第56話 平日の昼
アルノアと契約してから、ひと月あまり。会社を辞めて最初の火曜日、ひよりは午後一時から練習場にいた。
「……火曜の昼にここいると、会社さぼってるみたい」
ひよりが壁の時計を見て呟くと、床で靴紐を結んでいたアンが顔を上げた。
「辞めたんだから、さぼりようがないじゃん」
「分かってる。分かってるんだけど、なんか落ち着かない」
窓の外は明るかった。少し開いた窓から入る風も、頬に当たって冷たくない。少し前なら、昼休みを終えてパソコンの前に戻っている時間だ。午後になると少し眠くなって、数字を打ち込みながら次の休憩まで何時間あるか考えていた。今は練習着を着ている。昨日も昼からレッスンだった。明日も午後に予定がある。
退職して最初の朝には、目覚ましが鳴ってから一瞬だけ、会社へ行かなくていい理由が分からなかった。そのまま二度寝しかけたことは黙っている。
「まひる、突っ立ってないで伸ばしたら?」
ナツに言われ、ひよりは慌てて肩を回した。
「してます」
「今してなかったよ」
「今からしようとしてました」
「便利だね、それ」
ナツは笑いながら、自分も腕を頭の後ろへ回した。
「ナツさんは平気なんですか」
「何が?」
「研究所行かなくなったの」
「ああ」
ナツが少し考える。
「今朝、前と同じ時間に目覚ましかけてた」
アンがすぐ振り返った。
「行った?」
「行かないよ」
「玄関まで?」
「行ってない」
「駅は?」
「何で進んでいくの」
ナツがタオルを投げる真似をすると、アンが笑って身を引いた。
「何年も同じ時間に起きてたら、目覚ましくらい残るでしょ」
「消せばいいじゃん」
「消したよ」
「今日?」
「さっき!」
ひよりも笑った。
「アンは朝起きてる?」
「今日は早かった。欲しい服、発売日だったから」
「買ったの?」
「……見ただけ」
アンの目が壁際の鞄へ動いたので、ひよりもつられてそちらを見る。アンは慌てて鞄を引き寄せたが、その後ろから店の袋が倒れてきた。
「上着だから。仕事でも着るし」
「それ、まだ何も聞いてないよ」
ナツが笑い出したところで、扉が開いた。
「ごめん。ゼミ長引いた」
リオが鞄を肩から下ろしながら入ってくる。急いできたらしく、前髪が少し乱れていた。アンが時計を見る。
「三分」
「連絡したでしょ」
「見た」
「ならいいじゃん」
「一人だけ学校帰りだなって」
「大学」
「同じようなもんでしょ」
「全然違う」
リオは言い返しながら上着を脱いだ。アンが高校を卒業してから、学校帰りにここへ来るのはリオだけになっていた。ひよりが聞く。
「今日も授業あったの?」
「ゼミ。来週もあるよ」
「大変そう」
「辞めてないからね」
リオはそれだけ言って、鞄を壁際へ置いた。
「先に着替えてくる」
「あ、リオ」
ナツが呼び止める。
「何?」
「十分後に始めるから――」
言いながら、ナツが自分の格好を見る。まだ練習着ではない。アンも見る。ひよりも見る。
「……何」
ナツが二人を見返した。
「ナツさんも着替えてないよ」
「分かってるよ!」
「今、完全に自分以外を動かそうとしてた」
「してない!」
リオが笑った。
「じゃあ一緒に着替えよう」
「最初からそうするつもりだったの!」
二人が更衣スペースへ向かう。その背中を見送りながら、アンが小さく言った。
「絶対してた」
「してたね」
ひよりが答える。
「聞こえてる!」
奥からナツの声が飛んできた。
*
「じゃあ、頭から一回」
四人が鏡の前へ並んだ。『ここから!』のイントロが流れ始める。デモ音源を初めて聞いた夜から、ひよりは何度もこの曲を聞いていた。聞くたび、身体の中に動きが増えた。
最初は自分一人だった。そこへリオが入り、ナツが入り、アンが入った。実際に四人で合わせ始めると、頭の中ではうまくいっていた場所が何度も崩れた。それでも、少しずつ形になっている。
音に合わせて右へ出ると、リオの肩がすぐそばを通った。ひよりは腕を引き、ナツが中央へ入る隙間を空ける。その向こうから前へ抜けたアンの顔を鏡の中で見つけたところで、サビが来た。
