第2話 三人目
「出るって、私が、ですか?」
「はい」
「客としてじゃなくて?」
「ステージに立つ方です」
聞き間違いではなかった。佐伯はそこで一度、すみません、と頭を下げた。
「このあと、さっき動画に映ってた三人で出る予定だったんですけど、一人まだ来てなくて。電話も出ない。最後にやる新曲を、その三人でずっと準備してきたんです」
ホールの方からは、さっきステージにいた四人の歌声がまだ聞こえていた。
「でも、私、知り合いでも何でも」
「分かってます。無茶なこと頼んでるのも」
佐伯は楽屋へ続く扉を振り返った。少し開いた隙間から、赤い衣装が見えた。
リオだった。
ひよりは思わず姿勢を正した。画面で見た顔がそこにある。眉間に皺を寄せ、佐伯のスマートフォンを見ていた。
「社長。アン、何か来た?」
「まだ。休むって連絡もないし」
「じゃあ、二人用の位置、決めないと」
「あの、その前に。この子、うちの曲を踊れるんだ」
リオの目が、ひよりに向いた。
「こんにちは。すみません」
「……こんにちは」
リオは挨拶を返したものの、佐伯の腕を引いて二歩ほど離れた。
「お客さんじゃん」
「そうなんだけど、踊ってるのを見て。あの子、ちゃんと踊れるよ」
「知ってる曲を踊るのと、知らない曲でステージに立つのは違うでしょ」
ひよりは紙コップを両手で包んだ。自分のことを話されている間、どこへ顔を向けていればいいのか分からなかった。
扉がもう少し開き、黄色い衣装の女の子が顔を出した。
「リオ、声、聞こえてるよ」
リオが口を閉じた。黄色の子はひよりに向き直り、首を少し傾けた。
「うちの人がごめんね。ナツです。お名前、聞いていい?」
「榎本、ひよりです」
「ひよりさん。学生さん?」
「いえ、十九です。働いてます」
「そっか。同い年だね。ここ、通路だから。説明だけでも、中で聞いてもらっていい?」
ナツに扉を押さえてもらい、ひよりは楽屋へ入った。衣装の入った大きな鞄と、飲みかけのペットボトル。鏡の前には三つの椅子があり、一つだけ空いている。その背もたれには、紫のリボンがついた白い衣装が掛かっていた。ナツに勧められ、ひよりはその椅子へ浅く腰を下ろした。
佐伯は事務所の社長でもあるらしかった。改めて名乗ると、片手に持っていたスマートフォンを机へ伏せて置いた。
「最初の二曲は、この二人でやる。お願いしたいのは、最後の一曲だけ。お客さんには、見習いの子に入ってもらいます、って紹介するから」
「でも、間違えたら」
「下手でもいい。見習いなんだから。急に出すって決めたのは俺だし、そこはちゃんと説明します」
リオが鏡の前から振り返った。
「社長が説明しても、客席から見えるのはこの子だよ」
佐伯は一度口を閉じ、ひよりを見た。
ひよりは紫の衣装から視線を外した。間違えたときの顔も、慌てているところも、人に見られる。うまくいかなかったときに自分がどんな顔をするか、ひよりは知っていた。笑ってごまかそうとして、口元だけが歪む。
「無理なら断ってください」
佐伯は、今度はひよりに向かって言った。
「二人で出すつもりでした。でも、君の踊りを見て、最後だけでも三人でやれるかもしれないと思ったんです。あの曲、止まるところが難しいんだけど、音にぴったり合ってたから」
「そう、ですか」
廊下で半回転した自分を思い出した。踊っているところを見られた恥ずかしさの中に、もう一度やれば、もう少し大きく動けるのにという考えが入り込んだ。ひよりはそれを追い払うように、紙コップの縁へ目を落とした。
「歌は私たちがやる」
リオが言った。
「踊りだけ。ただ、途中に一人ずつ前へ出るところがあるんだけど」
「一人……」
