第58話 朝六時集合
時計は、五時五十五分を表示していた。
「間に合った!」
ひよりは建物の前まで走りきると、ずれた鞄を肩へ引き戻した。息を整えるより先に顔を上げる。リオ、ナツ、アン、それにレイ。もう全員いた。アンがスマートフォンの時計を見せる。
「それ、間に合った人の来方じゃないから」
「六時前じゃん」
「五分前」
「だから前じゃん」
「初テレビの日に走って来んなって言ってんの」
レイまで呆れた顔をした。
「昨日、早く寝るって言ったわよね?」
「寝たよ」
「何時?」
「……十二時半」
「寝てないじゃない」
「いつもより早い!」
ナツが吹き出した。
「まひる基準で話さないの」
「すみません」
ひよりは鞄の位置を直した。三つもアラームをかけた。一つ目で目を覚ましたし、二つ目が鳴ったときには着替え始めていた。最後の一つは、むしろ必要なかった。遅刻だってしていない。
「はい、出た。その顔」
ナツが言った。
「何の顔」
「注意されたけど納得してません、の顔」
ひよりは鞄の肩紐を引き上げた。
「……遅刻してないし」
「ほら」
アンが先に入口へ向かう。
「六時前からそれ続けるの? 行くよ」
「アンにだけは言われたくない」
「聞こえなーい」
レイに手で追われ、ひよりも三人の後へ続いた。外はまだ静かなのに、建物の中では何人ものスタッフが行き来していた。会社員だった頃なら、今から家を出る日だってあった。今日はもう、仕事場に着いている。
*
スタジオへ入って、ひよりが最初に見たのは客席だった。二十人ほど。まだ本番前なので、隣と話している人もいれば、ステージを眺めている人もいる。
「観覧あるんだ」
「あるって聞いたじゃん」
アンが言った。
「聞いたけど、もっと遠いと思ってた」
「何が?」
「客」
「そっち?」
アンが見ていたのは、ステージの前に並んだカメラだった。正面に二台。その横にも一台ある。スタッフがケーブルをまたぎながら行き来していた。カメラの向こうにはモニターも並んでいる。ライブハウスとはずいぶん違う。それでも、客がいるなら何とかなりそうな気がした。
「リトルフレアさん、立ち位置お願いします」
「はい!」
四人でステージへ上がった。床の目印に合わせて並ぶ。ひよりが自分の位置を確認していると、スタッフが正面の一台を指した。
「天野さん、サビ頭はまずこちらお願いします」
「こっちですか?」
「はい。そこから次の動きへ入ってください」
「分かりました」
ひよりはレンズを見る。黒くて丸い。こちらを見ているのか、ただ置いてあるのか、客の顔ほどには分からない。
曲が流れ始めた。リオが前へ出て、ナツの声が入る。アンが横へ抜け、ひよりも決められた場所へ移動した。昨日まで何度も踊った『ここから!』。身体は迷わない。
サビが近づくと、ひよりは言われた通り正面のカメラを見た。大きく腕を出した瞬間、客席の端で動くものがあった。若い女性が、膝の上から少しだけ手を浮かせていた。肩も揺れている。隣の人は前を向いて拍手しているのに、その人だけ、座ったままサビを踊っていた。ひよりが顔を向けると、女性の手が止まった。見つかった、という顔だった。
やめなくていいのに。ひよりは思わずそちらへ笑った。女性も笑い、今度は胸の高さまで手を上げた。
「はい、一度止めます」
音が切れた。ひよりの身体も止まる。
「天野さん」
「はい?」
「サビ頭、まずカメラをお願いします」
「あ」
正面を見る。さっき言われたカメラが、変わらずそこにあった。
「すみません」
「そのあとの客席へのアピールは大丈夫です。最初だけこちらで」
「はい」
元の位置へ戻る。袖からレイがこちらを見ていた。
「まひる」
「……カメラですよね」
ひよりはレイより先に言った。頷かれる前に顔を正面へ戻し、口元だけで笑ってみる。袖の方はもう見なかった。
