第51話 もう私、まとめるの疲れた
木曜の昼休み、ひよりはスマートフォンを机の下で開いた。佐伯からメッセージが来ている。昨日話したダンス動画の仕事について、今日中に返事が欲しいという内容だった。画面を見たまま、親指が止まる。
やりたい。そこは昨日から変わっていない。別のアーティストの曲を一人で踊る。決められた振付を覚えるだけではなく、一部分は天野まひるらしく変えてほしいとも言われた。聞いた瞬間、やってみたいと思った。
グループチャットを開く。
――昨日の仕事、受けていい?
そこまで打って、指が止まった。
それ、あたしに決めさせないで。まひるの仕事でしょ。昨日のアンの声が戻ってくる。
ひよりは打った文字を全部消した。佐伯との画面へ戻る。少し迷ってから、
――やります。
送信した。すぐに既読がつく。
――了解。先方に返すわね。
それだけだった。ひよりはスマートフォンを伏せた。思っていたより、簡単だった。
*
金曜。鏡の前で、四人の腕が同時に上がった。まひるが中央から右へ抜ける。空いた場所へリオが入り、その後ろをアンが通った。ナツが歌いながら前へ出る。誰かが前へ出れば、残りの三人が形を変える。もう何度も合わせた振付だった。
「リオ、そこちょっと早い」
曲を止めたナツが言う。
「どこ?」
「アンと入れ替わるところ」
「私?」
アンが振り返った。
「アンじゃなくてリオ」
「分かってる」
「今アン見たじゃん」
「位置確認しただけ」
壁際にいたレイが手を叩いた。
「はい、そこだけもう一回。言い合うなら踊ってから!」
「言い合ってない」
「それ水曜も聞いた気がする」
レイに言われ、アンが口を閉じる。リオも元の位置へ戻った。
曲が流れると、今度はリオとアンの入れ替わりが合った。ひよりはその後ろを通り、ナツの歌に合わせて身体を返した。そのまま最後まで通して止まると、鏡にはきれいに揃った四人が映っていた。
「今のよくない?」
ひよりが聞く。
「さっきよりは」
リオが答えた。
「それ褒めてる?」
「直ったって言ってる」
「じゃあ褒めてるか」
「そうなる?」
アンがペットボトルを取る。
「まひる、都合よく受け取るよね」
「いい方に考えた方がよくない?」
「時と場合による」
「難しいなあ」
ナツが笑った。
「はい、休憩。五分ね」
いつもの練習だった。水曜、少し変な空気のまま別れたことまで、なかったことにできそうだった。
「そういえば、まひる」
佐伯が声を掛けた。
「はい」
「昨日の件、返事しといたわよ。向こうもよろしくって」
「あ、はい」
「日程はレイに送るから、会社の予定だけ確認しといて」
「分かりました」
ひよりが頷く。隣でアンが水を飲んだ。
「決めたんだ」
「うん」
「自分で?」
「自分で」
「へえ」
「何、その反応」
「別に」
「また別にって言った」
「うるさい」
ひよりは少し笑った。
「水曜に言われたし」
「何を?」
「自分の仕事でしょって」
「……まあね」
「だからやる」
口にしてみても、気持ちは変わらなかった。
アンも、
「うん」
と頷いた。リオがタオルで首を拭く。
「いいと思う。まひる向きだし」
「ありがとう」
「ダンスの仕事だもんね」
アンのペットボトルが止まった。ひよりは気づかなかった。
「公開されたら、また知る人増えるでしょうね」
佐伯が何気なく言った。
「向こうの公式にも出るんだし」
「増えるでしょ」
アンが答えた。リオがそちらを見る。
「いいじゃん」
「いいって言ってるじゃん」
少しだけ、声が硬かった。リオの眉が寄る。
「じゃあ何でそんな言い方するの?」
「どんな言い方?」
「今の」
「普通だけど」
「普通じゃないでしょ」
アンがペットボトルを床へ置いた。
「またそれ?」
「またって何」
「水曜もそうだったじゃん」
「水曜はナツが止めたから終わっただけでしょ」
