第60話 三年後
ステージ袖に流れているアナウンスの大半は、ひよりには分からなかった。聞き取れたのは、最後の名前だけだった。
「――Little Flare!」
歓声が上がった。
「行くよ!」
リオの声で、四人が走り出す。照明の中へ出た瞬間、ひよりは客席を見た。
青、赤、黄、紫。日本のライブほど綺麗には揃っていない。赤と紫を両手に一本ずつ持っている人もいるし、何色なのかよく分からない光も混じっている。それでも、ひよりは四色とも見つけた。
「Rio!」
「Natsu!」
「Ann!」
少し遅れて、
「Mahiru!」
ひよりは反射的にそちらを見た。発音は少し違う。でも、自分の名前だった。青いペンライトが大きく揺れる。ひよりも手を上げた。
「はい!」
隣を通ったアンが笑う。
「聞こえてんじゃん」
「聞こえたよ」
「じゃあ前見て」
「見てるって」
イントロが始まった。初めてテレビのカメラを相手に、どこを見ればいいのか分からなくなった朝から、もう何か月か経っている。地方のステージにも行った。夏に出た名古屋の対バンでは、終演後にもリオの間奏を真似していた客がいた。四人それぞれで呼ばれる仕事も増えた。
知らない会場へ入ることにも、前ほど緊張しなくなったつもりだった。けれど、今日の客席にいるのは初めて見る顔ばかりだ。
リオが前へ出るのに合わせて、ひよりも自分の位置へ踏み込んだ。反対側へ笑いかけるアンを横目に、さっき名前を呼ばれた方を探す。青いペンライトが大きく揺れるのを見つけると、歌い出そうとした口元まで緩んだ。
ナツの声が伸びる。そのあとを受けて、ひよりも歌った。さっき「はい」と返した相手へ、今度は歌を届けたかった。
*
『シュガー・ステップ』のイントロが流れた瞬間、客席の空気が変わった。
「あっ」
前の方で誰かが声を上げる。一人ではない。少し離れたところでも、腕が上がった。
ひよりが最初の動きへ入ると、客席でも何人かが身体を動かした。肩を返し、腕を出す。一歩踏んで戻る。
一人の女性が、スマートフォンをこちらへ向けたまま、空いている手だけで踊っていた。次の動きを知っている。ひよりが肩を返すより先に、女性の肩がそちらへ傾いた。
両腕を使うところで、女性が隣へ何か言った。返事を待ちきれないようにスマートフォンを友人へ押しつけ、空いた両手を上げる。
ひよりは笑ってしまった。スマートフォンが友人の手で一度揺れ、その横では女性が思いきり腕を動かしている。こんなところにも、自分の振付を身体で覚えている人がいる。
次の位置へ入りながら、その人へ顔を向けた。女性が何か叫んだが、歌声と重なり、言葉は分からなかった。
でも、両手がまた上がった。ひよりも振付の中で大きく腕を開く。友人に肩をぶつけた女性が慌てて場所を空け、二人で笑ったのが見えた。
*
最後の曲は『ここから!』だった。ナツが客席へマイクを向ける。
「まだ声出せるー?」
一拍遅れて、声が返った。ナツが笑う。
「遅い!」
客席から笑い声が起きた。
「もう一回!」
ナツが息を吸う。
「声出せるー?」
今度は早かった。しかも、さっきより大きい。アンが吹き出す。
「できんじゃん!」
歓声が重なった。曲が始まる。
サビへ入ると、ひよりは四人で作った短い振付を大きく踊った。最前列から腕が上がった。ひよりがその奥へ視線を送ると、少し遅れて後ろでも、横でも腕が上がっていた。
全部ではない。腕を組んで見ている人もいる。スマートフォンを向けている人もいる。曲を知らないらしく、隣へ何か聞いている人もいた。それでも、最初より多くの顔がこちらを向いている。
「もう一回!」
ひよりが客席へ腕を伸ばした。今度は何本も上がった。
前の方から、歌の終わりに重なる声が聞こえた。何と言っているかは聞き取れない。それでも、もう一度腕を上げるところでひときわ大きくなるので、ひよりもそこへ顔を向けた。
