第47話 四人を見に来た
翌週の日曜、新生リトルフレアになって初めてのワンマンライブを迎えた。この公演は、グラニス・レコードから話が来るより前に決まっていた。告知もチケット販売も、とっくに始まっている。だから今日は、メジャーの話とは関係ない。関係ないはずなのに、ひよりはさっきから三度目の客席を覗いていた。
「まひる、もう閉めて」
後ろからレイに言われた。
「あとちょっと」
「一分前も聞いた」
「増えてるかもしれないじゃないですか」
「一分で何人増えるのよ」
黒い幕の隙間から、ひよりはもう一度だけフロアを見る。いつもの対バンより少し広い会場で、前方から中央まではかなり埋まっていた。眼鏡くんの少し横ではタンクトップくんが誰かと話していて、離れた場所には鉢巻くんもいる。
一番多いのは青だった。そこは見ればすぐ分かる。青の間に赤、黄色、紫が混じり、まだペンライトを点けずに友達と話している人もいた。そして後ろには、まだ空間が残っている。
「後ろ、空いてるね」
隣からアンの声がした。いつの間にか一緒に覗いていた。
「うん」
「もっと入る」
「入るね」
「何で嬉しそうなの」
「だって、前もっと少なかったじゃん」
「前よりはね」
アンはそう言って、もう一度だけ客席を見た。
「二人とも!」
ナツの声が飛んできた。
「レイさん本気で怒るよ」
「もう怒ってる!」
ひよりとアンは同時に幕から離れた。リオは少し離れたところで足首を回していた。ひよりはその隣へ行った。
「リオ、見た?」
「見たよ」
「赤あった」
「……あったね」
「結構あったよ」
「分かってる」
「嬉しい?」
「嬉しいよ」
「顔普通だけど」
「今から出るんだから放っといて」
少しだけ早口だった。ひよりが笑うと、リオは一度こちらを見て、すぐ前へ向き直った。
会場の照明が落ちた。壁の向こうから上がった声が、身体の奥まで響いてくる。ひよりは肩を回した。
「今日ってさ」
三人が見る。
「最初から最後まで、うちらを見に来た人なんだよね」
「だからワンマンでしょ」
アンに言われ、ひよりは幕の方を見た。さっき話していた人たちの顔が浮かぶ。自分たちの出番が終わっても、次のグループを待つ人はいない。
「言葉は知ってたけど。顔見たら、急に緊張してきた」
「さっきまであんなに嬉しそうだったのに?」
「嬉しいよ。だから、最後まで楽しかったって言ってほしい」
アンが幕へ目をやった。その手が少しだけ伸び、レイに見られていることに気づいて引っ込む。
「私までまた見たくなるじゃん」
「もう出るよ」
リオが二人の前へ入った。ひよりはその背中を見て、足の位置を揃えた。
「先、行って。ちゃんとついてくから」
リオが振り返り、少しだけ笑った。
「そっちは心配してない」
舞台袖の向こうで、グループ名が呼ばれた。四人で走り出す。照明が一気に顔へ当たった。
「リトルフレアー!」
歓声の中から、
「まひるー!」
という声が抜けて聞こえた。やっぱり大きい。青い光も一斉に揺れている。けれど、それだけではなかった。
「リオー!」
「ナツー!」
「アンー!」
別々の場所から三人の名前も飛んできた。ひよりは顔を上げた。赤もある。黄色もある。紫もある。全部こちらを向いていた。
イントロが始まり、四人は同時に動き出した。
*
ライブの中盤。次の曲へ入る前に、ひよりは一度だけ三人を見た。水曜の練習では、試しにひよりをずっと中央へ置いて踊った曲だった。
あの日、いつもの交代する形へ戻して一度踊り終えると、ナツがひよりを呼び止めた。
「間奏の前、まだ私、歌ってるよ」
「声、早かった?」
「うん。最後に重なってる」
ひよりは間奏へ客席を誘うつもりで、歌の終わりに「いくよ!」と声を入れていた。腕も大きく上げて、リオが前へ出るところを一緒に盛り上げたかった。
「勢いつくと思ったんだけど」
「つくけど。私、あそこは最後まで聴いてほしい」
ナツは困ったように笑ったが、言い直しはしなかった。隣ではリオが、間奏の一歩目を踏み込んでいた。膝を曲げ、向きを変える手前で身体を止める。
「私も、ここ、もうちょっと止めてみたい」
「次、遅れない?」
「間に合う。まひるは私が向き変えてから、腕上げてみて」
ひよりは鏡の中で腕を動かした。自分も一緒に大きく動く方が、賑やかで楽しい気がする。リオはまだその姿勢で、鏡に映る自分を見ていた。
「止まってるところも見てほしいんだよね。すぐ流れちゃうから」