胸の前で手を返し、肩を入れて足を踏み替える。その勢いのまま、もう一度。自分の身体には気持ちよくつながる動きだった。けれど、鏡の四人へ目を広げると、忙しく返している手が思ったより小さく見えた。
最後に四人が左右へ分かれたところで音が止まった。ひよりは腕を下ろしかけ、もう一度だけ胸の前で手を返した。
「待って」
ひよりが言った。アンが壁際に固定していたスマートフォンを取りに行く。
「何」
「サビ、ここ変えたい」
「また?」
「またって何」
「今日もう三回目」
「よくしたいんだからいいでしょ」
ひよりはさっきの位置へ戻った。
「この細かいところ、一回だけ簡単にしたい」
リオが手を動かす。
「ここ?」
「そう」
「何で?」
アンが聞く。
「客席でもできるように」
ひよりは細かく返していた両手をやめ、大きく右へ腕を出した。左。最後に上。
「これなら一回見たら、次できそうじゃない?」
もう一度。右。左。上。自分たちを初めて見る客が、一回目は眺めている。二度目には少し腕が動く。そんな光景がすぐに浮かんだ。
ひよりは腕を下ろした。
「……変えていい?」
「撮るからもう一回」
アンが答えの代わりにスマートフォンを構えた。
「今のでよくない?」
「確認するの」
「はい」
もう一度踊る。アンはすぐ録画を再生した。
「地味」
「え」
「思ったより地味」
「客席からできるようにしたんだから、多少は――」
「多少じゃなくてサビで弱くなってる」
「そこまで?」
「自分で見て」
渡されたスマートフォンで、ひよりは自分の動きを見た。一回では返す気になれず、もう一度再生した。
「……ダサくはない」
「誰もダサいって言ってない」
「顔が言ってる」
「顔に字幕でも出てんの?」
アンが手を伸ばしたが、ひよりは返す前にもう一度だけ再生した。
「……もう一回くらい見てもいいでしょ」
最後まで見てからスマートフォンを渡し、両腕を組む。アンは取り戻した画面を見ていて、ひよりの顔には何も言わなかった。
確かに、踊っているときより画面では物足りなかった。でも気に入っていた。簡単で、一緒にできる。それを一言で地味と言われると腹が立つ。
「まひる」
今度はリオだった。
「何」
「その動き、私もちょっと気になる」
「リオも?」
「全員でやると横に広がりすぎる」
「でも客は――」
「客の話じゃなくて、四人がどう見えるか」
ひよりは黙る。
「一回やってみて」
リオが位置を動かした。
「まひるが半歩前。私とナツは一拍遅らせる。アンは反対側」
「それ、客は同じ動きできる?」
「腕は変えないよ。位置だけ」
「ああ」
「でもこれ」
ナツが腕を上げた。
「歌いながら最後までやると、ちょっときつい」
ひよりが振り向く。
「そんなに?」
「やってみる?」
「歌えないです」
「じゃあ信じて」
「信じてます」
「今の間は何」
「何もないです」
ナツが疑わしそうな目をする。アンが笑った。
「機嫌悪くなってる」
「なってない」
「なってるじゃん」
「なってないって」
ひよりは鏡へ向き直った。やればいい。自分の案なのだから、自分が一番分かっている。そう思いかけて、画面で見た自分を思い出した。
地味だった。少しだけ。本当に少しだけ。
「……ナツさん、どこなら平気?」
「最後だけ腕下げたい」
「こう?」
ナツがやってみせる。ひよりも真似する。
「それなら歌える」
「アン、今のも――」
「撮ってる。あとで見比べようと思って」
「……頼む前から分かってるの、なんか腹立つ」
アンは笑ったまま、録画中のスマートフォンをひよりへ向けた。
「その顔も残す?」
「踊ってるところだけにしてよ」
リオが鏡を見ながら、ひよりの足元を指した。
「まひる、もう少し後ろ。さっき半歩前って言ったけど、出すぎてる」
「半歩って言われた通りに出たんだけど」
「まひるの半歩でかいんだよ」
ひよりは小さく下がったが、鏡を見ているリオの顔が変わらず、もう片方の足を動かすのはやめた。
「ここでいいの?」
「いいから一回やろう」
ナツが音を戻した。アンがスマートフォンを壁際に固定し直す。今度は誰も返事をせず、四人ともそれぞれの位置へ入った。曲が始まる。
