第43話 何で知ったの?
袖へ入った途端、まひるは大きく息を吸った。客席からは、まだ拍手が聞こえている。けれど余韻に浸る暇もなく、すぐに次の出演者を呼び込むMCの声が響き、その向こうで新しい歓声が上がった。
「後ろの人も踊ってた!」
まひるが振り返った。頬に汗が残っている。
「見た? 最後、後ろの方。何も持ってなかった人もやってた」
「見てたよ」
ナツがタオルで首元を押さえながら答えた。
「最初しゃべってた人も、途中からこっち見てたね」
「二番の移動、ちょっと近かったけど」
リオだけは、鏡もないのに自分たちの位置を確かめるように足元を見ていた。まひるが口を尖らせる。
「今それ言う?」
「今だから言うの」
「良かったじゃん」
「良かったのと、次もっと良くするのは別」
「リオだ」
「何それ」
ナツが笑った。アンは三人の横を抜け、袖の端から客席を覗いた。さっきまで自分たちを見ていた人たちが、もう動き始めている。リストバンドをつけたままスマートフォンのタイムテーブルを確かめ、出口へ向かう人。友達と今のライブについて話しながら物販案内を見る人。次の出演者を見るため、そのまま前へ詰める人。
何も買わず、別の会場へ向かうらしい客もいた。あれだけ一緒に腕を動かしたからといって、全員が残るわけではない。
「アン?」
後ろからまひるが覗いた。
「何見てんの?」
「さっき、右の方で踊ってた二人」
「物販来てくれるかな」
「こっちが聞きたい」
「あ、気になってたんだ」
「ちょっと頭どけて。半分見えない」
「さっきから当たり強くない?」
「普通」
アンは袖から離れた。
「物販行くよ」
「急にやる気ある」
「いつもあるし」
*
物販スペースには、いつものライブより明らかに知らない顔が多かった。とはいえ、四人の前へ長い列ができているわけではない。誰のところへ行くか決められず、少し離れた場所から様子を見ている人もいる。次の会場へ行く時間を気にしているのか、スマートフォンを何度も確認している人もいた。
アンは自分の前に来た女性を見て、少しだけ目を止めた。客席の端にいた人だ。友人と何か話しながら見ていたのに、『シュガー・ステップ』では腕を真似し、最後の曲まで残っていた。
「今日初めて?」
「はい」
アンはチェキの余白へ日付を書いた。少し迷ってから、顔を上げる。
「何で知ったの?」
「あ……」
女性の表情が変わった。さっきまで普通にこちらを見ていた目が、ほんの少し泳ぐ。
「……ニュースです」
アンのペン先が止まった。
「ああ」
「すみません」
「何で謝るの」
「いや、その……」
女性が困ったように笑う。アンは手元のチェキへ視線を戻した。テレビに映った自分と、「十七歳のアイドル」「一時、連絡が取れなくなっていた」という言葉が、一度に頭へ戻ってきた。
「そっちなんだ、とは思ったけど」
「……はい」
「で」
女性が顔を上げた。
「今日のライブは?」
「え?」
「見たんでしょ」
「あ、はい」
「どうだった?」
思っていたより、強い言い方になった。女性は一度だけ瞬きをした。それから、すぐには答えず、少し考えた。
「最後の曲の前に、端の方まで見てましたよね」
「誰が?」
「アンちゃんが」
アンは黙った。
「あそこ、私いたんです。ペンライトも持ってなくて。友達について来ただけだったんですけど」
女性は、自分がいた場所を示すように少し横へ手を動かした。
「一回、こっち見て笑った気がして」
「気じゃないよ」
「え?」
「見てた」
女性の目が丸くなった。
「見えてるんですか?」
「そりゃ見えるでしょ」
「ステージからって、客席もっと暗いのかと思ってました」
「暗いけど、人はいるじゃん」
言ってから、アンは自分でも少し変な言い方だと思った。女性が笑う。
「じゃあ、あれ私だったんだ」
「場所そこなら、たぶん」
「なんか、嬉しいです」
アンは出来上がりかけたチェキを取り、空いていたところに小さな紫の星を描いた。
「はい」
「ありがとうございます」
女性が両手で受け取る。
「また機会あったら来ます」
「うん」
相手が列を離れようとしたところで、アンはもう一度口を開いた。
「次来たら、もう初見じゃないじゃん」
女性が振り返る。一瞬きょとんとして、それから笑った。
「はい」
アンは二、三歩離れるまでその背中を見てから、椅子へ座り直した。もう次の客が来ている。
「次どうぞ」
今度も知らない顔だった。
「今日初めて?」
*
「シュガー・ステップの動画見て来ました」
少し離れたところから、その言葉が聞こえた。まひるは自分の前の客へチェキを渡しながら、反射的に顔を上げた。声はナツの方からだった。ナツの前に、若い女性が立っている。
「まひるの動画だよね?」
「はい。最初はそれで知って」
まひるは、私だ、と自分の胸元を指した。声には出していない。女性はそのままナツと話していて、そちらを向かなかった。
「今日初めてライブ見たんですけど、歌、すごくて」
「私?」
「はい」
ナツが自分を指す。
「まひる見に来て、私のとこ?」
女性が笑った。
「はい」
「それは嬉しい」
ナツも笑う。
「じゃあ一枚撮ろっか」
女性がナツの隣へ立つ。まひるはしばらく、そちらを見ていた。
「まひる」
「え?」
目の前から呼ばれた。
「あ、ごめんなさい」
