第1話 誰にも見せない
「ひよりって、昔ほんとパッパラパーだったよね」
向かいに座った同級生は、懐かしい話をする顔で笑った。榎本ひよりも笑った。アイスティーのストローを指先で押し込みながら、「そうだね」と答えた。
「今、全然違うもん。すごい落ち着いた」
「もう十九だし」
「うちらも大人になったよねえ」
相手は、最近変わったという職場の話を始めた。ひよりは相槌を打ち、何か聞かれると、長くなりすぎない答えを探した。
もう一度、昔の話へ戻りたかった。そんなにひどかったの、と聞いてみたかった。やっぱりみんな、そう思っていたのか。さっきの言葉を、今も本人に言っていいと思うくらいには。
ストローの先が氷に当たった。
聞けばまた、面倒なことを言うひよりになる。
「またご飯行こうね」
店を出るときに言われ、ひよりも頷いた。外へ出ると、昼より少し冷えた風が薄手の上着の隙間に入った。ひよりは片手で前を押さえながら、駅へ向かう相手を見送った。
スマートフォンの画面をつけた。何も届いていないのを確かめ、もう一度消す。
このまま追いかけて、あの言い方は嫌だったと言えたら。
人通りのある道で、口だけを動かしてみた。
声にはならなかった。
*
小学校五年の給食の時間、ひよりは一度、牛乳を吹きそうになるほど友達を笑わせたことがある。
テレビに出ていた料理人の真似だった。パンを片手に持ち、眉を寄せ、大げさに頷いてみせると、向かいの二人が笑った。ひよりは嬉しくなって、スープでも同じことをした。
次の日もやった。その次の日も。
ある日、友達が家で飼い始めた犬の話をしている途中で、ひよりはまたパンを持ち上げた。もう一人がこちらを見てくれたので、声まで変えて続けた。
「ひより、今そういうのいいから」
犬の話をしていた子に言われた。ひよりはパンを下ろした。二人はそのまま、犬の名前の話へ戻った。
食べ終わった後、ひよりはさっき笑わなかった子を廊下でつかまえた。
「今日の、似てなかった?」
「何が?」
「給食のときの」
「……もういいって」
そのときは、なぜ昨日までよかったものが今日は駄目なのか、分からなかった。つまらなくなったのなら、もっと面白くすればいいと思った。次には別の真似を用意した。昼休みに、わざわざ二人を呼びにいった。
今、そこまで思い出すと、ひよりは続きを振り払うように首を振ってしまう。
やめておけばよかった。
犬の名前を、一緒に聞けばよかった。
中学生になると、面白いことをしなくても、話に入れない日が増えた。放課後、教室で四人が集まっているところへ、ひよりは鞄を持って寄っていった。週末に映画を見に行く話をしていた。
「私、それ、予告見た。最後に車が落ちるやつでしょ」
一人が頷いたので、ひよりは、その場面の話を続けた。別の子が時刻表を開き、何時に待ち合わせるかを聞いた。
ひよりは声を少し大きくした。
「あそこの車さ、絶対あの人乗ってるよね」
「まだ見てないから、分かんない」
「そっか。でもさ」
誰も、続きを聞いていなかった。
聞こえていないのではない。向かいの子の目が一度こちらを見て、すぐにスマートフォンへ戻った。
ひよりも画面を覗こうとして、手前でやめた。今さら何も言わずに離れるのが恥ずかしくて、鞄から鍵を出したり、しまったりした。
その日の帰り道は、ずっと腹が立っていた。一言くらい、返してくれてもよかったじゃないか。そんなに嫌なら、来ないでと言えばいい。
けれど、言われたらどうしようと思うと、翌日はもっと大きな声で話しかけていた。
優しくしてくれた子もいた。美緒は遠足の朝、バスの隣の席を空けて待っていた。
「ひより、こっち」
通路側に置いていた鞄を膝へ移し、座席を手で示した。ひよりは、前に先生が座っているのを見た。
