第48話 まだ負けてる
翌週の土曜日。池袋のライブホールへ入ったひよりは、舞台袖の隙間から客席を覗いた。前方から後方まで人が入り、奥の一段高い場所にも客が立っている。PRISMIAのタオルやペンライトが目立つ中に、青、赤、黄、紫も散らばっていた。前だけではない。
「リオ、赤、後ろにもあるよ」
「見えてる」
「さっきからずっと見てるもんね」
「まひるもでしょ」
「私は客見てるだけ」
「同じじゃん」
そう返しながらも、リオは客席から目を離さなかった。前のワンマンでは、何度も名前を呼ばれていた。自分から欲しがった前の位置に立ち、赤いペンライトも声も受け取った。それでも今日は、表情が少し硬い。ひよりは隣へ寄った。
「緊張してる?」
「してる」
今度は否定しなかった。
「珍しい」
「失礼だな」
「前はしてないって言ってたじゃん」
「前は、どれくらい違うか知らなかったから」
ひよりも客席へ目を戻した。夏の暑い日だった。まだ空の明るい大型フェスで、リトルフレアの出番にも客はいた。声も返ってきたし、ライブが終わったときには手応えだってあった。
そのあとPRISMIAが出てきた。広い客席が、一気にあの三人のものになった。何が違うのかもよく分からないほど、違った。そのとき隣にいたリオは、ひより以上に黙ってステージを見ていた。
「今日はさ」
「何?」
「前より近いといいね」
リオがこちらを見る。
「近くするんでしょ」
「あ、そうだった」
「他人事みたいに言わないで」
「言ってないよ」
後ろからアンが顔を出した。
「二人とも、レイさん呼んでる」
「今行く」
リオが幕から離れる。アンも一度だけ客席を覗いた。
「増えたね」
「何が?」
「うちら目当て」
ひよりが笑うと、アンはすぐに続けた。
「でも向こうも多い」
「見れば分かるってやつ?」
「今日はもう分かってるでしょ」
「分かってる」
前と同じ相手を見る。今度は、ただ圧倒されるためではなかった。
*
廊下でPRISMIAの三人とすれ違った。
「お疲れさまです」
ミアが先に笑った。
「お疲れさまです」
四人も返す。レナがリトルフレアの衣装を見てから言った。
「この前の渋谷サーキット、動画見ました」
アンの顔が少し上がる。
「見たんですか?」
「はい。『シュガー・ステップ』、客席も一緒に踊ってましたよね」
「やってました」
アンの返事が早い。ユイはナツを見る。
「サーキットの切り抜きも見ました。ナツさんの歌、すごく通ってました」
「ほんとですか?」
「はい」
ナツが嬉しそうに笑った。ひよりはリオを見る。リオは普通に三人へ挨拶している。夏のときのように、返事が一拍遅れることもなかった。けれど三人が通り過ぎると、小さく息を吐いた。
「やっぱ緊張してるじゃん」
「今のは違う」
「何が?」
「もう行くよ」
リオは先に歩いた。アンがひよりの横で小さく笑う。
「分かりやす」
「ね」
「聞こえてるから」
前から声が飛んできた。
*
今回も出演順はリトルフレアが先だった。
「続いては――リトルフレア!」
「リトルフレアー!」
歓声が返る。ひよりは一歩目を踏み出したところで、思わず顔を上げた。大きい。ワンマンより広い会場なのに、声が薄くなっていない。
「まひるー!」
「リオー!」
「ナツー!」
「アンー!」
四人の名前が、それぞれ違う場所から飛んできた。前方の声へ少し遅れて、後ろからも重なる。リオが一瞬だけ客席の奥を見る。そのまま最初の位置へ入った。音が始まる。四人で踏み込んだ。
ひよりは正面の青を見たあと、横へ視線を滑らせる。赤いペンライトを二本持った女性がいた。前のワンマンで、リオの間奏を褒めていた人だ。その少し後ろにも赤。こちらは知らない顔だった。
リオが前へ出る。強く床を踏み、身体を切り返した。次の音で止まる。
「リオー!」
赤い光が大きく揺れた。リオの顔が変わる。もう一度声を欲しがるように、客席へ手を伸ばした。
「リオー!」
今度は別の場所からも飛んできた。リオが笑う。ひよりも少しだけ口元を緩めた。
