ先まで伸びて見えた。ひよりは後ろで拍子を取りながら、見惚れた。客席で見たかった踊りが、すぐ目の前にあった。
あんなに近くで見たいと思って来たのに、リオの向こう側で揺れる赤い光にも、目がいった。
自分が前へ出たとき、あの人たちは何をしているだろう。
ナツが入れ替わりに出た。両足で小さく跳ね、マイクを持っていない手を大きく振る。端にいた客が慌てて黄色い光を上げると、ナツはその人へ少し身体を傾け、最後に片目を閉じた。前の方の客が一斉に声を上げた。
ひよりは胸の前で指を曲げた。
動画で見たハートを作るつもりだったが、片手を耳へ寄せ、すぐに下ろす。
リオが手を引き寄せたとき、客席がどっと応えたのを思い出した。
手を振って笑えばいいと言われている。何かしようとして、客が黙ってしまったら。次のサビまで、どこを見ればいいのだろう。
ナツがこちらを向いた。もう、順番だった。
戻ってくるナツが片手をひらいた。ひよりも反射的に手を出すと、掌がぱんと重なった。その勢いのまま前へ出た。誰の背中もない場所で、客席の顔が一斉にこちらへ向く。
「見習いちゃーん!」
長く伸びた声が、真正面から飛んできた。ひよりは思わず、その人を見た。
お読みいただき、ありがとうございます。
地下アイドルのライブは、ただステージを見るだけではなく、ペンライトを振ったり、コールを入れたり、一緒に手拍子したりと、いろいろな楽しみ方があります。
でも、最初から全部できなくても大丈夫。後ろで静かに見たり、雰囲気を味わったりするのも立派な楽しみ方です。
このイラストでは、初めての人にも分かりやすいように、地下アイドルライブの代表的な楽しみ方をまとめました。実際は、応援の形はグループごとに違ったりするので、応援したいアイドルやグループに合わせて楽しむのがおすすめです。
★ちょこっと補足★
※地下アイドルの活動スタイルやライブの楽しみ方はグループによって異なります。
※メンバーカラーがあるグループもあれば、カラーで分けていないグループもあります。
※コールやペンライトの有無、会場の雰囲気もそれぞれ違います。