「終わってるじゃん」
「終わってないから今こうなってるんじゃないの?」
アンの目が細くなった。
「ていうかさ」
「何?」
「リオって、まひるのことになると全部『実力だから』で済ませるよね」
リオの表情が変わった。
「またそれ?」
「前から思ってるから言ってんの」
「関係ないでしょ」
「あるじゃん」
「何が?」
「まひるがセンターならいい。まひるに仕事来ても当然。何かあっても、まひるなら――」
「今回の仕事はダンスで呼ばれたんでしょ」
リオが遮った。
「だったらまひるに来るの普通じゃん」
「分かってるよ」
「じゃあ――」
「分かってるって!」
アンの声が練習場へ響いた。レイが顔を上げた。佐伯もこちらを見る。アンは一度口を閉じたが、もう引かなかった。
「まひるに仕事来るのが悪いなんて言ってない」
「じゃあ何なの?」
「だから……」
言葉が止まる。アンが苛立ったように髪を掻き上げた。リオは黙って待っている。その待ち方まで気に入らなかったらしい。
「じゃあ、まひるが仕事断ればいいの?」
「違う!」
「じゃあ何?」
「羨ましいんだよ!」
ひよりは顔を上げた。リオも何も言わなくなった。
「悪い?」
「……悪いなんて言ってない」
「私だって売れたいよ!」
アンの声はもう戻らなかった。
「数字も欲しいし、個人の仕事だって欲しい。『シュガー・ステップ』撮ったの私だし、投稿だってずっとやってきたし、それでリトルフレア知る人増えたのは嬉しかったよ!」
一度息を吸う。
「まひるに仕事来るのだって、いいことだと思ってる」
アンがひよりを見る。
「うん」
「でも羨ましいもんは羨ましいじゃん!」
何も返せなかった。
「あたしだって、星川アンだからって仕事来てほしいよ!」
静かになった。空調の音だけが聞こえる。ひよりは床へ目を落とした。
水曜より分かりやすかった。アンは、自分に仕事をするなと言っているわけではない。それくらいは分かった。なのに、分かったところでどうすればいいのかが分からない。
「じゃあ」
自分の声が思っていたより小さかった。三人がこちらを見る。
「私、その仕事やめる」
「違う」
リオが即座に言った。
「だからそういう話じゃないって!」
アンの声も重なる。ひよりは二人を見た。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「だから――」
「仕事やったらアンは羨ましいんでしょ」
「羨ましいよ。でもそれで辞められたら余計嫌なんだけど!」
「何で?」
「何で分かんないの!」
「分かんないから聞いてるんじゃん!」
自分の声まで大きくなった。ひよりは口を閉じた。また余計なことを言った気がした。けれど、黙ったら何も分からない。
リオを見る。アンを見る。二人とも、もう同じ話を続けられる顔ではなかった。最後にナツを見た。
「ナツさん、どうしたらいい?」
ナツの目が、ひよりへ向いた。すぐには返事がなかった。
「……知らないよ」
「え?」
「私だって分かんないよ」
今度は三人とも黙った。ナツが持っていたタオルを床へ置いた。
「なんで毎回、最後は私なの」
「ナツさん?」
「リオとアンが揉めたら私が止めて、アンが言ってることをリオに説明して、リオが言ってることをアンに説明して」
リオが何か言おうとした。ナツはそちらを見なかった。
「まひるが分かんなくなったら、今度は私に『どうしたらいい?』って聞くの?」
「……ごめん」
「今、謝ってほしいんじゃない」
ひよりは口を閉じた。ナツが一度、顔を上げる。
「たまには私が聞きたいよ」
声が少し掠れた。
「『どうしたらいい?』って」
月曜の夜。酔った電話の声が、遅れてひよりの頭へ戻ってきた。ナツは続けた。
「私も歌の仕事やりたいって水曜言ったよね」
「うん」