ナツの歌声が高くなるところで、ひよりは中央へ入るリオとすれ違った。身体を返して客席へ目を戻すと、さっきスマートフォンを預けた女性が、また両手で踊っている。隣の友人も、撮影を続けたまま空いている方の手を上げていた。
女性がそちらを見て笑い、二人の腕が並ぶ。ひよりはそれを見ながら歌った。自分が腕を伸ばすたび、向こうからも返ってくる。もう曲が終わるのに、さっきより手を伸ばしたくなった。
曲が終わった。四人が最後の形で止まる。一瞬遅れて、歓声が押し寄せた。
「Little Flare!」
「Natsu!」
「Ann!」
「Rio!」
「Mahiru!」
いろいろな声が混ざっている。一人の名前だけではなかった。ひよりは息を切らしながら、客席へ大きく手を振った。
*
「最初、コール遅かったね」
袖へ戻ってひよりが言うと、アンが呆れた顔をした。
「一発目の感想それ?」
「だって遅かったじゃん」
「初めてやった人もいるでしょ」
「でも二回目は合った」
「じゃあいいじゃん」
ナツがタオルで首を拭きながら笑った。
「私は返ってきただけでびっくりしたけど」
「私も」
リオがペットボトルを開ける。
「『シュガー・ステップ』だけじゃなくて、『ここから!』まで知ってる人もいたね」
「途中から覚えた人もいた」
ひよりが言った。
「分かるの?」
「見てたら分かるよ」
「また客ばっかり見てたんだ」
「ちゃんと踊ってたよ」
「それは知ってる」
アンはもうスマートフォンを見ていた。
「ほら。もう投稿されてる」
ひよりも覗き込むと、画面の中で自分たちが踊っていた。その向こうには、さっきまで目の前にあった客席まで映っている。自分が動くのを少し遅れて追いかける客の腕を、ひよりは見つめた。
「これ」
「何?」
「前は、こういうの画面で見てたじゃん」
「うん」
「今日、スマホ渡してるところ見た」
アンが顔を上げる。
「何それ」
「撮ってた人が、友達に渡して踊り始めたの。両手で」
「そこ見てたの?」
「見えるもん」
「それで?」
「最後は友達も片手で踊ってた。撮りながら」
「細か」
「二人で笑ってたよ」
アンは一度だけ動画へ目を戻した。
「私、その二人見てない」
「隣にいたじゃん」
「カメラ来てたから、そっち見てた。どの辺?」
ひよりは画面の端を指した。アンが動画を少し戻してくれたが、二人は映っていなかった。
「右の端にいたんだけど……この動画には入ってないね」
「あー、ないか」
アンは少し残念そうに動画を止めた。
「それ、私も見たかった」
「スマホ渡すとき、こうだったの」
ひよりは両手を前へ出し、慌てて友人へ押しつけていた女性の真似をした。すぐに腕を上げるところまでやると、アンが笑った。
「踊りたいのは分かったから、ちゃんと渡しなよ」
「私に言われても」
笑いながら、ひよりはもう一度客席のあった方を見た。二人の顔は、画面に映っていなくても思い出せた。
「はい、そこ!」
レイの声が飛んだ。
「次の出演者来るから着替える! いつまで動画見てんの!」
「はーい」
四人の返事が重なった。
*
帰国した週の金曜日、ナツは一人の歌の収録を終えて、練習場へ来た。
いつもより濃い化粧のまま、鞄を下ろして壁際へ座る。取り出した台本の角が、少し折れていた。
「ナツさん、今日のサビなんだけど――」
ひよりは立ちかけて、ナツの手元を見た。歌唱コーナーの出演者欄には、水瀬ナツとだけ書いてある。
「あ。その前に、どうだった?」
ナツが顔を上げた。
「収録?」
「うん。聞きたい」
ひよりが隣へ座り直すと、ナツは台本を膝へ広げた。歌詞の上にも下にも、鉛筆の書き込みがある。
「ここ、好きな曲を歌っていいって言われてたでしょ。結局、最初に出した曲にしたの」
「難しい方?」
リオが靴紐を結ぶ手を止めた。
