第50話 一人の仕事
その日の夜、ひよりのスマートフォンが震えた。布団へ入った直後だった。画面には、ナツの名前。ひよりは時計を見た。日付が変わっている。
「もしもし」
『まひるぅ』
出た瞬間に分かった。
「酔ってます?」
『酔ってないよ』
「酔ってる人の声です」
『ひどくない?』
「何飲んだんですか」
『ちょっと』
「何を」
『ちょっとお酒』
「種類を聞いてるんですけど」
『細かいなあ』
向こうで、何かをテーブルへ置く音がした。ひよりは枕へ頭を戻した。
「明日仕事じゃないんですか」
『仕事だよ』
「寝た方がいいですよ」
『まひるに言われたくない』
「何でですか」
『夜更かしするじゃん』
ひよりは黙った。
『ほら』
「今日はもう寝ようとしてました」
『今日はね』
「何なんですか」
ナツが笑う。十九歳だと信じていた頃なら、まず酒を飲んでいること自体に引っかかっていた。二十二歳だと分かった今は、問題が別にある。時間を考えずに電話してくる。
『ねえ』
「はい」
『四人だって』
ひよりは瞬きをした。さっきまでいたFRAME WORKSの事務所が浮かぶ。私たちが欲しいのは、天野まひるさんではありません。欲しいのは、リトルフレアです。
「言ってましたね」
『四人がいいんだって』
「うん」
『聞いた?』
「隣にいましたから」
『よかったねえ』
「ナツさんもいたでしょ」
『いたよ』
「じゃあ知ってるじゃないですか」
『そうなんだけどさあ』
ナツの声が少し遠くなった。
「ナツさん?」
返事の代わりに、小さく笑う声が聞こえた。ひよりがスマートフォンを耳へ寄せ直すと、ナツの声が近くに戻った。
『もう一回、言って』
「何をですか」
『四人がいいって』
「……四人がいいって、言ってましたよ」
『うん』
それで満足したように、ナツがまた笑った。ひよりは口を閉じた。自分も嬉しかった。グラニスから話が来たときも、メジャーという言葉には胸が動いた。けれど、今日は違った。最初から四人だった。
『私さ』
「はい」
『たまにはさあ』
珍しく言葉が途切れた。
『「どうしたらいい?」って聞く側やりたい』
「聞けばいいじゃないですか」
『誰に?』
「私とか」
『まひるに?』
「嫌なんですか」
『答え変だからやだ』
「失礼ですね」
ひよりは起き上がった。
「じゃあリオとかアンに聞けばいいじゃないですか」
『リオは真面目に考えすぎる』
「アンは?」
『正論で殴ってくる』
「じゃあ誰に聞くんですか」
『いない』
「自分で全員消したじゃないですか」
ナツが声を上げて笑った。
『まひる面白いねえ』
「酔ってるからです」
『ねえ、今度さ――』
もう話が変わっていた。今日帰りに買ったつまみが高かったとか、レイが最近差し入れをけちっているとか、まったく別の話が続く。ひよりは途中から相槌だけ返した。十分ほどして、
『じゃ、おやすみ』
「はい。ちゃんと寝てください」
『まひるもね』
「寝ますよ」
『アニメ見ないでね』
「見ません」
『ほんとに?』
「切りますよ」
『おやすみー』
通話が切れた。ひよりは暗くなった画面を見る。
「……どうしたらいいって、何を」
本人に聞く前に話は終わっていた。スマートフォンを枕元へ置く。
数秒後、枕元でまた震えた。画面にはナツの名前がある。ひよりはしばらく、それを見つめていた。
「……また?」
出ないでおこうか迷った末に、通話ボタンを押す。
「もしもし」
『まひるぅ』
「さっき話したでしょ!」
*
水曜。練習場へ入ったナツは、何事もなかったような顔をしていた。ひよりは靴紐を結びながら、その横顔を見る。
「ナツさん」
「何?」
「月曜の夜」
「月曜?」
「二回電話してきたの覚えてます?」
ナツの手が一瞬止まった。
「知らない」
「覚えてるじゃん」
「知らない」
「今止まった」
「準備して」
「はい」
ナツはそれ以上こちらを見ず、レイが曲を流すと、鏡の前へ広がる三人に加わった。ひよりが中央へ出て、次にナツ、リオ、アンと前を替わる。ひよりも三人の動きに合わせて場所を移った。誰か一人だけが真ん中に残り続ける形では、もうない。
間奏へ飛び込んだリオが一歩目を強く踏んだ。ぴたりと止まる。その後ろで、ひよりたち三人も形を作った。
「もう一回」
リオが言った。
「今のでよくない?」
アンが鏡越しに返す。
「最後、私が早い」
「見てなかった」
「見てよ」
「自分のとこ見てた」
「じゃあ動画撮る?」
ナツが壁際を見た。
「あ、私撮ります」
ひよりが手を上げる。
「まひるも踊るの」
「そっか」
「何しに来てるのよ」
レイが呆れた声を出した。ひよりが元の位置へ戻ったところで、
「はい、ちょっと止めて」
佐伯の声がした。曲が止まる。
「まひる、いい?」
「私?」
「そう」
ひよりは肩で息をしながら佐伯のところへ行った。三人も何となく寄ってくる。
「みんな聞いてていい話?」
「むしろ聞いてて」
佐伯がスマートフォンを持ち上げた。
「前から来てた話なんだけどね」
「前から?」
「『シュガー・ステップ』が広がった頃から、まひるに個人で踊ってほしいとは言われてたの」
アンの目が少し動いた。
