第52話 水曜なのに
目が覚めたとき、カーテンの隙間から入る光が明るすぎた。ひよりは布団の中でスマートフォンを探した。枕元にない。充電器にもつながっていない。
昨夜、座椅子でアニメを見ながら触っていたところまで思い出し、床へ手を伸ばす。指先に当たった。画面をつける。
「……十一時?」
身体が跳ねた。布団を蹴って起きる。
「やばっ」
ライブ。
集合時間。
レイから何か来て――。
そこまで考えて、止まった。
今週末のライブ、四人は出さない。昨日の佐伯の声が戻ってきた。
「……あ」
ひよりは立ったまま、もう一度時計を見る。土曜日だった。仕事はない。ライブもない。急いで着替える必要もなかった。
グループチャットを開く。昨日の練習が終わってから、誰も何も書いていない。ひよりも書かなかった。スマートフォンを布団へ放る。
「じゃあ、いいか」
もう一度潜った。
*
次に起きたのは昼を過ぎてからだった。顔を洗って台所へ行くと、母が冷蔵庫を開けていた。
「今日ライブじゃないの?」
「ない」
「珍しいね」
「うん」
香織はそれ以上聞かなかった。
「お昼、焼きそば残ってるよ」
「食べる」
焼きそばの皿を電子レンジへ入れ、温まるのを待ちながらスマートフォンを見た。何も来ていなかった。
午後は録画していたアニメを見て、途中だった漫画も読んだ。コンビニへ菓子と飲み物を買いに行って帰ってきても、まだ時間が余っていた。久しぶりに、土曜日が長かった。
ライブがあれば朝から時間を気にする。電車の時刻を見て、持ち物を確認して、会場へ行けばリハーサルが待っている。今日は何もない。座椅子に寝転がったままでも誰にも怒られず、それは悪くなかった。
夕方になり、テレビ画面の端に出ている時刻へ目が止まった。六時を過ぎている。今日の出演予定は、確かこのくらいだった。
今ごろなら、もう会場にいる。リオはまだ振付の気になるところを確認しているかもしれない。ナツは水を飲みながら喉を気にしている。アンは鏡の前を占領して、レイに早くしろと言われている。
ひよりは開けた菓子袋へ手を入れた。指先が空を掴んだ。全部食べていた。
「……ないんだった」
袋を丸める。テレビの中では、主人公が大勢の仲間と戦っていた。ひよりは続きを再生した。
*
月曜になれば、普通に会社があった。火曜も同じだった。机に座り、届いたメールを確認し、頼まれた資料を直す。昼休みには同僚が週末に行った店の話をしていた。
「榎本さん、土日何してた?」
「家にいました」
「珍しくない? 最近いつも何かあるって言ってたじゃん」
「ああ」
ひよりは弁当の蓋を閉じた。
「今週はなかったので」
「たまには休まないとね」
「ですね」
そこで別の話へ移った。ひよりは机の下でスマートフォンを開く。グループチャットは静かなままだった。
入力欄を押す。ごめん。頭には浮かんだ。何について謝るのか、自分でも一つに決められなかった。
仕事を受けたことではない。それはやりたかった。アンも、仕事をするなとは言っていなかった。なら、抜けると言ったことか。ナツにまた答えを求めたことか。
考えている間に昼休みが終わった。ひよりは一文字も打たず、画面を閉じた。
*
水曜日、定時で会社を出た。駅まで歩いて改札を通り、いつもの電車に乗った。降りた駅で階段を上がり、乗り換えのホームへ向かいかけて、ひよりは足を止めた。
「……あ」
人の流れが左右からひよりを抜いていく。この先の電車に乗れば、いつもの時間に練習場へ着く。今日、練習はない。分かっていた。金曜日に佐伯から直接言われている。それでも会社を出てからここまで、一度も考えずに来た。
「何してんだろ」
小さく言った。踵を返す。反対方向のホームへ向かった。
水曜のこの時間に家へ帰るのは、いつ以来だろう。思い出そうとして、やめた。
*
夕食を済ませて部屋へ戻っても、まだ八時前だった。鞄を床へ置いたところで、スマートフォンが震える。佐伯からだった。例のダンス動画について、先方から候補日が来ている。
カレンダーを確認する。片方なら仕事が終わってからでも間に合った。
――こっちなら大丈夫です。