あの夏、リオはPRISMIAのステージを見ながら、誰が前へ出ても残りの二人が消えないことを気にしていた。それから何度も、四人の形を直してきた。まひるが大きく動きすぎれば位置を戻し、アンがカメラへ顔を向ければ残り三人の角度まで見る。ナツの歌を聴かせたいところでは、自分の動きを少し引く。そして今は、自分が前へ出たいとも言う。
リオが中央へ入るのに合わせ、ひよりたち三人は左右へひらいた。今、一番目に入るのは赤だ。その赤を見ながら動いても、四人の形は崩れない。リオが一瞬だけひよりへ目を向け、すぐに次の位置へ移った。
*
二曲目が終わると、アンがマイクを上げた。
「まだ声出るー?」
「おー!」
前方から返る。タンクトップくんの声が、やっぱり一番大きい。アンが片手を耳へ当てた。
「前だけ?」
今度は、前列の声に少し遅れて後ろからも返事が来た。アンの眉が上がる。
「いるじゃん!」
客席が笑った。さらに奥の、一段高くなった場所へ腕を伸ばす。
「そこー!」
ほんの一瞬、間が空く。
「おー!」
返ってきた。前ほど大きくはない。揃ってもいない。それでも一人ではなかった。いくつもの声が重なっている。
ひよりが笑う。ナツも笑っていた。リオは客席の奥を見たまま、ほんの少しだけ口元を上げた。
「じゃあ全部!」
アンが煽る。
「まだいけるー!」
「おー!」
今度は前と後ろが重なった。タンクトップくんだけではない。ひよりがまだ顔を覚えていない客まで声を出している。その返事を受けたアンが笑い、次の曲を告げた。四人も位置へ戻る。リオだけが最後にもう一度、客席の奥を見ていた。
*
「最後です!」
ナツが言った。
「えー!」
客席から声が上がる。ひよりは笑った。夏に聞いたPRISMIAの声なら、もっと大きかった。今だって、おそらく向こうの方が大きい。それでも今日は、比べるより先に嬉しかった。
「『フライング・ハート』!」
イントロが流れる。初めてステージに立った日の曲。ひよりは最初の位置へ入った。青い光の横で、赤、黄、紫も揺れている。
四人で腕をひらくと、客席から同じ動きが返った。前列だけではない。その後ろでも腕が上がり、奥では少し遅れて誰かが真似をした。
サビへ入り、ひよりは移動しながら客席を見た。口を動かしている人がいる。そこだけではなく、別の場所からも途中で声が重なってきた。少し早い人も、一部分しか歌えない人もいて、歌詞は全部揃っていない。それでも、ステージの四人とは別の声が聞こえた。
客が歌っている。リトルフレアの曲を。
足が少し軽くなり、ひよりは右を見た。ナツも気づき、歌いながら目をわずかに大きくしていた。アンは客の口元を追い、リオは振付を崩さなかった。
最後のサビへ入る直前、リオの顔が客席の奥へ向く。赤い光を持った女性が歌っていた。その隣にも、口を動かしている人がいる。リオの口元が上がった。
最後の音で、四人の動きが止まる。
「ありがとうございました!」
歓声が返ってきた。名前が飛ぶ。四人で頭を下げた。
*
袖へ戻る途中、リオが足を止めた。
「どうしたの?」
ひよりが聞く。リオはまだ客席を見ている。
「今、歌ってたよね」
「聞こえた?」
「聞こえた」
ナツが後ろから答えた。
「途中だけだったけど」
「でも歌ってた」
アンも笑っている。
「結構いたよ。前だけじゃなかった」
「見てたの?」
「見るでしょ」
「歌いながら?」
「まひるに言われたくない」
レイが後ろから四人を押した。
「はい、喜ぶの楽屋! 次来るから!」
「分かってます!」
ひよりは押されながら笑った。リオも歩き出す。けれど、楽屋へは入らなかった。袖の端へ寄る。
「見るの?」
「見る」
返事は誰より早かった。アンとナツも結局、その横へ並ぶ。ひよりも入った。司会者がマイクを上げる。
「続いては――PRISMIA!」
歓声が膨らんだ。ひよりは、夏のときほど身体を固くしなかった。
それでも大きい。自分たちの登場より、まだはっきり大きかった。前だけではない。後ろから返る声の厚さまで違う。レナ、ユイ、ミアがステージへ出る。三人とも普通に笑っていた。レナが中央に立った瞬間、客席の視線が集まる。
