第54話 金曜日が戻った
三人と話した翌日、木曜の夜。ひよりは会社の鞄を撮影スタジオの壁際へ置いた。佐伯へ返していた候補日は、この日で決まっていた。着替えて撮影用の明かりの中へ立つと、カメラの向こうから「天野さん、お願いします」と声が掛かった。別のアーティストの新曲。届いていた振付は覚えてきた。変えてほしいと言われているのは、サビの終わりだけだった。
音が流れ、ひよりは前へ踏み込んだ。細かく足を入れ替えたあとで身体を返すと、床を踏む音が伴奏へ混じる。次の場所まで、自分の身体だけを運べばよかった。
サビの終わりが近づく。歌声が短く切れ、そのあとを低い音が跳ねる。元の振付ではここで肩を引く。ひよりは踵を浮かせたまま少し待ち、低い音を足裏で受けてから肩を返した。腕もその勢いについてくる。
気持ちいい。
次の決められた動きへ戻っても、さっき足の下へ落ちてきた音が残っていた。そのまま最後まで踊り、顔を上げる。
「今、変えたのがサビの最後ですか?」
「はい」
撮影を担当している人が、確認用の画面をこちらへ向けた。映像の中で、自分が肩を返す。待ったつもりのところは、思ったほど待って見えなかった。音が跳ねるより先に、身体がもう動き始めている。
「もう一回、いいですか」
「今のもよかったですよ」
「でも、ここ。もうちょっと待ちたい」
画面の前で踵を浮かせると、相手がひよりの足元を見て笑った。
「やってみましょう」
ひよりは明かりの中へ戻った。曲がそこへ近づくまで、今度は急がなかった。歌声が切れる。身体はまだ動かさない。続く低い音へ踵を落とすと、膝から肩まで一緒に跳ねた。レンズへ顔を戻したときには、もう笑っていた。何も返してくれない黒い丸を見ているはずなのに、見ていることまで忘れていた。
最後の音が止まる。
「今の、どうでした?」
ひよりが先に聞いた。
「こっち、いいですね」
画面を見せてもらう。さっきより長く止まった自分が、音の来たところでほどけるように動いた。ひよりはその部分をもう一度見た。まだ足の裏に、同じことをやりたい感じが残っている。
「……楽しい」
「踊ってるときも、そういう顔でしたよ」
言われて、自分の顔まで見直してしまった。
*
金曜日。定時で会社を出たひよりは、迷わずいつもの電車に乗った。先週の金曜は、同じ時間に家へ向かった。今日は違う。
高田馬場駅を出て、何度も通った道を歩く。冬ほど刺すような冷たさはもうなく、早足になると薄手の上着の中が少し暑い。練習場のある建物が見えてくると、足を緩めずそのまま扉へ向かった。扉を開ける。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
リオが床に座って脚を伸ばしていた。ナツは鏡の前で髪をまとめている。壁際では、アンがスマートフォンを見ながら片足ずつ靴紐を結んでいた。
三人ともいる。
アンが顔を上げた。
「今日早いじゃん」
「まだ七分前だけど」
「まひるにしては早い」
「遅刻したみたいに言わないで」
鞄を置く。リオが時計を見た。
「七分で着替えるんでしょ?」
「余裕」
「髪もまとめるよね?」
「……急ぎます」
「ほら」
「まだ遅刻してないからね」
言い返してから、更衣スペースへ急いだ。後ろでアンが笑っている。
「絶対そのうち遅刻するよね」
「聞こえてる!」
「早く着替えなー」
ナツの声まで飛んできた。
*
「じゃあ一曲、通すわよ」
着替えを終えた四人が鏡の前へ並ぶと、佐伯が音源を選んだ。流れてきたイントロに、ひよりは少しだけ目を見開いた。
『フライング・ハート』。
隣では、リオがもう最初の位置についている。
「何?」
「何でもない」
「始まるよ」
「うん」
音が入ると、四人で踏み出した。腕を上げて向きを変えても、次の振りには迷わない。二週間空いたくらいで、身体から振付が消えることはなかった。
サビへ入る前、ひよりは無意識に半歩下がった。目の前を赤い練習着の裾が抜けていく。リオだった。一瞬そちらを見たが、すぐに次の動きへ入った。
後ろへ身体をずらすと、空けた中央へナツが入ってきた。黄色い髪留めが揺れている。ひよりは口元が緩みそうになり、慌てて正面を向いた。まだ曲の途中だ。
次の移動でアンと並び、二人で腕を伸ばした。横を見れば、アンがいた。
「何」
踊りながら言われた。
「いた」
「いるけど」
「うん」
「何なの」
アンが怪訝そうな顔のまま離れていく。先週、同じところで横を見たときには壁しかなかった。今日は違う。
少し前へ出すぎればリオと重なる。下がるのが遅ければナツの進路を塞ぐ。大きく腕を伸ばせば、アンの手がすぐ近くを通る。一人で踊るより面倒だった。誰にも合わせなくていい方が楽なはずなのに、ひよりは次の拍が来るのを待っていた。
四人の位置が入れ替わる。最後のサビ。腕を上げる。鏡の中で四人が同じ方向を向いた。曲が終わった。