「あれ、私の話だったんだけど」
ひよりは何も言えなかった。
「私だって売れたいし、歌いたいし、自分のこと考えたいよ」
ナツがリオとアンを見る。
「なのに、また二人の話まとめるの?」
今度こそ誰も声を出さなかった。
ナツは少し俯いた。それから、吐き出すように言った。
「もう私、まとめるの疲れた」
アンの怒った顔が消えた。リオも動かない。誰もナツへ近づかなかった。
ひよりは自分の手を見る。
自分の仕事から始まった。自分がまた知られる話になった。リオとアンが喧嘩した。ナツまで疲れたと言った。
だったら。
「じゃあ……私が抜ければいい」
リオが顔を上げた。アンもこちらを見る。
「私がいなかったら、こういう仕事で揉めないし」
「まひる」
「人気の差も今ほどないし。リオとアンだって――」
「それ、一番勝手じゃない?」
リオの声で止まった。
「え」
「何でそこで、まひるが一人で抜けるって決めるの?」
「だって私がいたら――」
「そういうところだよ」
「何が?」
「勝手に振付変えたときと同じ」
ひよりの顔が固まった。
「それとは違うよ」
「違わない」
リオも引かなかった。
「自分でこっちがいいって決めたら、一人でそっち行くじゃん」
「でも今回は、みんなのために――」
「それもまひるが決めてるでしょ」
返せなかった。
「四人でやってきたのに、抜けるときだけ一人で決めるの?」
「私、まひるに抜けろなんて一回も言ってないから」
アンが言った。さっきまでの怒鳴り声より低かった。
「仕事するなとも言ってない」
「でも……」
「でもじゃない」
アンは顔を背けた。
「勝手にあたしのせいにしないで」
「そんなつもりじゃ」
「知らない」
アンはそれ以上言わなかった。
ひよりはナツを見る。ナツも何も言わない。助けを求めかけて、やめた。もう、ナツに聞いてはいけない気がした。
「今日は終わり」
佐伯の声がした。四人がそちらを見る。佐伯は怒鳴っていなかった。いつものように腰へ手を当ててもいない。
「レイ、今日はここまで」
「うん」
「今週末のライブ、四人は出さない」
「え?」
アンが振り返った。
「ちょっと待って」
「待たない」
「ライブはできるじゃん」
リオが言う。
「さっきだって普通に踊れてた」
「踊れてたわね」
「じゃあ何で」
佐伯はリオを見る。
「今のあんたたちを、アタシはステージに出したくない」
リオが黙った。
「来週の水曜も金曜もなし」
今度はナツが顔を上げた。
「練習も?」
「なし」
「アルノアは?」
アンが聞く。
「返事しない」
「でも向こう待ってるんでしょ」
「待ってもらう」
佐伯はそれだけ言った。
「今日のところは帰りなさい」
誰も動かない。
「帰る!」
声が少し強くなった。レイが先に壁際へ向かった。
「ほら。荷物持って」
ひよりは床の鞄を拾った。リオが黙って靴を履き替えるそばで、アンは上着のファスナーを乱暴に上げていた。三人が帰る支度をする間も、ナツだけが最後まで鏡の前に残っていた。
「ナツさん」
呼んだ。ナツが振り返る。何を言うつもりだったのか、自分でも分からなかった。
「……何でもない」
「そっか」
それだけだった。
*
建物を出ると、夜の空気が冷たかった。いつもなら四人で駅まで歩く。途中で誰かがコンビニへ寄り、アンがまた余計なものを買って、ナツが酒の棚を見て、リオがゲームセンターの入口を気にする。
今日は誰も同じ方向へ歩かなかった。
「じゃ」
アンが最初に離れた。
リオも、
「お疲れ」
とだけ言った。ナツは少し遅れて歩き出した。誰にも声を掛けなかった。
一人で建物の前に残ったひよりは、振り返って練習場の窓を見た。さっきまでいた場所なのに、もう音は聞こえなかった。
水曜も金曜も、来なくていい。その言葉だけが、今になって重くなった。次にここへ来る日が、分からなかった。