分かっている。言われたことも難しくない。でも、せっかく一緒にやってくれていたのに。昨日のライブでは、最初は誰もやらなかった振付だった。知らない人が今、同じ動きをしていた。
「もう一度お願いします」
ひよりは口を閉じた。今度はちゃんと見る。
*
二回目の音が始まった。今度は迷わなかった。位置を変えながら、正面のカメラを確認する。赤いランプが点いている。ここ。
サビへ入る。ひよりは真正面からレンズを見た。客席から声が聞こえても、そちらへ顔を向けない。
見る。まだ見る。言われたのだから、絶対に見る。
曲が止まった。今度こそ間違えていない。そう思ってスタッフへ顔を向けた。
「天野さん」
「はい」
「もう少し普段通りで大丈夫です」
「……普段通り?」
「ちょっと表情が固くなってるので。ライブのときみたいな感じでお願いします」
「はい」
ひよりは元の位置へ戻った。アンと目が合う。口元が笑っている。
「何」
「別に」
「笑ったでしょ」
「ちょっと」
「なんで」
「だって、カメラ睨んでたじゃん」
「見ろって言われたから見てたの」
「見すぎなんだって」
「じゃあどれくらい見ればいいの?」
「知らないよ」
「知らないの?」
「まひるがやりやすいようにやれば?」
「それで今止められたんだけど」
アンがまた笑った。
「極端なんだよ」
むかつく。
けれど、自分でも少しだけ分かっていた。客を見てはいけないと思ったら、本当に客を見なくなった。カメラを見ろと言われたら、今度はレンズから目を外さなかった。
「次、カメラ位置だけ確認します」
スタッフの声で、今度はアンが前へ出た。短い音に合わせて正面を向いていた顔が、横のカメラに赤いランプが点くと、すぐそちらへ動く。ほんの一瞬前まで普通に立っていたのに、レンズへ向いた途端、表情まで変わっていた。
ひよりがその顔を見ている間に、アンは次の位置へ入り、もう別のカメラを拾った。
「星川さん、今の目線いいですね」
「ありがとうございます」
アンは普通に答えた。嬉しそうに騒ぎもしない。できて当然という顔をしている。ひよりは近づいた。
「次、どこを見るか、何でそんなに早く分かるの?」
「点いたから見ただけだよ」
アンがカメラを指した。ひよりもそちらを向くが、今はどれにも赤いランプが点いていない。
「点いてから、顔も変わってたじゃん」
「変えるでしょ。撮られるんだから」
「それが間に合わないんだけど」
アンは水を一口飲み、まだカメラを見ているひよりを横目で見た。
「まひるだって、客が手ぇ上げたら、すぐ笑うじゃん」
ひよりは答えかけ、口を閉じた。自分がどうやって笑っているかは、考えたことがなかった。
ひよりも同じカメラを見る。踊りなら、一度見ればかなり分かる。足の向きや重心を見れば、次にどちらへ動くのかも想像できる。けれど、今のアンを見ても、同じ顔を同じ速さで作れる気はしなかった。
「アン、こういうのほんと上手いね」
「知ってる」
「そこは謙遜しないんだ」
「なんで?」
即答だった。少しくらい照れればいいのに。ひよりはもう一度カメラを見る。その向こうに客席もある。どちらかが消えるわけではなかった。
*
本番が始まった。スタジオの照明が強くなる。リハーサル中には隣と話していた観覧客が、今は全員こちらを向いている。曲紹介が終わった。四人が位置につく。
赤いランプが点くと、ひよりは正面を見た。イントロにナツの声が入り、リオが前へ抜ける。四人の位置が変わったところへ入ったアンは、横のカメラへ迷いなく顔を向けていた。
ひよりも次の位置へ動いたところで、客席から声が上がった。反応したくなる。でも、今はまだ正面だ。レンズから目を外さず、そのまま次の振付へ入った。
身体を半分返すところで、客席が視界へ入った。さっきの女性がいる。膝の上に手を置いて、サビを待っていた。ひよりと目が合うと、指先だけで小さく手を振る。