「そこで決まった振りはないの。好きに踊っていいところ」
ひよりは顔を上げた。ナツがひよりとリオを交互に見て、口を挟んだ。
「そこは手を振って、笑ってくれればいいよ。愛嬌で切り抜けて。難しいことはしなくていいから」
「手を振るだけでいいって、最初から言わないでよ」
リオが言った。ナツはひよりに向けて、片手をひらひらと振ってみせた。
「いきなり連れてきた子に、リオのソロをやれって?」
「そこまでは言ってない」
机の上でスマートフォンが震えた。佐伯が掴み上げるのを、リオとナツが同時に見た。彼は通知を読み、首を横に振った。
「アンじゃない。会場の人」
リオは口を結び、机へ置いていたマイクを取った。
ナツも壁の時計を見た。さっきまで衣装姿の二人に見惚れていたひよりにも、このまま迷っていられる時間が残り少ないことは分かった。
自分が断れば、この二人はすぐに次のことを決める。
断ったあとの自分が浮かんだ。客席へ戻って後ろの壁に沿って立ち、二人で踊るところを見る。家に帰れば、今、目の前に掛かっている紫の衣装を思い出しながら、また机を壁へ寄せるだろう。
「あの」
ひよりは紙コップを机へ置いた。そこだけ冷たくなっていた指を、膝の上で伸ばす。
「一曲だけなら。やってみたい、です」
佐伯が息をつき、何か言いかけた。その前にリオがひよりの正面へ来た。
「途中で一人で下がらないで。場所が分からなくなったら私を見る。いい?」
「はい」
「じゃあ、よろしく」
差し出された手を見てから、ひよりは慌てて握った。
リオは手を離すと、すぐに佐伯へ向き直った。
「通しの動画、出して。ナツ、着替え手伝ってあげて」
「ひよりさん、こっち。予備、サイズ合うかな。上着から着てみよっか」
ナツは大きな鞄から、飾りのついていない白い衣装を取り出した。紫の衣装は椅子の背もたれに残ったままだった。
続いて小物の入ったケースを開け、青いリボンを一つ持ち上げる。
「紫はアンの色だから。青でいい?」
「色、私が決めるんですか?」
「今日だけだし。似合いそう」
ナツが青いリボンを白い衣装に重ねた。
ひよりが立ち上がると、ナツは衣装を持って更衣スペースへ案内し、カーテンを引いた。
*
スカートは腰の留め具を一つ内側へ寄せると、ちょうどよく収まった。
ナツが大きな青いリボンを留め、ひよりの髪を片側だけ耳に掛ける。自分の鞄からピンを取り出して、前髪も脇へ留めた。
「これで目が見える」
「あんまり、見えない方が」
「踊ってる途中に目へ入る方が困るよ。ちょっと下向いて」
頭に触れた手が、前髪をもう一束寄せた。ひよりは言われた通りにして、鏡に戻りかけた目を伏せた。
ナツはひよりの唇に薄く色を足した後、自分の髪も直し始めた。黄色い飾りを差し直し、二度、軽く頭を振っている。
ひよりもそれを真似してみた。前髪は落ちてこなかった。
「見て。きついところ、ない?」
ナツに言われて、顔を上げた。
大きな青いリボンと、白い布に散った細かな光。出し慣れない膝の下に、履いてきた黒いスニーカーがあった。
前髪を避けた顔は、いつもより目が大きく見えた。唇の色を確かめようと鏡へ近づいたところで、後ろのナツと目が合った。
「似合うね」
ひよりは急いで鏡から離れた。それから、スカートの裾をつまんだ。布がふわりと広がり、すぐに戻った。
もう一度やってみたいと思ったけれど、我慢した。
「ナツ。動画、こっちで見せる」
扉からリオが呼んだ。
ひよりは脱いだ服を畳もうとして、ナツに肩を押された。
「それは後。今から踊る方が先」
廊下の先へ進むほど、音が大きくなった。
舞台袖の暗がりで、佐伯がスマートフォンを横向きに持っていた。画面の中には、赤、黄、紫の三人が揃っていた。