「えー、先生のすぐ後ろじゃん。絶対やだ。ずっと見張られる」
後ろにいた子が笑った。ひよりはそちらへ振り返り、今度は先生に聞こえないくらいの声で、もう一言つけ足した。
美緒は何も言わなかった。ひよりが後ろの席へ行くときには、もう自分の鞄を隣へ戻していた。
美緒は、バスに酔いやすかった。前の日にも言っていた。だから前の方に座ると。ひよりはそれを聞いていたのに、友達が笑ってくれた方を向いた。
帰りのバスでは、美緒は別の子と座っていた。ひよりが呼んでも、もう席が決まっているからと答えた。
ひよりは、じゃあ朝のこと怒ってるんだ、と思った。
面倒くさいな、とさえ思った。
そこまで覚えている。その続きに、自分はそんなつもりじゃなかったという言い訳をつけたくなることまで。
*
帰宅して手を洗っているときに、バスの座席が浮かんだ。美緒が鞄の持ち手を両手で揃え、膝へ載せたところだった。ひよりは蛇口を止めようとした手を、洗面台の縁へ押しつけた。
「もう、やめて」
声が出た。誰もいないのを確かめるように、開いたままの浴室を見た。
忘れていたわけではない。思い出さずにいられる時間が、時々長くなるだけだった。買い物の帰りや、風呂に入っている途中に、不意にあの頃の自分の声が聞こえてくる。そのたび、今の口まで塞ぎたくなった。
鏡に目を向けた。十九歳の自分が、奥歯を噛み締めていた。
もうしない。あんなことは言わない。
今なら、美緒がどうして鞄を戻したのか分かる。隣を空けて待っていてくれたことが、どれだけありがたかったかも。
分かったところで、あの日の席には座れなかった。
蛇口から水が流れ続けていた。ひよりはそれを止め、手を拭いた。
それでも、さっきの同級生には腹が立っていた。パッパラパーだったねと言われて、笑ってあげたくなかった。あんたも嫌な言い方をするね、と言い返したかった。
頭の中で相手を責め始めると、今度はバスの中で笑っている自分が出てくる。ひよりはタオルを掛け損ね、落ちたそれを拾うためにしゃがんだ。
しばらく、そのままでいた。
高校を卒業して入った職場では、大人しい人だと思われている。昼休みは、同僚の話を聞きながら黙って弁当を食べる。好きなアニメの話題が出た日も、話に入れなかった。
あの回なら見た。原作の続きも知っている。聞かれれば、話せることは沢山あった。
でも、どこで切り上げればいいだろう。相手はそこまで知りたいだろうか。
考えているうちに、話は別の作品へ移った。その方が楽だったはずなのに、午後はずっと、話したかった場面の台詞が頭に残った。
店で会った同級生から、メッセージが届いた。今日は楽しかった。また行こうね。その下に、笑っているスタンプがあった。
ひよりは同じくらい明るいスタンプを選び、送る直前で指を止めた。
今、相手は何も苦しんでいないのだろう。
自分も、顔を合わせている間は楽しそうに見えただろう。ちゃんと笑えた。余計なことは言わなかった。
それで帰ってきて、床にしゃがんでいる。
死んでしまいたい、と思った。
スマートフォンを伏せ、膝へ額を押しつけた。誰かにこの顔を見られるのも、理由を聞かれるのも嫌だった。
換気扇の音がしていた。
腹が鳴ったのは、それからしばらくしてのことだった。ひよりは顔を上げ、床に置いたままの買い物袋を見た。明日の昼の分まで、おにぎりを買っていた。
*
夜中の一時を回っても、部屋の明かりはついていた。ひよりは座椅子に膝を立て、テレビで深夜アニメを再生した。机の上には、空になったおにぎりの包みが二つある。
画面の中では、異世界に召喚された青年が、神様にもらった力で魔物に立ち向かっていた。騎士たちが傷一つつけられなかった相手に、拾った木の棒を向ける。
