第44話 私も行きたい
数日後の水曜、ひよりは鏡の中に並ぶ四人を見ていた。赤、黄、紫、青。数日前には、小さなスマートフォンの画面に四人の名前が並んでいた。今は名前ではなく、本人たちがいる。
「まひる、遅れてる」
鏡越しにリオと目が合った。
「あ、ごめん」
「次、右から入るから」
「分かった」
ひよりは一歩下がり、ナツと位置を入れ替えた。アンが前へ出る。リオが横へ抜け、ナツの歌に合わせて四人が同時に腕を上げた。数日前まで、知らない客でいっぱいの会場にいたのが嘘みたいだった。今日の練習場には、ペンライトも歓声もない。鏡と四人だけだ。
「まひる」
「え?」
今度はアンだった。
「顔だけどっか行ってる」
「どこ?」
「知らない。こっちが聞きたい」
「あ」
ひよりは正面へ顔を戻した。ナツが歌いながら笑っている。
「集中しなさーい」
「してます」
「今してなかったじゃん」
「今からする」
「便利だねえ、それ」
最後のサビに入り、ひよりは腕を伸ばした。手首を返して胸元へ戻し、半歩移動してもう一度。同じ動きを繰り返したところで、身体が少し引っかかった。
数日前のサーキットでも、この曲をやった。後ろの方に、別のグループのTシャツを着た男がいた。最初は腕を組んでいた。途中から、こちらを見るようになった。サビへ入ると、周りにつられるように腕を上げた。けれど細かな手首の動きまでは追いつけず、一度止まった。隣の友達を見て、何か言って笑った。それでも、同じ振りがもう一度来ると、また腕を上げようとしていた。
曲が終わる。
「じゃあ、もう一回頭から」
リオがスピーカーへ向かった。
「待って」
三人が振り返る。
「何?」
「あのさ」
ひよりは、さっきの動きをもう一度やった。腕を伸ばし、手首を返して胸元へ戻す。
「ここ、ちょっと変えてみてもいい?」
アンの眉が上がった。
「……今、聞くんだ」
「聞くよ!」
「成長したじゃん」
「そこ?」
ナツが吹き出した。
「アン、やめなって」
「褒めてるし」
「褒め方が嫌なんだけど」
リオだけは、ひよりの手を見ていた。
「どうしたいの?」
「この前、ここで止まってる人いたから」
「誰?」
「サーキットのとき。後ろにいた人」
ひよりは元の振付をもう一度やった。
「これ、最初に見たら難しくない?」
「そりゃ初見で全部は無理でしょ」
アンが言う。
「だから、ここだけ」
ひよりは細かな手首の動きをやめた。代わりに両腕を大きく左右へ開く。一度胸へ戻し、もう一度。
「こうしたら、初めて見た人でもできない?」
アンも座ったまま腕を動かしてみた。
「まあ、分かりやすい」
「でしょ?」
ひよりが音源へ向きかけると、アンは座ったまま片手を上げた。
「待って。まだ私、立ってもやってない」
「座ったままできたなら、できるじゃん」
「まひるの『できる』で決めないで」
ひよりは口を尖らせた。アンはまだ両腕を動かし、自分の身体で確かめている。
リオがひよりの隣へ入った。
「これなら、次の移動を少し遅らせた方がいいかも」
「何で?」
「客が真似した頃には、もう次の振りになってるから」
「ああ」
リオが動いてみせる。両腕を開く。胸へ戻す。もう一度開いて、一拍待ってから右へ移動した。ひよりも隣で合わせる。
「あ、そっちの方がやりやすい」
「四人も揃いやすいと思う」
ナツが二人の後ろへ立った。
「歌いながらでもいけそう。やってみよっか」
「やる」
アンも立ち上がる。
「一回やってから決めるからね」
「分かってるって」
「ほんとに?」
「アン!」
曲を頭から流した。
一度目。
「まひる、開くの早い」
リオが止めた。
「早い?」
「半拍くらい」
「細かい」
「四人でやるんだから細かくなるでしょ」
二度目はナツが止めた。
「ここ、歌の終わりと腕戻すの重なる。もう少し後がいい」
三度目。アンが鏡を見ながら首を傾げる。
「何か広すぎない?」
「広い方が見えるじゃん」
「見えるけど、リオとまひるだけ動きでかい」
「私も?」
リオが自分を指した。
「そう。二人だけ張り切りすぎ」
「まひると一緒にしないで」
「何で!」
「はい、もう一回」
ナツが笑いながら音を戻した。
*
何度か試したところで休憩になった。ひよりは壁際へ座り、ペットボトルの水を飲んだ。リオはまだ鏡の前にいる。さっき変えた部分だけ、一人で確認していた。
「リオ、休憩だよ」
ナツに言われても、
「あと一回」
と腕を動かしている。
「ほんと真面目」
アンは床へ座り、スマートフォンを開いた。ひよりは、その画面を横から少しだけ見た。数日前のサーキットで、自分たちのことを知らない人が何人も客席にいた。途中で出ていった人もいた。最後まで何も持たずに見ていた人もいた。
自分の動画を見て来た客が、ライブのあとナツの列へ行った。あれはまだ少し面白かった。自分を見て来たのに、帰る頃には違う人を見ている。
「ねえ」
三人がこちらを見た。リオも鏡の前から振り返る。
「何?」
ナツが聞く。
ひよりはペットボトルを膝へ置いた。
「メジャーになったらさ」
一瞬、空気が止まった。アンがスマートフォンを少し下げる。
「何?」
「この前みたいな人の前でやること、もっと増える?」
「この前みたいな?」
「私たちのこと知らない人」
