第53話 四人で続けたい
水曜日。定時で会社を出たひよりは、迷わずいつもの電車に乗った。先週は途中まで来て、練習がないことに気づいた。今日は違う。練習はない。分かっていて向かっている。
土曜日に送ったグループチャットを、電車の中でもう一度開いた。
――水曜、話したい。
――私は行く。
翌日になって、リオから「分かった」。ナツから「うん」。アンから返事はない。既読は四つ付いていた。
ひよりは画面を閉じた。来るとは書いていない。それでも、自分は行くと決めた。
*
練習場の扉を開ける。
「お疲れさまです」
言ってから、少し変な気分になった。練習はない。音楽も流れていない。鏡の前にも誰もいない。いつもなら床へ置かれているペットボトルも、脱ぎ散らかした上着もなかった。
奥にいたレイが顔を上げる。
「ほんとに来た」
「行くって送りましたから」
「そうだけど。まだ誰も来てないよ」
「分かってます」
ひよりはいつもの壁際へ鞄を置いた。朝、何となく入れてきた練習着が中にある。使うかどうかは分からない。靴も履き替えなかった。
佐伯が隣の部屋から顔を出す。
「あら、来たの」
「はい」
「三人は?」
「知りません」
「知らないの?」
「来てとは言ってないので」
佐伯が少しだけ目を細めた。
「そう」
それ以上は聞かず、奥へ引っ込んだ。
ひよりは床へ座り、スマートフォンを開いた。新しいメッセージはなかった。一度閉じても、しばらくするとまた、同じ画面を確かめていた。
「落ち着きなさいよ」
レイに言われた。
「落ち着いてます」
「さっきから何回チャット見てんの」
「来てるかもしれないじゃないですか」
「来たら扉が開くわよ」
「あ」
「そこ今気づく?」
ひよりはスマートフォンを伏せた。
それから数分もしないうちに、本当に扉が開いた。リオだった。肩に鞄を掛けたまま、一瞬だけ入口で止まる。目が合った。
「……来た」
ひよりが言う。
「うん」
リオはそれだけ答えた。いつもの場所へ鞄を置く。練習着ではない。ひよりから少し離れたところへ座った。
「大学?」
「うん」
「そっか」
「会社?」
「うん」
そこで終わった。
レイは何か言いかけ、二人の間に空いた床を見て口を閉じた。壁際へ戻る靴音が、音楽のない部屋でやけに大きく聞こえた。
少しして、また扉が開いた。
「お疲れ」
ナツだった。
「ナツさん」
「何?」
「来た」
「見れば分かるよ」
ナツも鞄を下ろした。いつもなら、はい、座って、じゃあ話そっかと、自然に三人を動かしていた。けれど今日は、自分の鞄の横へ座っただけで、何もしなかった。
三人になった。誰も話を始めない。
ひよりが扉の方を気にしていると、廊下から足音がした。扉が開く。アンが入ってきた。
「遅い」
「練習じゃないでしょ」
「でも水曜だし」
「意味分かんない」
アンは扉を閉め、鞄を肩から下ろした。
返事はなかった。でも来た。四人になった。
「で」
アンが壁にもたれた。
「話って何」
三人の顔がひよりへ向く。ひよりは膝の上で手を組んだ。一度だけ息を吸う。
「抜けるって言ったの、取り消したい」
アンがすぐに言った。
「軽」
「軽くない」
「言い方が軽い」
「じゃあ何て言えば――」
そこまで出て、ひよりは口を閉じた。アンが眉を上げる。
「何」
「……いや。これは自分で考える」
「そうして」
「とにかく、抜けない」
今度は言い直さなかった。少しの沈黙。リオがひよりを見る。
「仕事は?」
「一人の?」
「うん」
「受けた」
アンの目が少し動く。
「断ってないんだ」
「うん」
「そっか」
ひよりは三人の顔を順に見た。
「やりたいから」
「うん」
ナツが短く返した。リオも、
「いいと思う」
と言った。アンは何も言わない。ひよりはそちらを見る。
「アン」
「何」
「……やっぱり嫌?」
アンの顔がすぐに険しくなった。
「だから、嫌なのそこじゃないって何回言えば分かるの」
「あ」
「また最初からやる?」
「やらない」
ひよりは首を振った。
「でも……」
どう聞けばいいのか分からず、続きが出てこない。横へ動いた視線の先にナツがいた。目が合っても、何も言ってくれなかった。ひよりは自分で視線を戻し、アンを見た。
「アンは、どうしたいの?」
「……あたし?」
「うん」
「何が?」
「私の仕事じゃなくて。アンが」
アンはしばらく黙った。腕を組み直す。