ひよりの口元が緩んだ。つい、もう一度そちらを見たくなる。けれど、戻した顔の先では正面の赤いランプが点いていた。
サビ。最初の動きはカメラへ向けた。次に身体の向きが変わる。その瞬間、客席を見る。女性の両手が肩の高さまで上がっていた。さっきよりずっと大きい。ひよりが笑うと、女性も口を開けて笑った。もっと見ていたいところで、次の位置へ踏み込む。正面へ顔を戻しても、口元はさっきのままだった。
赤いランプが点いている。そこへ向けて腕を伸ばす。さっきより忙しい。客の顔を探しながら、次に映る場所も気にしなければならない。でも、カメラだけを見ていたときより楽しかった。
ナツの声が伸び、リオが中央へ入ると、四人の形が大きく変わった。アンは向けられたカメラへすぐに目を向けた。ひよりが横から入ると、一瞬だけ目が合った。
何も言わなかった。アンの口元だけが少し上がり、ひよりも笑ったまま、最後のサビへ入った。
客席から手拍子が聞こえた。ひよりは一度だけそちらへ返し、次の瞬間にはカメラへ顔を戻した。四人が最後の位置へ入る。音が切れた。拍手。
「はい、OKです!」
スタッフの声が飛んだ。ひよりは肩の力を抜いた。
「終わった……」
「本番中に言わないだけ偉い」
アンが隣で言った。
「言わないよ!」
ナツが笑いながら近づいてくる。リオも水を受け取りながらこちらを見た。
「最後、よかったと思う」
「ほんと?」
「うん。客席も見てたけど、ちゃんと戻ってた」
「そこまで見てたの?」
「見えるから」
「それ私が言ってたやつ」
「知らないよ」
リオが笑った。そこへスタッフが来た。
「星川さん、カメラの切り替わりへの反応、すごくいいですね」
「ありがとうございます」
アンが頭を下げる。スタッフが去ってから、ひよりはその横顔を見た。
「やっぱりテレビ上手いじゃん」
「だから上手いって」
「自分で言う?」
「褒めたのまひるじゃん」
「そうだけど」
アンはタオルで額を押さえながら、少しだけ笑っていた。
*
収録を終えて廊下へ出た。朝に入ってきたときより、人が増えている。スタッフが行き交い、開いた扉の向こうから別の出演者の音が聞こえてきた。
「お腹すいた」
ナツが言った。
「まだ朝だよ」
アンが返す。
「朝だからお腹すくんでしょ」
ひよりも時計を見た。会社員だった頃なら、ようやく出勤している時間だった。なのに今日は、もう一つ仕事が終わっている。
「変な感じ」
「何が?」
リオが聞く。
「もう仕事したのに、まだ朝」
「会社辞めた人みたいなこと言ってる」
「辞めたよ」
「知ってる」
角を曲がったところで、前からレナ、ユイ、ミアが歩いてきた。PRISMIAの三人を見て、ひよりの足がほんの少しだけ遅くなる。
以前は名前を聞くだけで、袖から見上げたステージの歓声まで思い出した。どこへ声を投げても客席から返ってきた、自分たちがまだ届かなかった場所にいた人たちだった。
「おはようございます」
ミアが先に頭を下げた。
「おはようございます」
四人も返す。ミアが笑った。
「デビュー、おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます」
アンが答えた。ユイはナツを見る。
「『ここから!』聴きました」
「ほんと?」
「はい。サビ、ライブで楽しそうですね」
「楽しいよ。今度一緒になったら見て」
「見ます」
レナがリオへ目を向けた。
「また一緒ですね」
「はい」
リオも普通に返した。それ以上の言葉は続かなかった。けれど、前ほど遠くも感じなかった。
「PRISMIAさん、リトルフレアさん」
後ろからスタッフに呼ばれた。
「次の確認、こちらお願いします」
「はい」
両方から返事が重なった。PRISMIAの三人が歩き出す。リトルフレアも続く。ひよりはリオの隣へ並び、その先を歩く三人を見た。同じ廊下の先にある、同じ扉へ向かった。