「……きつ」
ひよりは膝へ手をついた。
「二週間で体力落ちた?」
アンも息を切らしている。
「アンも同じじゃん」
「あたしは普通」
「普通の息じゃないでしょ」
「喋れるなら、もう一曲いけるわね」
佐伯の声で二人とも黙った。
「無理です」
「今きついって言ったじゃん」
「聞こえてるわよ」
佐伯は腕を組み、鏡越しに四人を見る。
「……まあ、戻せそうね」
ひよりが顔を上げた。
「まあ?」
「何よ」
「もうちょっと褒めるところじゃないですか」
「二週間活動止めた人たちに、よく戻ってきました百点満点って言ってほしいの?」
「百点までは言ってないですけど」
「じゃあ何点?」
「八十くらい」
「図々しい」
アンが吹き出した。
「もらう気じゃん」
「ちょっとくらいいいでしょ」
ひよりが言い返すと、ナツは自分の胸を指した。
「もらうなら私も。歌いながらこれ、きついんだから」
「ナツさんまで」
「八十点くれるなら、もらっとく」
ナツがタオルを首へ掛けて笑った。ひよりも笑い返し、二人で佐伯を見た。佐伯が予定表を見る。
「まあ、いいわ」
四人の顔がそちらへ向く。
「明日、出るわよ」
「明日?」
ひよりが聞き返した。
「土曜。ライブ」
「出ていいんですか?」
「その確認のために踊らせたんでしょうが」
「あ」
「何だと思ってたのよ」
「練習が戻ったから、とりあえず踊るのかと」
「アタシそこまで暇じゃないわよ」
アンが横で笑っている。
「でも今の、確認で合ってたじゃん」
「結果的には」
「最初からそうだって」
レイが新しい予定表を四人へ配った。
ひよりは受け取って、一番上を見る。土曜日。ライブハウスの名前。その下に、物販。来週の水曜と金曜には練習。
また埋まっている。ほんの一週間前まで、何もなかった場所だった。
「出たい?」
佐伯が聞いた。
「出たいです」
「返事早い」
「それ前も言われました」
「じゃあ、そこは変わってないわね」
「変わらなくていいです」
「そうね」
佐伯が少しだけ笑った。
予定表を鞄へしまってから、ひよりは鏡の前へ戻った。曲を待つつもりだったのに、つま先が昨日の続きを選んでしまう。踵を浮かせ、少し待って肩を返した。
「それ、撮影で踊ったの?」
リオに聞かれ、ひよりは頷いた。
「ここだけ変えた。最初より、ちょっと待つの」
「もう一回やって」
言われた通りに動くと、リオの足まで小さく同じところで止まった。
「いいと思う。そのあと急に動くの、まひるっぽい」
「音あるともっといいよ」
「自分で言うんだ」
アンの声がした。ひよりは振り返ったが、笑った口を戻せなかった。
「だって、ほんとによかったんだもん」
「腹立つなあ」
アンはそう言いながら近づき、ひよりの隣へ立った。同じように踵を浮かせたが、肩を返すより先に足が着く。
「今、早い」
リオが言った。
「分かってる」
「ここでまだ待つんだよ」
ひよりがもう一度やると、アンは鏡の中のひよりを見た。
「あたしにも、そういう仕事来ないかな」
リオが何か言いかけた。その前に、ナツが鏡へ向かってマイクを持つ形を作った。
「私は歌う方がいい。その後ろで踊ってよ」
「ナツさんの後ろ?」
「前には出さない」
「まだ何も言ってないじゃん」
ひよりが笑うと、ナツも笑った。
「絶対出る顔だった」
アンは足を揃え、壁際から自分の水を取った。
「もう一回やりたいけど、今はうちらの曲でしょ」
ひよりも顔を上げた。リオはすでに、四人の振付の立ち位置へ戻ろうとしている。昨日は、一人で最後まで真ん中にいた。それも楽しかった。今はリオの横へ入り、ナツとアンが来るのを待つ。隣に空けておいたところへアンの靴が収まると、ひよりは鏡の中の四人を見た。
*
数日後の夕方。四人は佐伯とレイと一緒に、アルノア・ミュージックの会議室にいた。初めてアルノアの担当者と話したときよりは、さすがに緊張しなかった。それでも机の上に置かれた書類を見ると、ひよりは背筋を伸ばした。
向かいに座った担当者が最後の説明を終え、資料を閉じる。
「所属はこれまで通りFRAME WORKSさんです。音楽活動については、今後アルノアと一緒に進めていく形になります」
「はい」
四人が答える。
「では改めて。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
今度は、声が少しずれた。アンだけ早く、ナツが半拍遅い。ひよりは頭を上げる。隣のリオと目が合った。リオが少し笑ったので、ひよりも笑った。
四人で契約した。誰か一人ではない。リトルフレアとして。それだけは、ひよりにも分かった。
その後もいくつか説明が続いた。今までとは違い、毎月の給与があり、仕事によっては別に歩合もつく。そこでアンが資料へ顔を近づけた。
「これ、毎月ですよね?」