リオは三人を見ていた。夏と同じように、レナだけを追ってはいない。レナが前へ出ると、その後ろでユイが次の位置へ入る。ミアが端へ走り、客席へ手を伸ばす。リオの視線が順番に動いた。
「やっぱり上手いね」
ひよりが言う。
「うん」
「前より分かる?」
リオは少し考えた。
「前より、どこ見ればいいか分かる」
「何それ」
「前は全部すごく見えたから」
ステージから目を離さない。
「今は、何してるか少し分かる」
ひよりも三人を見る。レナが前へ出れば、そこが一番目立つ。ユイが歌い始めれば、客席の視線がそちらへ動く。ミアが端の客を煽れば、遠い場所でも腕が上がった。誰か一人が前へ出ても、残った二人が背景にはならない。
ステージではミアがマイクを上げた。
「後ろまでいけるー?」
間を置かず、後方から大きな返事が戻った。続けて反対側へ身体を向ける。
「そっちもいける?」
また返る。今度は呼ばれていない側からまで声が飛び、ミアが笑った。
「そっちもいるじゃん!」
客席にも笑いが広がる。
自分たちにも今日は、後ろから声が返った。アンが一度呼び、少し待てば、ちゃんと返ってきた。PRISMIAでは、その待つ時間がほとんどない。リオはステージだけでなく、ときどき客席へも目を動かしていた。夏には、三人の動きを追うだけで精一杯だった。今は、自分たちの客席を思い出しながら見ている。
*
「『君色シグナル』!」
最後の曲名が告げられただけで歓声が上がった。
「やっぱこれすごい」
アンが言う。
「まだ始まってないのにね」
ナツも客席を見る。イントロの途中から、何人も口を動かしていた。そしてサビへ入る。歌声が重なった。前方だけではない。後ろからも、横からも、同じ歌詞が飛んでくる。さっきの『フライング・ハート』で聞こえた声とは、まだ比べものにならなかった。
ひよりは悔しいと思った。けれど、自分たちの曲でも歌ってくれた人がいたことを覚えている。
小さかった。途切れていた。知らない人の方が多かった。それでも、ゼロではなかった。夏には見えなかった差が、今日は見える。
リオはステージと客席を交互に見ていた。レナが前へ出たとき、どれだけ声が増えるか。ユイが歌ったとき、客がどう反応するか。ミアが手を伸ばした先から、どれだけ早く返事が来るか。ひよりはもう話しかけなかった。リオが何を見ているのか分かった。
曲が終わり、歓声が押し寄せた。PRISMIAの三人が頭を下げても、リオは最後まで手を止めずに拍手していた。
*
終演後。四人は楽屋へ戻る途中で、まだ開いている客席の扉の前を通った。撤収を待つ人が少し残っている。リオが足を止めた。アンも止まる。
「どうだった?」
リオはすぐには答えず、客席を見た。赤いペンライトを持っていた女性と、黄色の女性。眼鏡くんも、タンクトップくんも、鉢巻くんもいる。その近くを、PRISMIAのタオルを肩に掛けた客が通っていった。
「まだ負けてる」
リオが言った。アンは何も返さない。ナツも黙っていた。ひよりだけが聞く。
「でも?」
リオがこちらを見る。
「何で続きある前提なの」
「顔」
「どんな顔」
「前と違う」
リオは少しだけ困ったように笑った。それから、もう一度客席を見る。
「……まだ、負けてる」
同じ言葉だった。でも、ひよりには一回目と同じには聞こえなかった。さっき客席から聞こえた『フライング・ハート』の歌声を、ひよりも覚えている。リオも、その歌声を聞いて袖で足を止めていた。
「おーい、四人とも」
少し先から佐伯に呼ばれた。
「何?」
アンが先に返す。佐伯の隣には、見覚えのない男性が立っていた。スーツ姿で、首からイベントの関係者証を下げている。
四人が近づく。男性が名刺を出した。
「突然すみません。アルノア・ミュージックの者です」
アンの目が一瞬だけ大きくなる。佐伯は外向けの顔のまま、四人を順番に紹介した。男性はリオ、ナツ、アン、ひよりへ一人ずつ目を向け、それから言った。
「今日のライブ、四人とも見させてもらいました」