もう一度、ナツの歌から合わせた。今度は掛け声を入れずに聴くと、最後の音が伸びきったところでリオの靴底が床を鳴らした。踏み込んだ身体がぴたりと止まる。もう動くと思ったのに、まだそこにいる。ひよりは鏡の中で、その姿から目を離せなくなった。
リオが鋭く向きを返したところで、ひよりも腕を大きく開く。ずっと動いているときより、その一振りが気持ちよかった。
「今の、もう一回やろう」
ひよりが言うと、リオは口元を少し緩めた。ナツも頷き、歌い出す位置へ戻った。
今、三人がそれぞれの位置へ開く。前へ出る人は、曲の中で変わる。
歌い出しはひよりだった。青い光が大きく揺れ、「まひるー!」と名前が飛ぶ。そのまま客席へ手を伸ばすと、前列から腕が返り、少し遅れて後ろでも同じ動きが上がった。真ん中は、やっぱり楽しい。グラニスの話をしていたとき、センターをやってみたいと言ったのは嘘ではなかった。
ひよりは大きく腕を振る。客席も動く。その中に、青いペンライトを持った女性がいた。何度か見たことがある。こちらをまっすぐ見ながら、一拍遅れて同じ振りを返している。
次のパートへ入る。ひよりが横へ抜けると、代わりにナツが前へ出た。歌声が伸びた瞬間、客席の声が少しだけ薄くなる。静かになったわけではない。聴いている。
前方には、いつもの黄色が見えた。以前、別のグループを見に来ていて、ナツの歌を聴いてから何度も戻ってくるようになった女性だ。もうナツも驚かない。歌いながら一瞬だけ目を合わせると、女性が笑う。ナツもそのまま笑い返し、次の音を伸ばした。
ひよりは移動しながら、さっきの青いペンライトを見つけた。光は青のままだった。けれど、持っている女性はもうひよりを見ていない。
ナツを見ていた。ひよりはマイクを下げたまま、伸びる声を聴く。高い音が最後まで抜けると、女性がペンライトを持ったまま空いた手で拍手した。ひよりは一瞬そちらへ目を取られ、それから自分の位置へ戻った。
曲は間奏へ入る。ナツが下がるのと入れ替わりに、赤が中央へ飛び込んだ。リオが一歩目を強く踏み込み、音に合わせて身体を止める。ひよりは腕を胸元に残し、その姿を見る。リオが鋭く向きを返すのに合わせて、ひよりも腕を大きく開いた。視界の端で、ナツとアンの腕も同じ拍にひらく。
「リオー!」
客席から声が来る。リオの目が一瞬だけそちらへ動く。続けて、別の場所からも名前が飛んだ。
踏み込みがさらに深くなる。床を強く蹴った勢いを一瞬で殺し、次の音に身体を合わせて向きを変える。
あの間奏は私が前をやりたい。前よりもっと、やりたい。鏡の前でそう言っていたリオが、今、真ん中にいる。何もおかしくなかった。むしろこの部分はリオを見たくなって、ひより自身も、次の移動へ入るぎりぎりまで目で追っていた。
さっきの青い女性も同じだった。ペンライトの色は変わっていない。それでも顔は、真ん中の赤を追っている。
リオとひよりの視線が一瞬だけ重なった。次の拍で、二人とも別方向へ動く。今度はアンが前へ出た。客席へ向ける顔が変わる。右、中央、左へと順に視線を送り、撮影用カメラの赤いランプを見つけた瞬間だけ、ぴたりと正面を見る。すぐに客席へ戻った。
「まだ声出るー?」
「出るー!」
「足りない!」
「出るー!」
タンクトップくんの声が一つ飛び抜け、その後ろからも声が重なる。アンが笑った。
「じゃあ最後まで出して!」
「おー!」
紫だけではない。赤も黄色も青も上がった。青いペンライトの女性も、空いた手を頭の上へ伸ばしている。
その中で、
「アンー!」
右側から女の声が飛んだ。アンの目がそちらへ向く。一瞬だけ、いつもの笑顔ではない顔になった。見つけた。ひよりにも分かった。
春の渋谷サーキットで、アンの物販へ来ていた女性だ。あの日は、いくつものグループを行き来できるイベントだった。今日は違う。ここにはリトルフレアしか出ない。
「もっと!」
アンが声を投げる。
「アンー!」
女性も返した。アンはそこで満足せず、客席全体へ腕を広げる。
「まだいけるでしょ!」
返ってくる声がさらに大きくなった。曲は止まらない。最後のサビで、ひよりが再び中央へ入る。やはり青が一番多く、名前を呼ぶ声も一番大きかった。そこは変わっていない。
ひよりは両腕を伸ばす。前列から同じ動きが返り、少し後ろでも遅れて腕が上がった。眼鏡くんが青を振っている。その向こうに、さっきの女性もいた。
