第59話 ステージの外
扉の向こうには、さっきとは別のスタジオがあった。広い床に何本もの色つきテープが貼られ、スタッフが紙を片手に出演者を動かしている。
「リトルフレアさん、こちら四人お願いします。PRISMIAさんは一列後ろで」
「はい」
七人の返事が重なった。ひよりは指定された印まで歩き、足元を確かめた。右にリオ。左にナツ。その向こうにアン。振り返れば、すぐ後ろにPRISMIAの三人がいる。
「桐谷さん、もう半歩だけ左お願いします」
「はい。ここですか?」
「もう少しです」
レナが横へ動く。
「そこです」
「分かりました」
スタッフはそのまま次の位置へ移った。レナも足元を一度確認してから、何事もなかったように顔を上げる。ひよりは前を向いた。初めてPRISMIAを見たときには、こういうところは想像したこともなかった。客席の声を全部さらって、三人で寸分違わず動く人たち。そのレナが今、自分たちと同じ床の印を踏んでいる。
「はい、カメラ一度通します」
スタッフの声が飛んだ。番組の終盤で出演者が並ぶだけの短い確認だった。カメラが動き、立ち位置を変え、もう一度並ぶ。それだけなのに、ひよりは妙に落ち着かなかった。前に三人がいたときは、いつもステージの上だった。今日は手を伸ばせば届きそうなところにいる。
*
確認が終わり、次の収録まで待機になった。壁際の椅子へ座った途端、ナツが腹を押さえた。
「やっぱり何か食べればよかった」
「まだ言ってる」
アンがスマートフォンから顔も上げずに返す。
「だって朝早かったんだもん」
「ナツさん、一時間くらいずっとお腹すいてない?」
「一時間じゃない。起きたときから」
「じゃあ食べてくればよかったじゃん」
「六時集合で?」
「もっと早く起きて」
「まひるにだけは言われたくない」
「何で?」
「何でだと思う?」
答える前に、少し離れたところから明るい声が聞こえた。
「ほんとですか?」
ユイだった。PRISMIAの女性スタッフが立っている。
「うん。さっき正式に決まったって。来月の歌番組」
「やった」
ユイが笑った。ステージで見る笑顔とは少し違った。口元だけではなく、顔全部が一度に明るくなる。
「一人で?」
レナが聞いた。
「うん。ソロで一曲」
「ああ、前に言ってたやつ」
「そう」
ユイはスタッフへ向き直った。
「曲はまだですか?」
「来週の打ち合わせで決めるって」
「分かりました」
レナが頷く。
「……そっか。おめでとう」
「ありがとう」
普通のやり取りだった。レナも笑っている。ひよりは何となくリオの方を向いた。ペットボトルの蓋を回していた手が止まっていた。
「リオ」
「何?」
すぐに蓋を閉める。
「何でもない」
「何それ」
リオはそう言いながら、もう一度PRISMIAの方へ目を向けた。向こうではユイがまだ嬉しそうに話している。
「何歌おうかな」
「もう考えてるの?」
「だってソロだよ。普段できないのやりたいじゃん」
「難しいやつ?」
「それもいいかも」
「PRISMIAさん、リハお願いしまーす!」
スタジオの奥から声が飛んだ。
「はい!」
真っ先に返したのはミアだった。
「その話あと。行こ」
「あ、ごめん」
ユイが立ち上がる。レナも続いた。三人が並んでスタジオへ向かう。今度はナツが黙ってその背中を追っていた。
「ナツさん、お腹?」
「違うよ」
即答だった。ひよりがまだ顔を覗いていると、ナツは説明する代わりに、その額を指で軽く押した。
「人の顔ばっかり見てないの」
「ナツさんだって、さっきから見てたじゃん」
ひよりが額を押さえて言うと、ナツはミアの消えた入口へ目を戻した。
「うん。見てた」
いつもなら何を見ていたのかまで話してくれるのに、そこで終わった。ひよりも入口へ顔を向けたが、三人はもう中へ入っていた。
*
PRISMIAのリハーサルが始まった。リトルフレアはしばらく出番がない。レイから遠くへ行くなと言われていたため、四人はスタジオの端に残った。
短いイントロが流れる。レナが中央へ入り、ユイとミアが左右へ開いた。音響とカメラの確認だけらしく、一曲すべてはやらない。それでも音が出ると、さっき待機場所で話していた三人とは空気が変わった。ユイが歌う。ほんの数小節。
「白石さん、今の入りいいですね」
スタッフから声が飛んだ。
「ありがとうございます」
「そこ、そのままでお願いします」
「はい」