送る。少しして返事が来た。
――了解。確認するわね。
やりたくないとは思わなかった。どんな曲なのか。どんな振付なのか。自分のところだけ、どう変えていいと言われるのか。考えると、やっぱり少し楽しみだった。
自分一人に来た仕事もやりたい。そこは金曜から変わっていない。
スマートフォンを置いて部屋を見回したが、何となく落ち着かなかった。ひよりは机に両手を掛け、壁際まで押した。空いた床を見れば、踊れる場所がある。一人で踊りたいときは、昔からこうしていた。
スマートフォンを立てかけ、選んだのは『フライング・ハート』だった。
イントロに合わせ、足幅を小さくして動き始めた。ステージと同じ距離は取れなくても、身体は振付を覚えている。一歩踏んで腕を動かし、向きを変える。
サビへ入る前、ひよりは無意識に半歩引いた。リオが前を横切るところだった。
誰も来ない。
「……あれ」
曲は進む。そのまま続けた。次。
ナツが前へ入るところで、身体が後ろへずれた。中央を空ける。もちろん誰もいない。慌てて一歩戻った。
アンと並んで腕を伸ばすところで横を見た。壁しかなかった。そのまま振付が遅れた。
「もう」
ひよりは再生を止めた。曲を最初へ戻す。
「一人なんだから」
もう一度踊るときには、意識して場所を空けなかった。リオが入る拍でも動き続け、ナツが前へ出るところでも退かない。アンがいるはずの側まで、大きく腕を伸ばした。
誰ともぶつからないし、誰にも合わせなくていい。音だけを追い、好きなように動ける。前は、そういう時間が好きだった。
「一人でも踊れるし」
誰もいない部屋で口にした。実際、踊れた。振付も忘れていない。間違えても誰にも迷惑を掛けない。
なのに、二番へ入る前に足が止まった。曲だけが先へ進む。ひよりは数秒そのまま立っていた。
「……何これ」
ひよりはスマートフォンまで歩き、曲を止めた。部屋が静かになった。
壁際へ寄せた机を見る。この部屋で一人で踊ること自体は、何も珍しくない。机をどければ場所ができる。音を流せば身体も動く。前からできた。
ひよりは床へ座った。グループチャットを開く。何も増えていなかった。
*
金曜日。会社を出たひよりは、今度は間違えずに家へ向かった。駅の途中にあるゲームセンターの前を通る。入口近くのクレーンゲームに、丸い犬のぬいぐるみが増えていた。ひよりは一度通り過ぎてから、少し戻った。
「リオ、好きそう」
スマートフォンを出す。写真を撮ろうとして、やめた。何となく、そのまま送るのは違う気がした。ポケットへ戻す。
家へ帰り、夕食を食べ、風呂へ入った。気づけば九時を過ぎていた。いつもなら練習が終わっている頃だった。水曜と違い、今日は最初から分かっていた。それでも時計を見た。
*
次の土曜日。今度は昼前に起きた。アニメを見た。本を読んだ。昼を食べた。やることは普通にあった。
それなのに、夕方になると何度もスマートフォンへ手が伸びた。グループチャットを開いては閉じる。
アルノアの話が止まったことは、もちろん気になっている。メジャーデビューできるかもしれなかった。自分から行きたいと言った場所だった。でも、それより先に頭へ浮かぶのは、水曜と金曜、それから週末のことだった。毎週、当たり前みたいに三人へ会い、リオと踊り、ナツの歌を聞く。アンとはどうでもいいことで言い合い、レイに早くしろと追い立てられて、佐伯にまた何か言われる。その次の週も、同じようにあると思っていた。
ひよりはグループチャットの入力欄を押した。
――ごめん。
打ってから、しばらく見る。消した。もう一度、指を動かす。
――また四人でやりたい。
そこまで打った。指が止まる。
四人でやってきたのに、抜けるときだけ一人で決めるの?
リオの声が戻ってきた。
ひよりは文字を消した。三人がどうしたいのかは、まだ聞いていない。自分が決められるのは、自分のことだけだった。少し考えてから打つ。
――水曜、話したい。
送信した。続けて、
――私は行く。
送る。画面は静かなままだった。ひよりは、もう何も打たなかった。スマートフォンを伏せた。