「羨ましい」
「うん」
「今も」
「うん」
「次またまひるに仕事来たら、たぶんまた羨ましい」
「……うん」
「返事しすぎ」
「聞いてるって分かるかなと思って」
「分かるから」
アンは少し苛立ったように髪を耳へ掛けた。
「別に、仕事やめてほしいわけじゃない」
「じゃあ」
「私にも欲しい」
今度は、ひよりは黙って待った。
「あたしに来る仕事」
アンが続ける。
「まひるがいるからじゃなくて、星川アンだからって来るやつ」
ひよりは頷いた。
「そっか」
「何」
「今度は分かった気がする」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「分かったって言ってまた違ったら怒るでしょ」
「怒る」
「じゃあ、たぶん」
アンが小さく鼻を鳴らした。そこでリオが口を開く。
「それは私も分かる」
アンがそちらを見た。
「リオも言ってよ。まひるのときだけ甘いって話、まだ違うって言う?」
リオの表情が固まった。
「今それやる?」
「今だからやるんでしょ。私だけ話して終わりにしないでよ」
アンは壁から背を離した。リオはひよりへ向きかけた顔を、アンへ戻した。
「……甘いって言い方は嫌」
すぐには続けなかった。ひよりも黙って待つ。
「まひるならできるって、先に思うところはある」
ひよりは瞬きをした。アンも少し意外そうな顔をした。
「あるんじゃん」
「あるよ」
リオがひよりを見る。一瞬だけ視線がずれた。
「ダンスはすごいと思ってるし。前に出たら映えると思ってる」
「ありがとう」
「今お礼言うところ?」
「褒められたから」
「そういうとこ」
アンが呆れる。リオは続けた。
「でも、まひるが前に出るのと、私が前に出たいのは別だから」
アンが腕を組む。
「最初からそう言えばよかったじゃん」
「今言ってるじゃん」
「遅い」
「アンに言われたくない」
「何で」
「ずっと『別に』って言ってた人に、遅いって言われたくない」
アンの眉が上がった。
「……そこ掘る?」
「掘る」
「ムカつく」
「でも本当でしょ」
「今それ言う?」
「今だから」
少しだけ空気が緩んだ。それでも、アンはまだ引かない。
「でも、またまひるのことだけ『実力だから』って言ったら、あたし怒るから」
「本当に実力だったら言うよ」
「そういう言い方がムカつく」
「じゃあどう言えばいいの」
「自分で考えて」
「それずるくない?」
二人の声がまた少し速くなった。ひよりは反射的に横を見たが、リオとアンも同じ方を向いていた。三人の視線を受けたナツが、嫌そうな顔をした。
「こっち見るな」
三人とも止まった。
「……はい」
ひよりが答える。
「まひるだけじゃない」
ナツはリオとアンを見る。
「自分で話して」
「話してるし」
アンが言う。
「じゃあ続けて」
「もう終わった」
「終わったの?」
「たぶん」
ナツはそれ以上まとめなかった。沈黙が落ちる。今度はひよりがナツを見る。
「ナツさんは?」
「何が?」
「何したいですか」
「私?」
「うん」
ナツが少しだけ目を丸くした。それから、
「歌いたい」
と言った。
「四人で?」
「四人でも」
一度切る。
「一人でも」
ひよりは頷いた。
「歌の仕事?」
「来たらやりたい」
「そっか」
「あと」
「はい」
「私だって毎回答え知ってるわけじゃないからね」
「……はい」
「困ったら聞くなって意味じゃないよ」
「はい」
「でも、私が三人分考えると思わないで」
「はい」
「返事多いな」
「ちょっと怒られてる気がするので」
「ちょっと怒ってる」
「やっぱり」
アンが吹き出した。ナツがそちらを見る。
「笑ってるけど、アンもだからね」
「分かってるって」
「その言い方」
「はいはい」
「それも!」
「もう何ならいいの」
今度はリオも笑った。ほんの少しだけだった。元に戻ったわけではない。でも、金曜日のあの空気とも違った。
笑いが消えないうちに、ひよりが言った。
「でもさ」
「何」
アンが返す。
「次また私に仕事来たら、アン羨ましいんだよね」
「羨ましいよ」
「リオも、私の方が向いてると思ったら、私が前の方がいいって言う?」
「言う」
「それでアン怒る?」
「内容による」
「怒りそう」
「まひる黙って」
「はい」
ナツが肩を落とす。
「また揉めそうだね」
一度、四人とも黙った。ひよりは鏡を見る。練習着でもない四人が映っている。
