第55話 今度は言う
家へ帰ったときには、もう十時を過ぎていた。玄関を開けると、居間からテレビの音が聞こえる。
「ただいま」
「おかえりー」
悠真の声が返ってきた。靴を脱ぎながら、ひよりは鞄へ目を落とした。中には、アルノアでもらった資料が入っている。
契約した。リトルフレアの四人で。それから『ここから!』を聴いた。帰りの電車でも、あのサビがずっと頭から離れなかった。なのに家が近づいてからは、別のことばかり考えていた。
言わないと。今日じゃなくてもいい。でも今日言わなければ、明日も同じことを考える気がした。
ひよりは居間へ入った。修司はソファでテレビを見ている。香織はテーブルで洗濯物を畳み、悠真は床に座ってスマートフォンを触っていた。
「ご飯は?」
「食べてきた」
「遅かったね」
「うん」
そのまま自分の部屋へ行きかける。三歩で止まった。
「あのさ」
三人が見る。ひよりは鞄を持ったまま振り返った。
「話あるんだけど」
修司の眉が少し上がる。
「何だ」
「会社、辞めようと思ってる」
悠真のスマートフォンが下がった。
「え」
香織も畳んでいたシャツから顔を上げる。修司だけは、すぐには何も言わなかった。
「……もう決めたのか」
「うん」
「アイドルを仕事にするってことか」
「うん」
「契約したのか?」
「した」
「いつ」
「今日」
修司が黙る。ひよりも黙った。
「今日契約して、それから俺たちに言ってるのか」
「会社にはまだ言ってないよ」
「そういう話じゃない」
「でも前より先に言ってるじゃん」
「前よりって何だ」
「アイドル始めたとき、何も言わなかったから」
「自分で言うな」
悠真が吹き出した。
「姉ちゃん、それ基準低くない?」
「悠真は黙ってて」
「はい」
スマートフォンへ目を戻したが、絶対に聞いている。修司がソファから身体を起こした。
「会社まで辞めないとできないのか」
「これから平日の仕事も増えるから」
「今までみたいに、仕事終わってからじゃ駄目なのか」
「無理だと思う。今日、予定見たけど昼間にも入ってたし」
「それだけで生活できるのか?」
「お給料は出るよ。仕事によっては別にもらえるし」
「安定してるのか」
「それは……まだ始まってないから分かんないけど」
修司の顔が険しくなる。
「分からないのに会社辞めるのか」
「だから考えたって」
「考えたなら、聞かれたことに怒るな」
「怒ってない」
「怒ってるだろ」
「……怒ってない」
ひよりは口を閉じた。腹が立った。同時に、父が聞いていることがおかしいとも思えなかった。
高校を卒業して入った会社だった。毎月給料が出て、決まった時間に行けば、次の日も同じ机がある。それを自分から手放そうとしている。
何も聞かれなかったら、それはそれで嫌だった気もする。でも、聞かれると腹が立つ。自分でも面倒だった。
香織が畳んでいたシャツを置いた。ひよりはそちらを見る。
「会社には?」
「……明日言う」
「自分で?」
「自分で言うよ」
思ったより強い声が出た。香織が少しだけ目を丸くする。
「別に、誰かに言ってもらうつもりないし」
「そう」
香織はそれ以上何も言わなかった。修司が息を吐く。
「反対してるわけじゃない」
「反対してるみたいな聞き方するじゃん」
「心配してるんだよ」
「……分かってる」
返事だけして、ひよりは黙った。
「姉ちゃん」
「何」
悠真がスマートフォンを持ったまま聞く。
「じゃあ職業、アイドルになるってこと?」
「……そうなるんじゃない?」
「すげえ」
「何が」
「職業欄にアイドルって書けるじゃん」
「そんな欄ある?」
「知らん」
「じゃあ言うな」
悠真が笑う。修司も口元だけ少し動いた。
「お父さんまで笑わないでよ」
「笑ったら駄目なのか」
「さっきまであんなに心配してたじゃん」
修司は悠真の方を一度見て、ひよりへ目を戻した。
「心配はしてる。今も」
