第45話 天野まひる中心で
数日後の金曜、練習が終わったところで、佐伯が扉の前に立った。外へ出る前に羽織ろうと、四人分の上着が壁際の荷物へ重ねてある。練習中は邪魔だった上着も、帰りにはまだ必要だった。
「ちょっと、帰る前にいい?」
床へ座って靴紐を結んでいたアンが、顔だけを上げる。
「何?」
「話があるの」
「怖いやつ?」
「なんで最初から怖がるのよ」
ひよりは鞄へ入れかけていたタオルを止めた。リオも鏡の前から離れ、ナツは飲みかけのペットボトルを持ったまま佐伯を見る。
「四人いるわね」
「見れば分かるじゃん」
「アン、今日いちいち突っかかるわね」
「別に」
佐伯は一度だけアンを見てから、四人へ向き直った。
「レコード会社から、リトルフレアに話が来てる」
アンが立ち上がった。片方の靴紐がほどけたままだった。
「どこ?」
「早いわね」
「どこ?」
「グラニス・レコード」
「え、本当に?」
「本当」
「向こうから?」
「向こうから」
「メジャーの話?」
今度はリオだった。
「そうよ」
誰も続かなかった。部屋が急に静かになった。ひよりは三人を見る。アンは片方だけ靴を履いたまま立っている。ナツはペットボトルを握ったまま動かない。リオは佐伯の顔をじっと見ていた。
「……メジャー?」
口にすると、アンが振り向いた。
「あんた、この前行きたいって言ったじゃん」
「言ったけど、こんなすぐ来ると思わないでしょ」
「私はずっと待ってた」
アンがひよりの方へ一歩来ようとして、ほどけた靴紐を踏んだ。よろけた身体をナツに支えられ、そこで初めて自分の足元を見る。
「……まずそれ結ぼうか」
「今それどころじゃないし」
「転びながら話聞くの?」
アンがしゃがむと、ひよりも鞄を下ろした。もう帰るつもりではいられなかった。ナツが笑いながら、佐伯へ顔を向けた。
「でも、すごいね。向こうからなんだ」
「渋谷のサーキットを見てたみたい。前から動画も追ってたって」
「いつ話すの?」
アンがすぐ聞いた。佐伯が眉を上げる。
「あんた、本当にこういうときだけ早いわね」
「こういうとき遅くてどうすんの」
アンはそう言ってから、リオとナツを見る。最後に、ひより。
「やっとじゃん」
嬉しそうだった。
「何が?」
「四人ともメジャー行きたいって揃った途端に来たんだから」
「私のせいみたいに言わないでよ」
「一番遅かったのまひるじゃん」
「それはそうだけど」
ひよりも笑った。数日前、自分の口から出したばかりの言葉だった。メジャーへ行きたい。四人で。まだその言葉に自分が追いついていないうちに、今度は向こうから近づいてきた。
*
翌週の夜、FRAME WORKSの事務所に四人が揃った。普段は書類や菓子の袋が置かれているテーブルが片づけられ、椅子がきれいに並んでいる。それだけで、いつもの場所ではないように見えた。
「これ、私座っていいやつ?」
「椅子なんだから座っていいでしょ」
アンに言われ、ひよりは端の椅子を引いた。
「何か緊張する」
「今さら?」
「ライブと違うじゃん」
「まだ相手も来てないよ」
ナツが笑う。その隣では、リオがいつもより少しだけ背筋を伸ばしていた。
「リオも緊張するんだ」
「するよ」
「こういうの得意そうなのに」
「こういうのって?」
「大人とちゃんと話すやつ」
「私も大人なんだけど」
「あ、そっか」
「そっかって何」
扉が開いた。佐伯が先に入り、その後ろからスーツ姿の女性が入ってくる。
「お待たせしました。こちら、グラニス・レコードの方です」
佐伯の声から、いつもの調子が一瞬で消えていた。アンが横で口元を押さえる。佐伯が見る。アンはすぐ真顔になった。
「初めまして。今日はお時間いただいてありがとうございます」
女性が頭を下げる。四人も慌てて立ち上がった。
「よろしくお願いします」
リオが先に頭を下げ、三人も続く。座り直すと、女性は四人の顔を順に見た。
「先日の渋谷のサーキット、拝見しました」
「ありがとうございます」
「映像では以前から見ていたんですが、ライブで見ると印象がかなり違いました」
ひよりは少しだけ顔を上げた。
「最初、皆さんのことを目当てにしていないお客さんも多かったですよね」
「多かったです」
アンが答えた。
「次の会場の時間見てる人もいたし、途中で出てった人もいたし」
「そうですね」
女性は頷いた。
「でも、最後はかなり客席が変わっていた」
ひよりにも覚えがある。後ろで腕を組んでいた人が、途中から前を見ていた。ナツが歌ったときに会話をやめた人。リオが前へ出たところで声を上げた人。イベントのカメラへアンが笑ったあと、同じアンへ紫の光を向けた人。そして『シュガー・ステップ』で、初めて腕を動かした人。
「天野さんの動画を知っていた方が、途中からほかの三人を見ているのも印象的でした」
女性が続ける。
「水瀬さんの歌を聴いていたり、瀬名さんのダンスを追っていたり、星川さんの特典会へ行っていたり」
アンの膝の上で、組んでいた指が少し緩んだ。
「映像だけで見ていたときより、四人でいる意味がよく分かりました」
ひよりは三人を見た。あの日、自分を見ていた人が、帰る頃には別の誰かを見ていた。それを嫌だと思ったことはない。むしろ面白かった。自分が知らないところで、四人の見られ方が変わっていく。
女性は手元の資料へ視線を落とした。
「ですので、本題なんですが」
アンの膝が少し動く。
「弊社として、リトルフレアをメジャーで展開できないかと考えています」