「うん。リハで一回、声ひっくり返った」
「えっ」
「私が一番びっくりしたよ。立って歌うだけなのに、足まで固くなっちゃって」
ナツは笑いながら、台本の端を指で押さえた。折れた角が戻らず、もう一度伸ばす。
「でも、ピアノの人が待ってくれて。次は急がずに入れた。最後のところまで、全部自分で歌えたの」
話しているうちに、ナツの肩が上がった。思い出すように息を吸い、小さな声でサビの終わりをなぞる。いつもの曲より低いところから始まり、ひよりが終わりだと思った音の先へ、まだ声が続いた。
アンのスマートフォンが震えた。アンは画面を一度見て、脇へ伏せた。
「本番、それで歌えた?」
リオに聞かれ、ナツが頷く。
「うん。歌い終わったあと、ちょっと動けなかった。もう一回やりたいって思って」
「撮り直したの?」
「OK出たから、さすがに言わなかったよ」
ナツは台本を閉じかけたが、指を挟んだまま三人を見た。
「……楽しかった。すごく」
アンが膝を抱えた。
「いいなあ。あたしもそういうの欲しい」
「いいでしょ」
ナツが笑った。慰めるようなことは言わず、もう一度、歌ったところを開いた。
「ねえ、さっきの最後、もうちょっと聴きたい」
ひよりが言うと、ナツの顔がすぐこちらを向いた。
「そこ、向こうでも褒められた」
「じゃあ聴かせてよ」
「そんなに歌わせる? 今日、もう歌ってきたんだけど」
言いながら、ナツは背筋を伸ばした。ひよりも膝に置いていたタオルを脇へよける。
今度は、どこで終わるかを考えずに聴いた。横でリオの指が静かに拍を取り、ナツの声が消えたところで止まった。
「……いいね」
リオが言った。
ナツは笑ったまま台本へ目を落とし、しばらく返事をしなかった。
やがて顔を上げる。
「まだ、聞いてほしいことあるんだけど」
「着替えは?」
アンが壁の時計を指した。
「着替えながら話す。来て」
「聞くために移動するの?」
ナツは鞄を持って立ち上がった。ひよりは差し出された台本を受け取り、笑いながら後を追った。
*
九月の終わりのワンマンは、前より広い会場だった。最後の曲を歌い終え、四人で頭を下げた。
頭を下げたまま、ひよりは息を整えた。顔を上げると、後ろの客がまだ両手で拍手している。前のワンマンでは空いた床まで見えたのに、今日はさらに遠い壁際まで人が残っていた。
アンがマイクを上げた。
「後ろ、ちゃんと見えたー?」
前の方からも返事が来て、アンが笑った。
「前は分かってる! 後ろ!」
奥でいくつもの手が上がった。紫を振っていた人が、空いている手まで高く伸ばす。ひよりはそちらへ顔を向けた。表情まではよく見えない。それでも、その隣の赤い光も、一緒に大きく揺れているのが分かった。
「また来てね!」
声を張ると、ナツが横から笑った。
「マイク入ってるよ」
「知ってるよ!」
客席から笑いが起きた。ひよりも笑ったが、目は奥へ向けたままだった。あそこからも、今の顔が見えたのだろうか。マイクを持っていない方の手を頭の上まで上げると、壁際の手もまた動いた。
袖へ戻って水を飲んでいる間に、アンコールの声が始まった。聞き慣れた声が一つ抜け、その周りへ別の声が重なっていく。ひよりは飲みかけのボトルを下ろした。
「今日、声大きいね」
「人が増えたからね」
アンはそう答えたあと、自分も水を飲むのをやめた。前方の声だけでなく、遠いところから返る拍手も聞こえた。
リオがタオルを置いて、舞台へ戻る方へ身体を向ける。ひよりもボトルの蓋を締めた。次にあの奥を見るときは、もっと早く見つけたい。
*
その翌週、アルノアで今後の予定を確認する日があった。机の上には、いくつかの会場名と日付が並んでいる。ひよりは資料を見ても、名前だけでは大きさがよく分からない。アンはさっきからスマートフォンで一つずつ調べていた。