ひよりは口を開きかけて閉じた。父の顔を見ていると、また何か言い返しそうになったので、鞄の持ち手を握り直した。
「ひより」
「何」
「明日、自分で言うんだな」
「言う」
修司は少しだけ間を置いた。
「なら、ちゃんと言ってこい」
「……分かってる」
それ以上は言わず、階段へ向かう。二段上がったところで、悠真の声が飛んできた。
「姉ちゃん」
「今度は何」
「テレビ出たら言って」
ひよりは振り返る。
「何で」
「録画するから」
「しなくていい」
「何でだよ」
「恥ずかしいから!」
「アイドルなのに!?」
「家族に録画されるのは別なの!」
居間から香織の笑い声が聞こえた。ひよりはそのまま階段を上がった。
*
翌朝。目覚ましが鳴る少し前に目が覚めた。ひよりは枕元のスマートフォンを取り、時刻を確認する。
「……早」
珍しく、昨夜は日付が変わる前に寝た。顔を洗い、いつもの服を着る。いつもの鞄を持って、いつもの駅へ向かった。会社へ着けば、何も変わっていなかった。
「おはようございます」
「おはよう」
机へ鞄を置いてパソコンをつけ、メールと頼まれたデータを開いた。数字を打ち込む間に、コピー機の紙が切れた。昨日アルノアと契約しても、そこはいつも通りで、ひよりが補充した。
昼休みが終わって午後の仕事に戻ると、何度も上司の席へ目が向いた。
話しかければいい。昨日は家で言えた。今朝も、電車の中では言えると思っていた。ところが会社へ来ると、急に難しくなった。
一度は立ちかけたが、上司の電話が鳴った。座り直してメールを一通返し、顔を上げると、今度は別の社員が話しかけている。その人の話が終わるのを待つうち、上司が書類を持って席を立った。
「あの」
声が出た。上司がこちらを見る。
「はい?」
「少し、お話いいですか」
「今?」
「はい」
言ってしまえば、その後は早かった。上司と別室へ移り、扉が閉まる。向かいへ座った上司が、
「どうした?」
と聞いた。
ひよりは膝の上で手を組んだ。
「退職したいと思っています」
「……退職?」
「はい」
上司が持っていたペンを止めた。
「急だな。何かあった?」
「いえ」
「仕事、きつかった?」
「そうじゃないです」
違う。会社が嫌になったわけではない。だからこそ、辞めると言うのは思っていたより居心地が悪かった。上司は少し待ってから聞いた。
「次、決まってるの?」
「はい」
「そうか」
表情が少し緩む。
「どんな仕事?」
ひよりの口が止まった。芸能関係です。そう言えば済む。音楽関係でも嘘ではない。一度、その逃げ道へ口が動きかけた。
昨日の修司の声が戻ってくる。自分で言うんだな。
「アイドルです」
「……え?」
「アイドルをやります」
上司が瞬きをした。言ったひより自身も、少しだけ顔が熱くなる。
「アイドル?」
「はい」
「今から?」
「いえ」
「もうやってるの?」
「やってます」
「いつ?」
「仕事終わってからとか、週末に」
「ずっと?」
「しばらく」
上司が椅子の背へ身体を預けた。
「全然知らなかった」
「言ってなかったので」
「そりゃ知らないよ」
「はい」
少し笑われた。馬鹿にされた感じではなかった。
「それで辞めるってことは、本格的にやるの?」
「今度、メジャーデビューすることになって」
「メジャー?」
「はい」
「本当に?」
「本当です」
反射的に返した。上司がまた驚いた。
「すごいな」
「……まだデビューしてないですけど」
「グループ?」
「四人です」
「グループ名は?」
「リトルフレアです」
「リトルフレア」
上司が覚えるように一度繰り返す。それから、
「榎本さんは、そのまま榎本で出てるの?」
と聞いた。ひよりは一瞬だけ黙った。
社員証には、榎本ひよりと書いてある。社内メールもそうだ。ここではずっと榎本さんだった。
「違います」
「芸名?」
「はい」
ひよりは上司を見る。
「天野まひるって名前でやってます」
「天野まひる」
「はい」
名前を呼ばれて、ひよりはすぐに顔を上げた。