棒に光が集まると、青年を怒鳴っていた騎士が口を閉じた。たった一振りで、魔物が倒れた。
ひよりは口の端を上げていた。もっとびっくりすればいい。さっきまで、あんなに偉そうだったんだから。
少し巻き戻した。魔物が倒れるところではなく、騎士が黙る、ほんの少し前へ。二度目でも、そこから先は気持ちよかった。
別の作品では、転生した少女が、神様にもらった魔法で森に家を建てていた。
「これなら、一人でも大丈夫」
少女が胸を張る。ひよりは膝の上で指を組み、ああいう家が欲しいと思った。好きな時間まで寝て、好きなものを食べる。誰の機嫌も確かめずにドアを開けられる家。
助けてもらった村人たちが食べ物を持って訪ねてくると、少女は全員を夕食へ呼んだ。魔法で大きくしすぎたパンを見て、村人たちが笑った。
ひよりは、組んでいた指に力を入れた。少女まで笑い始めた。パンを切る人と、皿を配る人がいて、誰も帰ろうとしなかった。
ひよりは机の上のおにぎりの包みを、小さく丸めた。
一人で暮らすつもりじゃなかったのか。
それなのに、あの食卓から誰かを追い出してほしいとは思えなかった。あんなふうに来てくれるなら、ドアを開けてもいい。
ひよりは少女の隣の席を見ていた。
いいなあ。口に出したら、思っていたより頼りない声になった。
新しい身体と、誰にも負けない力。今までの自分を知っている人が、一人もいない場所。
向こうでなら、最初の挨拶を間違えずにできるかもしれない。けれど二日目には、また調子に乗ってしまう気もした。
あの家と魔法も欲しかった。みんなが食べきれないくらいパンを焼いて、来てくれた人に持たせられるような魔法なら、欲しかった。
あれくらい何かができたら、一つくらい、変なところがあっても。
見終えて続きを探したが、まだ配信されていなかった。ひよりはスマートフォンで原作を開き、数秒迷って購入ボタンを押した。
布団に入る前に、あと少しだけ、あの家にいたかった。
ようやくスマートフォンを置いた頃には、三時を過ぎていた。窓の向こうに森はなく、隣の建物の壁が見えた。流しに置いたマグカップも、床に落としたタオルも、自分でどうにかするまでそこにあった。
ひよりはタオルを洗濯かごへ入れ、マグカップを洗った。せめて朝の自分に見られたくなくて、おにぎりの包みも捨てた。
スタンプは、まだ送っていなかった。
*
スマートフォンを充電して眠るつもりだったのに、座椅子へ戻って画面を開いていた。何となく流れてきた短い動画に、三人の女の子が映った。白を基調に、赤、黄、紫をそれぞれ差し色にした衣装。真ん中の赤い子が前へ出て、頬の横で手をひらいた。踊りながら、こちらを見て笑っている。
ひよりは音量を少しだけ上げた。
この子は、失敗した場面を一つ残らず覚えていたりしないのだろうか。こうして何度も再生される動画に、自分の顔を出して、あとで見返したくなくなったりしないのだろうか。
考えている間に動画が終わり、もう一度、曲の最初へ戻った。ひよりはそれを止め、机を壁へ寄せた。
右へ二歩。肩を返して、左の膝を上げる。
さっきの赤い子の動きを頭の中で追いかけ、足音を立てないように一通りなぞった。回るところは小さく済ませ、腕を伸ばす先に家具がないか確かめる。
曲だけを流すと、今度はあまり考えなくても身体が動いた。
こういうことは、昔から得意だった。学校で皆が振り付けを覚えている間、早く音楽をかけてほしくて、何度も同じ場所で足踏みしていた。
中学生になってからは、人より大きく動かないようにした。
ここなら、誰もいなかった。
半回転すると、部屋着の裾が少しだけ浮いた。画面の子のスカートのようには広がらない。ひよりはもう一度、今度は腕を大きく使って回った。