メジャー。今度は聞き間違えなかった。数日前、自分で言ったばかりの言葉だ。言ったときには、まだ何の形もなかった。それが今、向かいに座っている人の口から出ている。
アンが先に口を開いた。
「それって」
一度止まる。
「四人で、ですか?」
「はい」
女性は迷わず頷いた。
「リトルフレアとしてのお話です」
「四人とも?」
「もちろんです」
アンの肩から、ほんの少し力が抜けた。ナツも笑う。リオがこちらを見る。ひよりも見返した。
「……すご」
声に出ていた。アンが見る。
「今?」
「今やっと実感した」
「遅いんだって」
「しょうがないでしょ」
向かいの女性が笑ったので、ひよりは慌てて姿勢を戻した。
「すみません」
「いえ。普段もこんな感じなんですね」
「だいたい」
アンが答える。
「誰のせいよ」
「まひる」
「何で私?」
「静かにしなさい」
佐伯に低い声で止められ、四人とも口を閉じた。女性は資料を一枚めくった。
「ただ、最初の売り出し方については、一つ提案があります」
アンの顔から、さっきまでの笑いが少し引いた。
「提案?」
「はい」
女性がひよりを見る。
「まず、天野さんで知ってもらいたいと考えています」
ひよりは自分を指した。
「私?」
「はい。今のリトルフレアには、すでに強い入口があります。『シュガー・ステップ』を見たことがある方、天野さんの名前だけ知っている方は、グループ名を知らない層にもかなりいます」
ひよりにも思い当たる。ライブへ来た初めての客から、
「動画見ました」
と言われることは増えた。サーキットでも、『シュガー・ステップ』が始まった瞬間だけ顔を上げた人がいた。
「なので、最初は天野さんを前に出したい」
アンが口を開く。
「センターも?」
「当面は天野さんで考えています」
返事はすぐに来た。自分の名前とセンターという言葉が並ぶのを聞いて、ひよりは息を止めた。嫌ではなかった。胸の奥が少しだけ熱くなり、横を見た。
リオも驚いた顔でこちらを見ていたが、嫌そうではない。目が合うと、その口元がほんの少し上がった。アンの視線が一度だけリオへ向き、すぐに女性へ戻った。
「センターだけですか?」
「いいえ。最初の宣材や映像、テレビなどでも、天野さんを入口にした方が届きやすいと考えています。個人で受けられる仕事があれば、それも積極的にお願いしたい」
「まひるから」
「基本的には」
アンの返事はなかった。ナツが聞く。
「四人で歌うのは変わらないんですよね?」
「もちろんです」
「でも、最初に見せるのはまひる」
「そうですね」
ナツは小さく頷き、それ以上は続けなかった。
「もちろん」
女性がリオ、ナツ、アンを見る。
「他の三人を軽く扱うという意味ではありません」
「分かってます」
アンが言った。思っていたより早い返事だった。
「さっき、ちゃんと四人を見てくれてたのも分かったし」
「ありがとうございます」
「確認しただけです」
アンは膝の上へ目を落とした。ひよりはその横顔を見た。まず、天野さんで知ってもらう。その言葉には覚えがあった。
水曜の練習場。休憩中に流れていた『シュガー・ステップ』。何となく身体を動かした自分へ、
「今のもう一回やって」
と言ったのはアンだった。アンはスマートフォンを向けて撮り、そのまま投稿した。それで終わらせず、四人でも撮ろうと言った。知られていないなら、まず知ってもらわないと始まらない。そう考えていたのもアンだった。
実際、その通りになった。動画を見た人がライブへ来た。リトルフレアの名前を覚えた。アンのところへ来る人も増えた。間違っていたとは思えない。
「天野さん」
「はい」
女性に呼ばれ、ひよりは顔を上げた。
「センターについて、今ここで返事をいただく必要はありません。契約の話も含めて、四人で考えていただきたいので」
「あ、はい」
少しだけ拍子抜けした。けれど、ほっとしたような、残念なような、自分でもよく分からない。リオがまだこちらを見ている。
「何?」
「今、ちょっと嬉しそうだった」
「私?」
「うん」
「リオもだったよ」
リオが口元を引き締めた。ひよりもつられて唇を結んだが、目が合ったままでは、かえって笑いそうになる。
「今それやる?」
アンが低い声で言った。
「あ、ごめん」
ひよりは前へ向き直った。女性は小さく笑ったあと、資料へ目を戻す。
「サーキットで見ていて、天野さんから入ったお客さんが途中からほかの三人を見ていた。それができるなら、入口を一人にすることは、四人を弱くすることにはならないと思っています」
アンの指が止まった。
「むしろ、四人を知ってもらうために使える」
その言葉も、ひよりには分かった。自分を見に来た人が、帰るときには別の三人を見ている。それは嬉しかった。アン自身も、ずっとそれを狙っていたはずだった。だから、誰もすぐには否定できなかった。
女性は最後に資料を閉じた。
「最初の一年は、天野さんを軸に売るのが一番勝率が高いと考えています」
勝率。その言葉を聞いて、ひよりはアンを見た。アンは数字を見る。再生数も、何人に届いたかも、その伸び方も気にする。こういう話なら、自分よりずっと分かっている。だから何か言うと思った。
アンは何も言わなかった。
怒っているようには見えない。困っているようにも見えない。ただ、さっき「四人とも」と聞いたときに浮かんだ笑顔だけが、もうなかった。
少し前。練習場の扉の前で、ひよりは三人へ言った。四人で。今の話も、確かに四人の話だった。誰も外されない。四人ともメジャーへ行ける。なのに、さっきまでと同じようには喜べなかった。
アンは最後まで、何も言わなかった。