「……何も解決してなくない?」
「してないね」
アンが即答した。
「もうちょっと、何か解決するかと思ってた」
「全部まとめて私に聞かないでよ。私だって、来るまで何話すか決まってなかったし」
アンは足元の鞄を引き寄せたが、持ち上げずに手を離した。
「アンだけ分かってるみたいだったから」
「知らないよ。あたし一番年下だし」
「そこだけ子供になるのずるくない?」
「使えるものは使う」
ひよりは笑った。少しだけだった。水曜も金曜も、週末も、毎週のように顔を合わせていた。なくなって初めて、それがただの予定ではなかったことが分かった。
ひよりは膝の上で手を握った。自分から話したいと送ったのに、ここでまた言い方を間違えるのが怖かった。誰かの欲を消せば四人でいられるのかもしれないと思って、だから自分が消えればいいと言った。
違った。
ひよりは鏡から三人へ顔を戻した。
「それでも」
三人がこちらを見る。
「私、この四人で続けたい」
アンが先に返した。
「じゃなきゃ来てないし」
「それもそうか」
「今気づいた?」
「確認」
「便利だね、それ」
リオが言う。
「今度は、抜けるとか一人で決めないで」
「うん」
「振付も」
「それは最近ちゃんと聞いてるじゃん」
「一応言っとく」
「信用ないなあ」
「前科があるから」
「言い方」
ナツも口を開く。
「私に全部聞くのもなしね」
「はい」
ひよりはすぐ答えた。
「そこだけ返事早い」
アンが笑う。
「怒られたから」
「学習したんだ」
「するよ、それくらい」
「どうだか」
「アンに言われたくない」
「何で」
「さっき怒られてたじゃん」
「まひるもでしょ」
「二人とも、もう一回止める?」
ナツの声で止まった。
「止めません」
「止めない」
ひよりとアンの声が重なった。
*
隣の部屋では、佐伯がレイと一緒にパソコンを見ていた。四人が並んで入ると、佐伯は眼鏡を外した。
「終わった?」
ひよりは口を開きかけて止まった。三人へ目を向けると、先にアンが言った。
「四人で続ける」
リオも頷く。
「続けたいです」
ナツも、
「私も」
と答えた。ひよりは最後に言う。
「私もです」
佐伯はしばらく四人を見る。
「仲直りしたの?」
「してない」
アンが即答した。
「してないの?」
「たぶんまた揉めます」
リオが言う。
「揉めると思う」
ナツまで頷いた。佐伯が眉間を押さえる。
「あんたたち何しに来たのよ」
「続けるって言いに」
アンが返す。
「そこだけは決まった?」
「決まった」
今度はリオ。佐伯がひよりを見る。
「まひるは?」
「一人の仕事、やります」
「抜けるのは?」
「抜けません」
「また何かあったら、一人で『抜ける』って決めない?」
「決めません」
ひよりは隣の三人へ目を向けた。
「四人のことは、一人で決めない」
「それ」
アンが横から言う。
「何でアンが言うの」
「言いたかったから」
佐伯が四人を見回した。
「で、誰も我慢して丸く収まる気はないのね」
「それをやったら、また同じになるし」
ナツが言った。佐伯が目を閉じた。
「欲張りが四人」
「佐伯さんが育てたんじゃないですか」
アンが言う。
「都合悪いときだけアタシのせいにするんじゃないわよ」
レイが笑った。佐伯は時計を見る。
「金曜」
四人が顔を上げる。
「練習、戻すわよ」
ひよりの胸が動いた。
「いいんですか?」
「週末のライブに出すかどうかは、金曜見てから決める」
「はい」
「返事早い」
「出たいので」
「知ってる」
佐伯は少しだけ笑った。
「じゃあ四人で踊ってみせなさい」
ひよりも笑いそうになって、ふと思い出した。
「あ」
「何」
「アルノア」
空気が少し変わる。今度はアンが先に佐伯へ聞いた。
「まだ待ってる?」
「待ってるわよ」
「じゃあ進めたい」
アンが言った。リオを見る。
「私は進めたい」
リオも答える。ナツが頷く。
「私も」
三人の視線が、最後にひよりへ来た。
「私も」
佐伯が頷いた。
「分かった。四人で進めるって伝える」
「お願いします」
それだけだった。
契約は、まだこれからだった。ひよりは鏡のある部屋を振り返り、今朝鞄に詰めてきた練習着を思い浮かべた。今日は一度も着なかったのに、もう靴を履き替えて三人の隣へ立ちたくなっていた。
あの夜は、次にここへ来る日が分からなかった。今度は分かる。金曜日だ。