頬の横で手をひらく。指先の形は少し違った。そこを見直すより、曲に合わせて動く方を選んだ。好きなところがすぐに来るので、止まりたくなかった。
最後に両手をひらいて顔を上げたとき、消えたテレビに自分が映った。思ったより、にこにこしていた。
ひよりは腕を下ろした。机を戻す途中で、腰を角にぶつけた。
痛い。何やってるんだろう。
布団へ潜り込んでから、投稿者の名前だけをもう一度確かめた。リトルフレア。赤い子の名前は、リオというらしかった。
*
翌週の土曜日。西武新宿駅から数分歩いた歌舞伎町の外れで、ひよりは地下へ続く階段の前に立っていた。
壁に貼られた出演者写真の一枚に、七人の女の子が並んでいた。写真の下には、リトルフレアと書かれている。その中に、あの三人もいる。リオは動画と同じように、こちらへ手を伸ばして笑っていた。
直接見てみたかった。それだけでチケットを買ったことを、階段を下りる段階になって少し後悔していた。
客同士は知り合いらしく、入口の横で楽しそうに話している。ひよりには、挨拶できる相手が一人もいない。
「初めてですか?」
受付の女性に聞かれ、ひよりは慌てて顔を上げた。
「あ、はい。すみません」
「では、こちらをどうぞ。扉はそのまま押してください」
飲み物と交換できる券を受け取り、重い扉を開けた。音が身体を押してきた。
ステージでは、四人の女の子が歌っていた。白を基調にした衣装には、メンバーごとにピンク、白、緑、オレンジの飾りが入っている。入口で見たリトルフレアの七人のうち、動画にはいなかった四人だった。
天井は低く、ステージも近い。前の方にいる客が腕を上げると、その向こうの女の子も同じように腕を上げた。
知らない曲だった。それでも、サビに入った瞬間だけは分かった。あちこちで光る棒が揃って動き、声が重なった。
ひよりは後ろの壁に沿って立った。前へ詰める人に場所を譲ると、その人の脇からステージを覗いた。
四人が曲を終え、短いMCに入ったところで、ひよりは飲み物を取りに出た。
廊下に置かれた小さな画面では、出演者の短い紹介動画が順番に流れていた。紙コップを受け取ったところで、赤、黄、紫の三人が映った。画面の隅には、リトルフレアの名前が出ていた。
この前、部屋で踊った曲だった。
客はほとんどホールへ戻り、画面の前には誰もいなかった。ひよりは通行の邪魔にならない壁際へ寄った。
足の先が、勝手に拍子を取った。
飲み物を置き、指先を少しだけ上げる。リオが右を向くより先に、ひよりも右を向いた。肩を返すところだけ、大きく動いてみたくなった。
周りを確かめてから、画面に合わせて半回転した。戻した右足が、床を踏んだ。
「それ、踊れるんですか」
すぐ後ろから声がした。ひよりは両手を身体の横にくっつけた。黒いパーカーを着た男が、スマートフォンを握って立っていた。首から下げた札には、スタッフと書かれている。
「すみません。邪魔でしたよね」
「違う違う。今の、うちの曲ですよね」
「うち……?」
「リトルフレア。俺、マネージャーやってて。佐伯です」
ひよりは画面と男を見比べた。本人たちの関係者に見られた。ひよりは紙コップを取り、ストローの先を見つめた。
「あの、勝手に。変なつもりじゃなくて」
「踊ってくれるのは嬉しいです。レッスン、どこか通ってる?」
「通ってないです。部屋で、たまに」
佐伯のスマートフォンが震えた。彼は期待するように画面を見て、すぐに唇を結んだ。
ホールの方から、四人の歌と客の声が重なって聞こえた。佐伯が画面を消し、ひよりを見た。
「急な話で、本当に申し訳ないんですけど」
ひよりは、頼まれる前から断る言葉を探した。
「今日、うちのステージに、一曲だけ出てもらえませんか」
紙コップの氷が、かたんと音を立てた。