音が切れた。ユイがスタッフの方へ行き、ミアも水を取りに戻る。レナだけが中央に残った。一度、床を見る。
「すみません」
「はい?」
「最初の移動、もう一回だけ確認していいですか?」
「大丈夫ですよ」
「お願いします」
短い音がもう一度流れる。レナが一歩踏み出し、右へ抜ける。身体を返して中央へ戻った。
「ありがとうございます。問題ないです」
「はい」
スタッフが離れても、レナはその場で、もう一度だけ同じ足運びをなぞった。ひよりの横でペットボトルが小さく鳴り、そちらを見ると、リオが握っていた。
「さっきから何見てるの?」
「レナさん」
「それは分かる」
リオはひよりを見ない。
「前と違う?」
「何が?」
「前もずっと見てたから」
初めてPRISMIAと共演した日もそうだった。ナツは歌を聴いていた。アンは客席の反応を見ていた。ひよりは客の顔を追っていた。リオだけが、最後まで三人の動きを見ていた。
「……見るところが増えた」
「増えた?」
「うん」
「どこ?」
ようやくリオがこちらを向いた。
「それ聞いてどうするの?」
「気になる」
「まひるも自分で見ればいいじゃん」
「見てるよ」
「じゃあいいでしょ」
「よくない」
リオの口元が少し緩んだ。それ以上は教えてくれなかった。
*
PRISMIAの本番が始まった。照明が入る。三人がステージへ出た。レナが中央へ立った瞬間、さっき何度も足元を確かめていた姿が消えた。客席だけではない。何台ものカメラが向いているのに、最初からそこが自分の場所だったように立っている。
ユイの声が入った。少し前までソロの歌仕事を喜んでいた声が、今はPRISMIAの曲の中へきれいに入っている。
ミアが横へ抜け、レナが下がるところへユイが出た。位置が入れ替わっても三人の形は崩れず、客席から声が上がる。赤いランプの切り替わりをミアが拾い、ユイが歌っている間に、もうレナが中央へ戻っていた。
ひよりは隣を見ようとして、やめた。聞かなくても分かった。リオはステージを見ている。ナツも黙っていた。
待機中にあった小さなずれは、客席からは何も見えない。ユイに一人の仕事が決まったことも、レナの返事がほんの少し遅れたことも、全部ステージの外に残っていた。ミアが話を切って二人を連れていったことも、レナが同じ場所を何度も確認していたことも、今はもう分からない。
曲が終わった。三人が最後の形で止まる。拍手が起こった。ひよりも手を叩く。隣から聞こえる拍手は、最後まで止まらなかった。
*
すべての収録が終わる頃には、朝の騒がしさが嘘のように廊下の人が減っていた。
「今日長かった」
アンが肩を回す。
「まだ昼過ぎだけどね」
ナツが言った。
「それ言わないで。余計疲れる」
「私はもうお腹すきすぎて一周した」
「何周するの」
「知らない」
「帰る前に何か食べる?」
「食べる」
返事だけは速かった。ひよりが笑っていると、前からPRISMIAの三人が歩いてきた。ステージ衣装の上に薄い上着を羽織っている。
「お疲れさまでした」
ミアが先に頭を下げる。
「お疲れさまでした」
四人も返した。そのまますれ違うと思った。
「瀬名さん」
レナが足を止めた。リオが顔を上げる。
「はい」
「今日の『ここから!』、見ました」
「あ……ありがとうございます」
「客席、一緒に動いてましたね」
リオの目が少しだけ大きくなった。
「前に一緒だったときより、近く感じました」
リオはすぐには返さなかった。PRISMIAと二度目に同じステージへ立った日。客席からリトルフレアの歌が返ってきた。それでもリオは言った。まだ負けてる。
「まだ負けてます」
レナが瞬きをした。
「私たちに?」
「はい」
ひよりはリオの横顔を見る。リオは目を逸らさなかった。
「まだです」
レナが少しだけ笑った。
「じゃあ、追いつかれないようにします」
「追いつきます」
今度の返事は速かった。ユイが二人を交互に見る。ミアは何も言わず、少しだけ笑っていた。
「PRISMIAさん、移動お願いしまーす!」
向こうからスタッフの声が飛ぶ。
「はい!」
三人が歩き出した。
「リトルフレアも帰るわよ!」
反対側からレイの声が飛んできた。
「はーい」
アンが返す。ナツも荷物を持った。
「まひる、行くよ」
「うん」
ひよりが歩き出す。
「リオ?」
振り返るより先に、
「今行く」
声が返った。リオはもう、ひよりたちの横まで来ていた。