サビで、ひよりは半歩前へ出た。腕の動きは簡単なまま、一拍遅れて続くリオとナツ、反対へ動くアンが鏡に映る。ナツが最後だけ腕を少し下げ、アンが正面へ顔を向けたところで曲が止まった。
「見る」
アンが自分からスマートフォンを持ってきた。四人が画面へ集まる。
「さっきよりいい」
アンが言う。ひよりがすぐ顔を上げた。
「でしょ」
「何でまひるが勝ったみたいな顔してんの」
「元は私だから」
「だいぶ変わってるけど」
「だいぶではない」
「数える?」
「数えなくていい!」
リオが画面を巻き戻した。
「ここ」
「何?」
「アン消えてる」
「え」
再生する。ひよりの肩の後ろへ、アンの顔が半分隠れた。
「……一瞬じゃん」
「一瞬でも消えてる」
「でもこれ以上戻ったら――」
「まひる」
アンが言う。
「あたし消えてるけど」
「分かってるって」
「じゃあ戻って」
「今戻ろうとしてた!」
「してないじゃん」
「今から!」
ひよりは少し強く床を踏んで、自分の位置へ戻った。半歩。もう半歩は下がりすぎる。鏡を見る。
「ここ?」
リオも見る。
「そこ」
「最初からそう言って」
ひよりは自分のつま先を見下ろし、鏡へ目を戻した。アンの顔が全部見えている。さっきの場所と、ほんの少ししか違わない。
「……ここの半歩、すごい狭い」
「まひるが広いの」
リオが笑った。ひよりは言い返しかけたが、アンまで鏡の中で大きく頷くので、口を尖らせた。
「もう一回やれば分かるよ」
ナツが音源へ手を伸ばした。
「はい、最初から」
ひよりが振り向く。
「ナツさん、結局仕切ってるじゃん」
ナツの指が止まった。
「……これは進まないからいいの!」
アンが吹き出す。リオも笑った。ひよりも堪えきれずに笑う。
「じゃあお願いします」
「最初からそう言いなさい」
アンがスマートフォンを壁際に置き直したところで、音が始まった。
*
最後のサビで、ひよりは前へ出た。右、左と腕を動かすと、リオとナツが続き、アンが開く。二度目は四人で同じ腕を上げた。難しくない。初めて見た人でも、たぶん二度目には真似できる。
ひよりは鏡の向こうに、まだいない客席を思い浮かべた。眼鏡くんとタンクトップくん、鉢巻くんの後ろには知らない顔がある。最初は見ているだけだった誰かも、次のサビでは腕を上げる。
曲が終わった。
「……どう?」
息を整えながら、ひよりが聞く。
アンが録画を再生すると、四人で画面へ顔を寄せた。一度見終えてから、もう一度。ひよりは最後のポーズまで、今度こそアンの顔が隠れないかを確かめた。
「いいんじゃない」
アンが言った。
「今度は地味じゃない?」
「うん」
「ほんとに?」
「しつこい」
リオも頷く。
「形もこれが一番いい」
ナツは水を一口飲んだ。
「歌える」
「じゃあ、これでいく?」
ひよりが聞く。三人を見る。ナツが蓋を閉めた。
「もう一回やってから」
「まだ?」
アンが言う。
「本番でやるんだから」
「それナツさんが言うんだ」
「歌うの私なんだから確認したいの」
リオはすでに位置へ戻っていた。
「私はもう一回やりたい」
「リオまで」
「アンは?」
三人が見る。
「……やるよ」
アンもスマートフォンを壁際へ置いた。ひよりが笑って定位置へ戻る。そこで扉が開いた。
「ちょうどいいわ」
レイだった。手に紙を持っている。
「何?」
アンが振り向く。
「来週のデビューライブ。セットリスト決まった」
四人が止まった。レイが紙を上げる。
「一曲目――『ここから!』」
ひよりは鏡を見た。四人しか映っていない。来週、この向こうには客がいる。さっきまで想像していた腕も、本当に上がるかもしれない。
「……もう一回やろ」
アンが呆れた顔をする。
「休憩は?」
「終わってから」
「さっき聞いた」
「じゃあ分かるでしょ」
「それ私が言ったやつ」
「いいから早く!」
ひよりが最初の位置につくと、リオが隣へ入り、ナツも水を置いて戻ってきた。アンはまだ文句を言いながら並んだが、イントロが流れ始めると四人で前を向いた。




