第49話 欲しいのはリトルフレア
「今日のライブ、四人とも見させてもらいました」
男が言った。アンが手元の名刺へ目を落とす。
「アルノア・ミュージック……」
さっきより小さな声だった。ひよりは隣から名刺を覗こうとした。
「有名なところ?」
「有名だよ。……本人の前で聞く?」
アンは後半だけ声を落とし、名刺を胸元へ引き寄せた。
「知らないまま、知ってる顔するのも変じゃない?」
「あとで聞けばいいでしょ」
ひよりは向かいへ目を戻した。小声のつもりだったのに、男と目が合ってしまった。男が笑ったので、ひよりは慌てて姿勢を正した。
「すみません」
「いえ」
佐伯は何もなかったような顔で立っている。外の人間と話すときの、いつもの佐伯だった。
「今日はご挨拶だけです」
男が続けた。
「もしよろしければ、改めてお時間をいただけませんか。佐伯さんと、メンバーの皆さんにも」
「もちろんです」
佐伯が答える。アンの目がまた名刺へ落ちた。
「全員ですか?」
ナツが横からアンの腕を軽く叩いた。
「アン」
「何。確認しただけじゃん」
男は気を悪くした様子もなかった。
「はい。できれば皆さんに来ていただきたいです」
「分かりました」
佐伯が頭を下げる。男も四人へ一礼した。
「突然失礼しました。またご連絡します」
四人も頭を下げた。男が廊下を歩いていく。イベントスタッフとすれ違い、そのまま角を曲がった。姿が消えた。
「ねえ」
アンがすぐ佐伯を見る。
「何よ」
「これ、どういうやつ?」
「どういうやつって?」
「前と同じ?」
その一言で、少しだけ空気が変わった。グラニス・レコード。四人で初めてもらったメジャーの話。そして、四人で断った話。
「まだ何も聞いてないわよ」
佐伯が言った。
「話したいってだけ」
「でも四人全員って言った」
「言ったわね」
「じゃあ――」
「予想大会しない」
佐伯がアンの額を指で押した。
「痛っ」
「今日はライブ終わったばっかりでしょうが。着替えて、片づけて、帰る!」
「子供じゃないんだけど」
「十七歳でしょうが」
「関係ないし」
アンが額を押さえたまま睨む。ひよりは笑った。その横で、リオが小さく言った。
「四人、か」
ひよりはそちらを見る。リオはもう前を向いていた。
*
数日後、ひよりは会社の鞄を足元へ置き、FRAME WORKSの事務所でアルノアの担当者と向かい合っていた。前にグラニスの人が座った椅子に、今日はあの日の男がいる。
アンの前には、会場でもらった名刺が置いてあった。アンはその端に指を掛け、向かいで話す佐伯たちをじっと見ていた。
「アン、今日全然喋らないね」
小声で言うと、アンは顔だけをこちらへ向けた。
「……今はいいから」
ひよりは口を閉じた。アンはもう担当者の方を見ている。からかったつもりではなかったのに、何か余計なことを言った気がした。
リオは背筋を伸ばし、ナツもテーブルへ両手を置いて話を聞いている。ひよりは膝の上で指を組み、もう少し深く椅子へ座り直した。いつもの服でいつもの事務所にいるのに、ステージへ出る前より落ち着かなかった。
「それで、先日のお話ですが」
佐伯が言うと、担当者は四人へ向き直った。
「こちらとしては、メジャーデビューを前提に、リトルフレアの皆さんと具体的なお話をしたいと考えています」
また、メジャーの話が来た。ひよりの胸が弾んだ。前には、それだけで三人の顔を見て笑ってしまった。今は隣を見ても、アンもリオも向かいを見ている。ひよりも口を開かず、その先を待った。ここまでは、前と同じだった。
「先日のライブを見て、決めました。もちろん、現時点ではPRISMIAさんの方が完成度も、知名度も、動員も上です」
「はい」
リオがすぐに答えた。ひよりが横を見ても、リオは担当者を見たままだった。
「ただ、そこだけでは見ていません。私が一番気になったのは、誰か一人が前へ出ても、残りの三人が背景に見えなかったことです」
リオの目がわずかに動いた。
「誰かが歌えば、そこを見る。誰かが前へ出れば、そこを見る。でも次の瞬間には、また別の人を見たくなる」
担当者は四人を見渡した。
「四人でいるときの方が、それぞれが強く見えるグループだと思いました」
ひよりの口元が緩みかけた。あの日、リオが前へ出たときに見た赤い光まで浮かんだ。ナツも少し笑っていた。アンだけはまだ、口元を引き結んでいる。
「現状、一番知られているのが天野さんなのは間違いありません。『シュガー・ステップ』がありますし、ライブでも青が一番多い。天野さんを入口に知る人は、今後も多いと思います」
アンが顎を引いた。ひよりは膝の上で組んだ手に力を入れた。センターと言われたときは嬉しかった。今もやってみたい。それなのに、自分の名前が出るたび、隣のアンが気になってしまう。
「じゃあ、センターもまひるで固定ですか」
アンの声は、それまでより強かった。
「アン、聞き方」
ナツが小声で言うと、アンは一度だけそちらを見た。
「だって、また同じだったら……」
言いかけて、アンは唇を結んだ。それでも担当者の方へ向き直り、返事を待った。指先では名刺の角をつまんでいる。佐伯も口を挟まなかった。
「固定するつもりはありません。曲やパートに合わせて、前に出る人を変えていきたいです。映像でも、その人の見せ場をちゃんと追う形で考えています」
リオが口を開きかけ、それから、はっきりと頷いた。ひよりはその顔を見た。前に自分がセンターと言われたときも、リオは嬉しそうだった。今はひよりを見ずに、担当者の言葉を聞いている。
「先日のライブで、天野さんを見ていた方が瀬名さんを見て、水瀬さんを見て、星川さんを見ていました」
ひよりは、自分が横へ抜けたあとにナツの声が伸びたところを思い出した。客の声が少し薄くなり、歌が聞こえた。自分を見ていた人も、ナツの方を向いていた。
「そこまで含めて、リトルフレアだと考えています」
ナツがテーブルへ置いていた手を膝へ戻した。ひよりと目が合うと、今度は隠さずに笑った。ひよりも笑い返しかけたが、担当者がこちらを見たので向き直った。
「ですから、私たちが欲しいのは、天野まひるさんではありません」
自分の名前だった。ひよりは不思議と嫌ではなかった。
「欲しいのは、リトルフレアです」
誰もすぐには声を出さなかった。アンは名刺から手を離し、自分の膝へ置いた。口元がゆっくりと緩んでいく。
それから、ほんの少しだけ前へ身体を傾けた。
「……四人ですか?」
「はい」
担当者は頷いた。
「四人です」