「今回の動画の話が具体的になったのは最近よ。ちょうどグラニスの話が来て、そのあとアルノアも来たでしょう。返事は少し待ってもらってたの」
佐伯がスマートフォンを持ち直す。
「別のアーティストの新曲で、公式のダンス動画を出すんですって。それに天野まひるとして出てほしいって」
ひよりは一度、自分を指した。
「一人で?」
「一人で」
「踊るんですか?」
「ダンス動画なんだから踊るわよ」
「確認です」
「何をどう間違えると思ったのよ」
アンが横から佐伯の画面を覗こうとした。
「誰の曲?」
「まだ発表前」
「有名?」
「今は言わない」
「ケチ」
「外でぽろっと喋る子には言いません」
「喋んないし」
「ほんとに?」
「たぶん」
「ほら」
佐伯はスマートフォンを胸元へ戻した。
「振付そのものは向こうで用意する。ただ、一部分だけ、まひるらしく動きを変えてほしいって」
「私が?」
「そう。あんたの踊り方込みで声が掛かってる」
「へえ」
思わず声が出た。
「何、その返事」
アンが言う。
「いや」
ひよりは自分の手を見る。ライブでもない。リトルフレアの四人でもない。天野まひる一人へ来た仕事だった。少し前なら、それだけで居心地が悪くなったかもしれない。今は違う。
「やってみたい」
口から先に出た。三人を見る。
「あ」
「何で言ったあと見るの」
アンが言う。
「いや、一応」
「一応何」
「みんな、どうかなって」
リオが先に答えた。
「いいんじゃない?」
ナツも頷く。
「まひる向きだと思う」
アンも、
「やればいいじゃん。普通に」
と返した。誰も嫌そうには見えなかった。ひよりは佐伯を見る。
「じゃあ、やりたいです」
「返事はまだしなくていいわよ」
「でもやりたいし」
「日程とか確認してから」
「はい」
「返事は明日まで待ってもらってるから」
佐伯がレイに呼ばれ、その場を離れる。ひよりも元の位置へ戻ろうとした。
「これ」
アンが言った。
「向こうの公式にも出るんだよね」
佐伯が振り返る。
「もちろん」
「名前も?」
「天野まひるで出るでしょうね」
「そっか」
アンはそれだけ言った。
「何?」
リオが聞く。
「別に」
「今、何か考えたでしょ」
「これ出たら、またまひる知る人増えるなって思っただけ」
ひよりは少し笑った。
「増えたらいいね」
「うん」
アンも頷く。
「いいことだよ」
それで話が終わったように見えた。アンは鏡の前へ戻りかけて、足を止めた。
「こうやってさ」
三人が見る。
「まひるに仕事来て、まひるが出て、そこでまたまひる覚える人が増えたら」
一度言葉が途切れる。
「次の仕事も、またまひるに来るんだよね」
リオが眉を寄せた。
「それって悪いこと?」
「悪いって言ってない」
「じゃあ何?」
「だから……」
アンが止まった。すぐには続きが出てこない。
「ダンス見て来た仕事なら、まひるがやればいいでしょ」
リオが言う。
「まひるに合ってるじゃん」
「分かってるよ」
「じゃあいいじゃん」
「だから、いいって言ってるじゃん!」
アンの声が少し大きくなった。レイがこちらを見る。アンも気づいた。
「……何で私が反対してるみたいになんの」
「そう聞こえるから」
「してない」
「じゃあ――」
「はい」
ナツが二人の間へ入った。
「そこで続けるとまた長くなる」
「ナツが止めた」
ひよりが言う。
「止めるよ」
「また喧嘩してる?」
「してないし」
アンがすぐ返した。
「してる人、だいたいそう言うんだよね」
「前もそれ言った」
「前もそうだったから」
少しだけ空気が緩んだ。ナツが二人を交互に見る。
「アンが言ってるのは、まひるに仕事するなって話じゃなくて――」
そこで言葉が止まった。アンが続きを待つ。リオも。ひよりもナツを見る。ナツは一度だけ口を閉じた。
「……まあ」
髪を耳へ掛ける。
「私も、歌の仕事なら一人でやりたいけどね」
アンがナツを見る。リオも何も言わない。
「やりたいんですね」
ひよりが聞いた。
「やりたいよ」
「初めて聞いた」
「聞かれてないもん」
ナツはそれだけ言って、自分の位置へ戻った。
「ほら。練習するよ」
今度は誰の言葉も説明しなかった。リオが鏡の前へ戻る。アンも少し遅れて立ち位置へ入った。
ひよりは自分の場所へ戻った。レイが曲を頭へ戻す。
「次、止めないからね」
「はい」
音が始まり、ひよりは中央へ出た。ナツへ場所を渡して下がり、次にリオ、その次にアンが前へ出るのを鏡で見た。さっきまでと同じ振付を、誰も間違えずに踊った。
曲の終わりで四人が同時に止まる。鏡の中の形は、きれいに揃っていた。
*
練習後。ひよりは床に置いていた鞄を持ち上げた。リオは少し先でレイと話している。ナツはペットボトルの残りを飲んでいた。アンが上着を着る。
「アン」
「何」
ひよりは少し迷った。やりたい。さっき口にしたときから、それは変わっていない。
「私、やるって返事していい?」
アンの手が止まった。
「何で私に聞くの」
「いや……」
「リオにもナツにも聞くの?」
ひよりは二人を見る。リオがこちらを見た。ナツも。
「聞こうかなって」
アンが小さく息を吐いた。
「それ、あたしに決めさせないで」
ひよりは黙った。アンは鞄を肩へ掛ける。
「まひるの仕事でしょ」
そのまま先に扉を開けた。