自分の列に、次の客が来ている。
「大丈夫です」
「今、ちょっと」
「ナツちゃんの方見てましたよね」
「見てました」
そこまで答えてから、まひるは慌てて相手へ身体を向けた。
「でもちゃんと今こっち見てます!」
客が笑った。
「それならよかったです」
チェキを撮り終え、客を送り出す。少しして列が途切れたところで、まひるはナツの方へ身体を寄せた。
「ナツさん」
「何?」
「さっきの人、私見て来たのにナツさん行った」
「聞こえてたの?」
「聞こえた」
ナツが少し笑う。
「じゃあ取っちゃった」
「取られた」
「残念?」
まひるは、女性の姿がなくなった方をしばらく眺めてから、ナツへ笑いかけた。
「なんか面白い。私の動画から来たのに、帰るときはナツさんのチェキ持ってる」
「ふふ。よかったでしょ、私の歌」
「そこは自分で言うんだ」
ナツは笑いながら、使っていたペンを指の間で持ち直した。隣からアンが口を挟んだ。
「客取られたみたいな顔すんな」
「取っちゃったって言ったの、ナツさんだよ」
「ずっと目で追ってたくせに」
「どんな顔して帰るか、気になるじゃん」
まひるは口を尖らせて、アンの方へ顔を向けた。
「アン、今日当たり強くない?」
「さっきもそれ聞いた」
リオが自分の列の客を送り出しながら、こちらを見る。
「しゃべってる暇あるなら、次来てるよ」
まひるが前を向いた。本当に一人待っていた。
「すみません!」
慌てて手を合わせる。その人は、青ではなく赤いペンライトを手にしていた。
*
物販を終えて外へ出ても、サーキットはまだ続いていた。朝ほどではないが、三月の風はまだ冷たい。道玄坂を下りる四人の横を、リストバンドをつけた客が何人も逆方向へ歩いていく。スマートフォンの画面を二人で覗き込みながら、今度はどの会場へ行くか話している。
さっき客席にいた人が、この中に混じっているかもしれない。まひるは一度だけ人の流れを振り返ったが、誰かを探す前にアンから呼ばれた。
「置いてくよ」
「待って」
*
帰りの電車でも、アンはスマートフォンを見続けていた。隣にナツ。向かいにリオとまひるが座っている。
「また見てる」
ナツに言われた。
「見るでしょ」
「何が増えた?」
「いろいろ」
画面には、今日のライブ動画や写真、感想が次々流れてくる。
『赤の子、ダンス綺麗だった』
『黄色の子、歌めっちゃ良かった』
『紫の子、カメラ抜かれた瞬間すごい』
以前なら青の話ばかりだったところに、赤と黄と紫がいくつも混じっている。
「リオ」
「何?」
「ダンス褒められてる」
「どれ?」
リオが身を乗り出した。
「これ」
「あ、それ私のことかな」
「赤って書いてあるでしょ」
「他に赤いないじゃん」
「なら聞かないでよ」
そう返されても、リオは少し嬉しそうに画面を見ていた。アンは次へ送る。また別の投稿。さらに下。そこで、数字の大きい動画が出てきた。
「あ」
「何?」
まひるが聞く。
「また青すご」
「何が?」
「今日の切り抜き。あんたのとこだけ伸び方違う」
「見せて」
「近い」
「見えない」
「そっち行けば」
まひるが立ちかけた。その瞬間、電車が揺れた。
「危ない!」
リオの腕がすぐに伸びる。まひるは慌てて吊り革を掴んだ。
「大丈夫」
「大丈夫じゃない。座って」
「はい」
まひるが素直に戻る。アンは画面を見たまま言った。
「リオ、過保護」
「違う」
「早かったね、手」
「転びそうだったからでしょ」
「はいはい」
「アン」
ナツが横で笑いを堪えている。
「何」
「いや、何でもない」
「絶対何かあるじゃん」
「ないない」
ナツが手を振る。向かいのリオは、さっきより少しだけ窓の方を見ていた。電車の走る音へ、四人の声が重なる。アンはもう一度画面を見た。
青はやっぱり強い。今日、四人への感想は増えた。自分の名前も前よりずっとある。それでも、数字だけを並べれば、まひるが一番目立っていることは変わらない。
アンは画面を閉じなかった。自分の名前で検索し、今日の投稿をいくつか開く。さっき物販へ来た女性らしい投稿は見つからない。まだ上げていないのかもしれないし、そもそも何も投稿しない人なのかもしれない。
アンは次へ指を滑らせた。読めない文章が出てきた。
「何これ」
まひるがまた反応する。
「海外」
「分かるの?」
「文字見れば分かるでしょ」
「読める?」
「読めない」
「海外ドラマ好きじゃん」
「字幕で見てんの!」
ナツが吹き出した。アンは投稿を開く。
以前にも、海外から『シュガー・ステップ』を真似した動画はいくつもあった。その頃の投稿は曲名とダンスの話ばかりだったが、今日は違った。
Little Flare。その下にMahiru、Rio、Natsu、Annと四人の名前が並んでいる。
「これ」
まひるが、今度は立たずに向かいの席から目を凝らした。
「何」
「私以外の名前もある」
「あるね」
「リオも」
「ある」
「ナツさんも」
「あるって」
「アンも」
「見れば分かるでしょ」
まひるは黙った。
アンが顔を上げる。
「何?」
「別に」
「何それ」
まひるは窓の外へ一度目を向けた。窓の向こうを、ビルの壁や看板が流れていく。すぐにまた、アンのスマートフォンへ視線を戻した。小さな画面の中に、四人の名前が並んでいた。




