第3話 一度だけ
「紫のアン。今日は、この位置に入って」
リオが画面の一人を指さした。
ひよりは頷き、佐伯に借りたヘッドホンを両耳に当てた。舞台から響いていた音が遠くなり、動画の中で誰かが手を叩いた。
練習を正面から撮った映像だった。三人が背中合わせに立ち、それぞれ違う方へ腕を伸ばす。振り向いて、前へ。右足を引いて腰を落とすと、二歩で真ん中を空けた。
ひよりはアンを見た。足を追い、肩へ目を戻す。見終えた動きが頭の中で繋がり、次に誰の前を通るかも、曲と一緒に入ってきた。
アンが下がると、赤いリオがその前を通る。アンが右を向くところでは、黄色いナツが振り返った。
手首を返すときの細かな形だけは、よく見えなかった。小指が曲がっているのか、薬指まで曲げているのか。そこを見ている間にも、三人は次の動きへ移っていた。
間奏になると、一人ずつ前へ出た。
リオは低く膝を曲げ、鋭く向きを変えた。ナツは小さく跳ねながら手を振り、最後に顔の横で輪を作った。
アンは指で作ったハートを前に押し出し、くるりと回った。そこから三人が揃い、最後のサビへ入る。
歌が終わっても伴奏は少しだけ続き、その最後の音で、三人が一斉に顔を上げた。
ひよりはヘッドホンを外した。舞台の音が急に戻り、佐伯の問いかけの最初を聞き逃した。
「あ、ごめんなさい。何ですか」
「難しそう?」
「手が、ちょっと」
左手首を返し、指をひらいた。リオが隣で同じ形を作る。
「ここ?」
「そこです。小指を曲げるんですね」
「形は大体でいいよ。それより移動。二番で、私の後ろを通って反対側へ行くから」
「はい。ナツさんが前へ出るときですよね」
リオは上げていた手を下ろした。
「そこ。分からなくなったら、無理して横切らないで」
ひよりは頷き、壁際へ下がった。曲の最初を頭の中で鳴らし、つま先を少し外へ向ける。
肩から腕へ、伸ばす順番を確かめた。回転は半分に縮め、移動するところでは足を入れ替えるだけにする。膝を曲げる深さまで試す場所はなかったので、そこは動画のアンが沈むところを思い浮かべた。
横で、佐伯がスマートフォンを構え直した。
「もう一回、流す?」
「いえ。今、頭の中でやってるので」
ひよりは足元へ目を戻した。袖の隅に置かれたケースへぶつからないよう、半歩だけ下がる。
アンがハートを作っていたところまで来た。ひよりも胸の前で指を曲げてみたが、そこは途中でやめ、最後のサビの動きへ繋いだ。
佐伯は動画の画面を閉じ、届いた連絡を確かめ始めた。その横で、ひよりは最後のサビまで小さく腕を動かした。顔を上げ、足を揃える。一通り、小さくなぞり終えて息を吐いた。袖でできるのは、ここまでだった。
「リトルフレアさん、後半お願いします」
スタッフが顔を出した。リオが返事をし、ナツと並ぶ。ステージから大きな拍手が上がり、ピンク、白、緑、オレンジの飾りをつけた四人が、汗を浮かべて舞台を下りてきた。
「その子?」
先頭のピンクの女の子が、ひよりの胸元の青いリボンを見て佐伯に聞いた。
「あとで説明する。今は交代」
「了解。リオ、ナツ、いってらっしゃい」
四人が脇へ抜ける。ひよりは壁へ寄りながら頭を下げた。何人かが目を丸くしてひよりを見たが、今は誰も足を止めなかった。
「ひよりさん、最後の曲の前に呼ぶからね」
ナツに呼びかけられて、ひよりは頷いた。ナツはマイクを握り直し、空いた手をリオの方へ出した。リオがぱんと叩き、先に舞台へ出る。ナツもすぐに後を追った。
歓声が聞こえた。客席で聞くより、声の一つ一つが近かった。ひよりは袖のカーテンに手をかけ、隙間から顔を出した。
リオが短く挨拶をして、ここからは二人で始めることを伝えていた。心配する声が上がる。ナツがマイクを上げ、前の方の客に手を振ったところで、一曲目が始まった。
昨日まで画面で見ていた子が、数歩先で踊っていた。楽屋で眉間に皺を寄せていたリオが、大きく笑っていた。あの顔の切り替わる瞬間を、ひよりは見損ねていた。
赤と黄色の光が揺れている。その間に、紫の光を持った人もいた。その人は隣の客に何か話し、ステージの空いた場所を見た。
ひよりはカーテンから手を離し、胸元の青いリボンへ目を落とした。
あの紫は、自分を待っている光ではない。
スカートの脇を掴んでいると、佐伯が水を持ってきた。スマートフォンをしまい、ボトルの蓋を開けて差し出す。
「一口、飲んでおこう」
ひよりは飲んだ。喉の奥が乾いていて、一口では足りなかった。
「アンさん、ですか。今日、来てない人」
「うん。まだ連絡はつかない」
佐伯は、ひよりから受け取ったボトルに蓋をした。舞台を見たまま、言葉を続けなかった。
蓋を締めると、佐伯はまたパーカーのポケットへ片手を戻した。ひよりもそれ以上は聞かず、履いてきた靴の底を床へ押しつけた。滑らなかった。部屋で靴下のまま踊るときより、ちゃんと止まれそうだった。
二曲目が始まった。廊下で小さく踊ってしまった、あの曲だった。ひよりは出しかけた足を引っ込め、今度は動く代わりにリオの横顔を見た。
家で真似した腕の伸ばし方も、正面からの動画とは少し違って見えた。肘が大きく張り、指の先まで、客席へ向かって突き出している。
最前列の一人が、嬉しそうに同じ動きを返した。
リオはその人を指して笑い、次にはもう反対側を向いていた。そちらでも、待っていたように腕が上がった。
ひよりはカーテンの端から身を乗り出した。よくあんなふうに、一人ずつ見られる。見られた方も、また呼んでいる。
横から見ていたリオの顔が、ふいにこちらを向いた。
ひよりはカーテンを掴み直した。リオの視線は一瞬で客席へ戻り、曲もそのまま進んだ。こちらを見たのが合図だったのか、振り付けで向いただけなのか、分からなかった。
ひよりは掴んだ手を緩め、最後までそこに立って見ていた。
曲が終わった。リオとナツが息を整えている。佐伯がステージの床を指さした。
「最初は、あの青いテープのところ。呼ばれたら出て」
ひよりが頷くと、客席へナツの声が響いた。
「最後は、新曲『フライング・ハート』です!」
歓声に、リオがマイクを上げる。
「今日は、見習いの子にも入ってもらいます。よろしくお願いします!」
佐伯がひよりの背中に触れた。押すほどの力ではなかったが、ひよりは片足を前へ出した。
ライトの熱が顔に当たった。その向こうで、いくつもの頭がこちらへ動く。
床の青いテープを探して立つと、リオがすぐ隣にいた。
「最初、背中合わせ」
マイクを口元から離して、小声で言った。ひよりが身体の向きを変えると、肩の後ろに別の肩が触れた。反対側には、ナツの衣装の布がある。
誰かが拍手をした。見習い、という声も聞こえた。ひよりは顔を上げきれないまま、最初の音を待った。さっき水を飲んだばかりなのに、もう喉が乾いていた。
曲が始まった瞬間、伸ばす腕だけは迷わなかった。