ひよりは少し考えた。
「別のグループ見に来てた人とか。たまたま見た人とか」
三人はすぐには答えなかった。最初に口を開いたのはリオだった。
「機会は増えると思う」
「やっぱり?」
「でも、人が多くても見てもらえるとは限らないよ」
「ああ」
ひよりは頷いた。休日のショッピングモールが浮かんだ。あのときも、人はたくさんいた。目の前を何人も通っていった。それなのに、ほとんど誰も止まらなかった。
「だから見てもらうんでしょ」
アンが言った。ひよりがそちらを見る。
「知らない人がいるなら、そっち向かせればいいじゃん」
「簡単に言うね」
「出る前から諦めてどうすんの」
「アンっぽい」
「どういう意味?」
「そのまま」
「何それ」
ナツが笑った。
「でも、今より会える人は増えると思うよ」
「会える人」
「うん。そこから先は、こっち次第だけどね」
ひよりはペットボトルへ目を落とした。サーキットで振付を間違えて、友達と笑っていた人。最初は何も持っていなかったのに、最後には声を返した人。自分の動画を見て来て、ナツの歌を好きになった人。次に会えるかどうかは分からない。もう二度と会わないかもしれない。
「そっか」
ひよりはそれだけ言った。アンが少し怪しむように見る。
「何?」
「何が?」
「急にそんなこと聞くから」
「聞きたくなっただけ」
「ふうん」
アンはまだ何か言いたそうだったが、スマートフォンへ目を戻した。リオが手を叩く。
「休憩終わり」
「もう?」
「十分経ってる」
「早い」
「まひるが喋ってたからでしょ」
「そんなに喋ってないよ」
「喋ってた」
「リオまでそっち側になった」
「そっち側って何?」
ナツが笑いながら立ち上がった。
*
もう一度曲を流すと、リオが前へ出て、ナツがその横を抜けた。アンと左右へ広がりながら、ひよりは最後のサビを待った。
さっき変えたところへ入る。両腕を大きく開き、一度戻してもう一度。鏡の中で、四人の動きが揃った。
今は客席がないのだから、誰も真似してくれない。それでも、数日前の男の腕が浮かんだ。次なら、あの人も一緒にできるかもしれない。
そのあと誰を見るのかは分からない。自分かもしれないし、違うかもしれない。ひよりは鏡に映る三人をもう一度見たが、それは前ほど気にならなかった。
曲が終わる。
「今の方がいいかも」
ナツが言った。
「私もそう思う」
リオも頷く。ひよりはアンを見る。
「アンは?」
「まあ、悪くない」
「じゃあ採用」
「何であんたが決めるの」
「四人中三人いいって言ったじゃん」
「私は悪くないって言っただけ」
「ほぼ同じでしょ」
「違う」
ナツが二人の間へ手を出した。
「じゃあ次のライブで一回やってみよ。そこで変だったら戻す」
「それならいい」
アンが頷く。ひよりも、
「うん」
と返した。
さっき自分一人で始めた動きを、もう四人とも知っている。
*
練習が終わった頃には、外はすっかり暗くなっていた。ひよりは着替えを鞄へ入れ、ファスナーを閉めた。
「今、押し込んだでしょ」
横からリオに言われた。
「畳んだよ」
「最後に押したじゃん」
「入ったからいいでしょ」
「しわになるよ」
アンが靴を履きながら、リオへ自分の鞄を向けた。
「こっちも畳み直してくれる?」
「自分でやって」
「ほら、まひるだけ」
リオはアンを睨んだが、ひよりが鞄を持ち上げようとすると、取りやすいように持ち手を起こしてやった。
「ありがとう」
ひよりが受け取ると、アンがとうとう吹き出した。ナツも笑いながら扉を開けた。三人が先に出ようとする。ひよりも鞄を肩へ掛けた。そこで、足が止まった。
「あのさ」
三人が振り返る。ナツが扉を押さえたまま、
「何?」
と聞いた。
ひよりは口を開いた。すぐには声が出なかった。少し前まで、メジャーなんて自分には関係のない言葉だった。三人が話していても、遠すぎて、自分がそこにいるところを想像できなかった。
次のライブなら分かった。来週も四人で踊りたい。その次も。そうやって続けてきた。気づけば、自分たちを知らない人の前でも踊っていた。
「私も」
三人が待っている。ひよりは鞄の肩紐を握り直した。
「メジャー行きたい」
アンが一度だけ瞬きをした。それから口元が上がる。
「……やっと?」
「何その言い方」
「遅いし」
「だって今まで分かんなかったんだから」
ナツが笑った。リオだけは笑わず、確かめるようにひよりを見ていた。
「ほんとに?」
「うん」
「メジャー、目指すの?」
「うん」
答えてから、ひよりは少し考えた。
「いや、まだ全部は分かってないけど」
アンが吹き出した。
「分かってないんじゃん」
「全部はって言ったでしょ」
「じゃあ、何で行きたいの?」
ひよりは黙った。数日前の客席が浮かんだ。知らないTシャツ。知らない顔。途中まで腕を組んでいた人。それが最後には、こちらを見ていた。
「この前みたいな人」
「何?」
「もっといるんでしょ」
アンが少しだけ目を細めた。ナツは何も言わない。リオも待っている。
「だったら、会ってみたい」
ひよりは三人を見る。部屋で机を壁へ寄せ、一人で動画を真似していた頃。画面の中にいた赤と黄と紫が、今は目の前にいる。一人なら、考えもしなかった場所だった。
「四人で」