ひよりが笑いかける。女性も笑う。次の瞬間には、横から前へ出たリオを見る。ナツが歌えばそちらへ顔が動き、アンが煽れば腕を上げる。ひよりが戻ると、またこちらを見る。青は青のままだった。視線だけが、曲の中で四人の間を動いている。
ひよりの口元が勝手に緩んだ。そのまま次の振りへ入る。
最後の音に合わせて四人で形を作ると、歓声が一気に返ってきた。
ひよりは息を切らしながら客席を見る。後ろには、まだ空いている場所がある。それでも前では、赤も、黄も、紫も、青も揺れていた。
*
ライブが終わっても、物販は騒がしかった。ひよりの列が一番長い。そこも変わらない。けれどリオにも、ナツにも、アンにも列ができ、客は四つに分かれていた。
「今日、間奏よかったです」
少し離れたところから声が聞こえた。ひよりは目の前の客へチェキを渡しながら横を見る。リオの前に、赤いペンライトを持った女の子が立っていた。
「ほんと?」
「はい。あそこ、リオちゃん前ですよね?」
「うん」
「めっちゃ好きです」
「……ありがとう」
リオが笑った。ステージでは平気だったのに、今の方が少し照れている。ひよりも笑いそうになった。
「まひるちゃん?」
「あ、すみません」
目の前へ向き直る。青いペンライトを持った男性だった。
「またリオちゃん見てました?」
「見てました」
「やっぱり」
「だって今日すごかったですよね?」
「それ、まひるちゃんに言っていいんですか?」
「何で?」
「一応、まひるちゃんの列なんで」
ひよりは少し考えた。
「別にいいんじゃないですか?」
「いいんだ」
「私も見てたし」
男性が笑った。
「じゃあ言います。リオちゃんの間奏、めっちゃかっこよかったです」
「ですよね!」
思わず声が大きくなり、隣からリオがこちらを見る。
「何?」
「褒められてるよ!」
「誰に?」
「私のファンに!」
「何それ」
アンが吹き出した。
「客取られてんじゃん」
「取られてないよ!」
「嬉しそうじゃん」
「嬉しいよ!」
「ならいいけど」
ひよりは笑いながら、次のチェキを受け取った。
*
少しして、アンの列から声が聞こえた。
「サーキットぶり?」
「え」
女性が目を丸くする。ひよりもそちらを見る。ライブ中に「アンー!」と返していた、あの女性だ。
「覚えてたんですか?」
「サーキットのとき来た人でしょ」
「はい。今日で二回目です」
「一回来たくらいで忘れないし」
アンはチェキへ日付を書いた。
「で、今日は?」
「今日は?」
「何で来たの」
女性が少し考えた。アンは急かさずに待つ。
「今日は、リトルフレア見に来ました」
アンのペン先が、ほんの一瞬だけ止まった。
「そっか」
「はい」
「ライブどうだった?」
「楽しかったです」
「それだけ?」
「厳しくないですか?」
「二回目なんだから、一回目よりちゃんと感想言って」
女性が笑った。
「じゃあ……アンちゃん、前よりいっぱいこっち見てくれた気がします」
「どこいた?」
場所を聞いたアンが頷く。
「見てたよ」
「ほんと?」
「その辺なら見てた」
「やった」
女性が嬉しそうに笑う。アンも少しだけ口元を緩めた。
「三回目も来て」
「営業すごい」
「来ないの?」
「来ます」
「ならいい」
チェキを渡す。女性が列を離れたあと、アンはその背中を二、三歩ぶんだけ目で追った。次の客が来ると、すぐ前へ向き直る。
「次どうぞ」
*
最後の客を送り出した頃には、フロアの照明が全部ついていた。ライブ中には暗くて見えなかった床も、今は端まで見える。柵や案内板を片づけるスタッフの向こうには、後方の空間がまだ広がっていた。アンがそちらを見る。
「やっぱ、まだ入るね」
「入るね」
ナツが答えた。
「結構来てくれたけどね」
「うん。でも入る」
アンは満足したようには言わなかった。リオも後ろを見る。
「次もっと入れよう」
「うん」
ひよりも頷いた。青が一番多く、物販の列も自分が一番長かった。グラニスが見ていたものは、やっぱり嘘ではない。ひよりは片づけられていく四つの机へ目を向けた。どの前にも、ついさっきまで人が立っていた。
「ちょっと、片づける前にこれ見て」
レイがスマートフォンを持って入ってきた。
「何ですか?」
「次の合同イベント。出演表来たから」
四人が集まる。画面を見たリオの顔が、真っ先に止まった。
「……PRISMIA」
ひよりも覗く。本当に書いてある。
「また一緒?」
「うん」
リオの返事は短かった。さっきまで何度も客席から名前を呼ばれていたのに、もう笑っていない。出演日を確かめるように、画面へ少し顔を寄せる。
「いつ?」