「ここ、前よりかなり大きいじゃん」
「だから候補なのよ」
佐伯が答える。
「今のあんたたちなら、次はこのくらいを考えてもいいってこと」
アンは画面をスクロールした。
「じゃあ、その次は?」
「気が早いわねえ」
「先の予定の話してるんでしょ?」
アルノアの担当者が笑った。
「このまま一段ずつ大きくしていけば、その先にもいろいろありますよ」
「例えば?」
「ほんっと食いつくわね」
佐伯が呆れる。アンは気にしていない。担当者が机の資料を揃えながら言った。
「例えば――日本武道館とか」
ひよりは顔を上げた。
武道館。
もちろん知っている。好きなアーティストのライブ映像でも見た。テレビでも何度も見た。けれど、自分が立つ場所として考えたことはなかった。
「いつ?」
アンが即座に聞いた。ナツが横を見る。
「早っ」
「だって聞きたいじゃん」
担当者は少し考えた。
「普通に会場を押さえるなら、かなり先ですね」
「かなりって?」
「今からなら、現実的には三年くらいになると思います」
アンの顔が止まった。
「三年?」
「大きい会場は、かなり先まで予定が入っていますから」
「長っ」
「アン」
「だって三年だよ?」
リオは資料を見たまま言った。
「でも、今すぐって感じでもないでしょ」
「そうだけど」
アンは口を尖らせた。ナツが笑う。
「三年あったら、その間にもっといろいろできるよ」
「三年かあ」
アンが椅子へ背中を預ける。ひよりも、小さく繰り返した。
「三年後」
口にすると、急に遠く感じた。三年分の水曜日。三年分の金曜日。三年分の週末。
武道館。満員の客席。考えてみても、まだ輪郭が出てこない。
「まひる?」
ナツに呼ばれた。
「何?」
「ぼーっとしてる」
「三年後考えてた」
「分かった?」
「全然」
アンが笑う。
「考えた意味ないじゃん」
「だって見えないし」
「そりゃ三年後だからね」
その話は、そこで終わった。今日決めることではない。それでも帰り道まで、ひよりの頭には「三年」という言葉が残っていた。
*
数日後の金曜日。いつもの練習場に『ここから!』が流れていた。海外へ行って、テレビに出て、武道館という名前まで聞くようになっても、鏡も床も変わらない。四人で踊れば、ずれたところは普通にずれる。
「まひる、そこ早い」
リオが言った。ひよりは一歩戻る。
「合ってない?」
「私より先に入ってる」
「ほぼ同時じゃない?」
「先」
「ほんのちょっとでしょ」
「ちょっとでも先」
ひよりは口を閉じた。まだ納得できない。鏡の中で、自分とリオが入る瞬間を頭の中でもう一度重ねる。
「……もう一回やって」
「いいよ」
二人で同じところだけ動く。ひよりが入る。その半拍にも満たないあと、リオが入った。
「あ」
「ね?」
ひよりは少し黙った。
「……ほんとだ」
「でしょ」
「次、合わせる」
アンが鏡越しにこちらを見る。
「今日は素直じゃん」
「いつも素直だけど」
「それはない」
「アンに言われたくない」
「何であたし」
「はい、そこまで」
ナツが手を叩いた。
「もう一回。今度は四人で合わせよ」
「分かった」
ひよりは位置へ戻った。音を戻そうとしたところで、扉が開いた。
「ちょっと止めて」
レイだった。ナツが音を止める。
「どうしたの?」
レイの後ろから、佐伯も入ってきた。二人とも、いつもの練習を見に来た顔ではなかった。アンが壁際に置いていたスマートフォンを取る。
「何?」
佐伯が四人を見た。
「武道館」
アンの手が止まる。
「何が?」
「キャンセルが出たの」
誰も動かなかった。
数日前に聞いたばかりの名前だった。三年後。まだ形も見えない場所。
リオが先に口を開いた。
「いつですか?」
佐伯が答える。
「来年。二月の初め」
アンが顔を上げた。
「……三年後じゃなくて?」
「今なら」
佐伯は四人を見た。
「来年よ」