担当者が少し笑った。
「はい」
「アン、そこだけ急に真剣じゃない?」
ナツが言う。
「大事でしょ」
「さっきまでより明らかに目開いてたよ」
「開いてない」
ひよりも資料を見る。数字より先に、給与という文字が目に入った。今までもアイドルだった。でもライブへ出ても、それだけで生活できるようなお金はほとんど出なかった。これからは違うらしい。
アイドルで、お金をもらう。会社とは別にしていたものが、仕事になる。その実感だけが、契約したという言葉より少し遅れて胸へ落ちてきた。
*
FRAME WORKSへ戻ると、佐伯はジャケットを椅子へ掛けた。
「で。浮かれるのは今日までよ」
さっきまでの外向きの口調が消えている。アンが椅子へ座る。
「早くない?」
「早くない。デビューまでやること山ほどあるの」
レイが予定表を広げた。
「今までより平日の予定も増えるからね。レッスン、打ち合わせ、撮影も入ると思ってて」
ひよりは紙を覗き込んだ。水曜と金曜だけではない。月曜。火曜。昼間の空欄にも、仮の予定が入っている。
会社の勤務表を頭の中で重ねようとして、途中でやめた。これは、たぶん無理だ。今までみたいに仕事が終わってから練習へ行く形では追いつかない。
「あ、それなら」
ナツが何でもないように言った。
「私、今の技官の契約、更新しないから。その後なら平日も空くよ」
三人が一斉にナツを見る。
「え?」
ひよりが最初に声を出した。
「聞いてない」
アンも言う。
「言ってないからね」
「いつ決めたの?」
リオが聞いた。
「一か月くらい前」
「一か月?」
ひよりは思わず佐伯を見る。佐伯も知らなかったらしく、ナツを見ている。
「ちょっと待ちなさい。アルノア決まる前じゃない」
「そうだよ」
「メジャー決まるか分からなかったですよね?」
ひよりが聞く。
「分からなかった」
「じゃあ何で?」
ナツは少し考えた。
「このまま両方ずっと続けるの、無理だなって思ってたから」
「それだけ?」
「それだけって何」
「いや、もっとこう」
「すごい決意とか?」
「ちょっと」
「ないよ」
ナツは笑った。
「怖くなかったんですか」
「怖いよ」
あっさり返ってきた。ひよりは口を閉じた。
「でも、更新する方を選んだら、たぶんまた同じ生活続けると思ったから」
「それ、先に言ってくださいよ」
「言ったらまひる絶対こうなるじゃん」
「こうって何ですか」
「質問いっぱいする」
「しますよ」
「ほら」
「ほらじゃないです」
アンが横から口を挟む。
「ていうか、メジャー決まってないのに更新しない方だけ決めてんの、普通に怖くない?」
「だから怖いって言ってるでしょ」
「ナツ、たまに思い切りいいよね」
リオが言う。
「たまにじゃないよ」
「普段、もっと慎重そうに見えるから」
「何それ」
「何でも先に考えてそうっていうか」
「考えた結果だよ」
ナツはそう言って、予定表を指で軽く叩いた。
「怖いけど、決めたのは私だから」
アンが少しだけ眉を上げる。
「そこはちゃんと言うんだ」
「言うよ。自分のことだもん」
佐伯が手を叩いた。
「はい。人生相談は後」
「相談してないです」
「してたわよ」
レイが笑いながら、スマートフォンをスピーカーへつないだ。
「それより、こっち」
「何?」
アンが聞く。
「アルノアから来た。デビュー曲のデモ」
四人の声が止まった。
「もう?」
リオが一歩近づく。
「候補曲だけどね。まず聴いてって」
ひよりもスピーカーの方を見る。レイが再生ボタンへ指を置いた。
「タイトルは――」
ひよりの目が、スマートフォンの画面へ行く。
『ここから!』
「そのまんまだね」
アンが言った。
「いいじゃん」
ナツが笑う。
「聴こう」
リオが言った。レイが再生する。明るい音が部屋いっぱいに広がった。イントロは軽い。けれど、そのまま流れていく感じではなかった。次の音へ身体を預けたくなる。
歌が始まる。ナツがすぐにメロディーを追う。リオは指で小さく拍を取っていた。アンは何も言わず、画面を見ている。
サビへ入った。ひよりの右足が、半歩だけ横へ出た。
「まだ振付ないからね」
アンが言った。
ひよりは足を戻す。
「分かってる」
「今動いたじゃん」
「動いてない」
「動いた」
リオまで言う。
「ちょっと足出ただけ」
「それを動いたって言うんじゃない?」
ナツが笑う。
「……ちょっとだけ」
仕方なく認めた。
曲はそのまま進んでいく。ひよりは今度こそ足を止めて聴いた。けれど頭の中では、もう身体が動き始めていた。
どこでリオが前へ出るか。どこならナツが歌いやすいか。アンがどちらへ動けば四人がきれいに見えるか。自分なら、どこへ行くか。
まだ何も決まっていない。だから、いくらでも考えられた。
二度目のサビが来る。ひよりのつま先が、また小さく拍子を取った。今度は誰も止めなかった。




