第41話 知らない顔
三月上旬の朝は、まだ冬の方に近かった。渋谷駅を出たアンは、冷たい風に首をすくめてコートの前を閉じた。
「寒っ」
「昨日より寒くない?」
ナツがマフラーへ顎を埋める。
「朝だからじゃない?」
「それだけ?」
「知らない」
「知らないんだ」
後ろからひよりが追いついてきた。
「二人とも歩くの早い」
「まひるが遅いの」
「時間には間に合ったじゃん」
「ぎりぎりだったでしょ」
「間に合ったならよくない?」
アンは振り返った。
「その考えで毎回ぎりぎりになるんでしょ」
「毎回ではないよ」
「結構あるよ」
リオまで入ってきた。
ひよりが何か言い返そうとした横を、派手なTシャツの二人組が早足で追い越した。朝から半袖で、肩にはアンの知らないグループ名が大きく入っている。
その少し前にも、似たような人たちが歩いていた。赤いバッグや大量の缶バッジをつけた鞄の間に、グループ名の入ったタオルが見える。手首にはリストバンド。細かく色分けされた表をスマートフォンへ出し、歩きながら確認している人もいた。
「今日の人かな」
ひよりが言った。
「たぶん」
アンは周囲を見る。駅から同じ方向へ歩いていた三人組が、道玄坂の方へ曲がった。別の二人は宇田川町の方へ進む。少し先では、横道へ入っていく集団もいた。
ひよりは別れていく人たちを見送り、スマートフォンのタイムテーブルを開いた。自分たちの出番がある列の隣にも、さらにその隣にも、同じ時間の枠が並んでいる。
「うちらが出てる間に、こんなにやってるんだ」
「だから目当て決めて回るの」
「こっちの会場へ行った人は、うちら見られないってこと?」
ひよりの指が、隣の列を辿った。
「その時間はね。身体一個しかないから」
「二個あっても足りなくない?」
「何組見る気なの」
「私が見るんじゃなくて、見てほしい方」
アンがひよりを見る。ひよりはまだ不満そうに表の端まで指を滑らせていた。アンは返事をせず、もう一度前を向いた。
人が多い。いつものライブハウスへ向かう朝とは違う。歩いている人のほとんどが、今日は誰かを見るためにここへ来ている。その中に、リトルフレアを見る人もいる。どれくらいいるのかは、まだ分からなかった。
*
リトルフレアが出演する会場は、道玄坂から少し入ったところにあった。入口では、ちょうど前の出演者を見終えた客が外へ出てきていた。その横を、これから入る人たちが地下へ降りていく。
「結構いる」
ひよりが階段の下を覗いた。
「うん」
大阪でも、人はいた。クリスマスの飾りが並ぶ会場には、開場前から客が集まっていた。それでも、受付でリトルフレアの名前を出したのは三人だけだった。今日は何人なのか。アンはレイに聞かなかった。
「あ」
ひよりが声を上げた。
「眼鏡くんいる」
「どこ?」
ナツまで覗き込む。
「あそこ。柱の横」
本当にいた。鞄から青いペンライトが半分覗いている。少し離れたところにはタンクトップくんもいた。今日はさすがに長袖を着ているが、顔を見ればすぐ分かる。鉢巻くんもいる。
「いた」
ナツが別の方向を見た。
「黄色の人」
何度も物販へ来ている女性だった。黄色いペンライトを鞄へ差して、友人らしい人と話している。リオも見覚えのある赤い客を見つけたらしく、口元を少し緩めた。
アンにも紫が見えた。何度も見てきた顔。途中から来るようになった顔。一度来て、また来た顔。知らない場所へ来たはずなのに、その人たちの周りだけはいつもの客席に見えた。
けれど、その外側はほとんど知らない顔だった。違うグループのTシャツ。知らない色。何も持っていない人。アンが名前を聞いたこともないアイドルのタオルを肩へ掛けている人もいる。
「行くよー!」
レイが入口の横から手を振った。
「荷物置いたらすぐ準備! 今日、時間ないからね!」
「はーい」
ナツが返事をし、四人で入口へ向かう。その途中、すぐ横から声が聞こえた。
「青い子がシュガー・ステップの子じゃない?」
アンだけが横目を向いた。二人組の女性がスマートフォンを見ていた。
「あ、この子?」
「そうそう」
画面と、数歩前を歩くひよりを見比べている。ひより本人は気づいていなかった。
さらに少し進むと、今度は男二人の会話が聞こえた。
「リトルフレアって四人なんだ」
「そうみたい」
「青しか知らなかった」
アンはそのまま歩いた。入口の近くでは、別の二人がタイムテーブルを見ている。
「次、間に合う?」
「ここ途中で出ればいける」
「じゃあ後ろいよう」
ひよりが小声で言った。
「途中で帰るんだ」
「次の会場も見たいんでしょ」
「でも、最後のサビまでいてほしい」
「じゃあ、帰りたくなくなるようにやってよ」
ひよりがこちらを向いた。
「アンもでしょ」
「やるよ」
言い返したとき、タイムテーブルを持った二人はもう話をやめていた。こちらを見たのかと思ったが、二人の視線は頭上の案内へ向いている。
そこで後ろから声がした。
「紫って、ニュースに出てた子じゃない?」
アンの足が半歩だけ遅れた。
「ああ、トレンドになってた?」
「たぶん」
振り返らなかった。少し先へ行ったリオが気づく。
「アン?」
「何」
「遅れてる」
「今行く」
アンは歩幅を広げ、三人の横へ戻った。
*
控え場所には人が溢れていた。出番を終えたグループと、これから出るグループが狭い通路ですれ違う。衣装姿の子がスタッフに呼び止められ、来た道を慌てて戻っていった。扉が開くたび、違う曲の音が入り込んでくる。
「荷物そこ!」
レイが壁際を指した。
「貴重品まとめて! 着替えたら一回あたしのとこ来て! あと勝手に外行かない!」
最後だけ明らかにひよりを見ていた。
「私?」
「他に誰がいるの」
「まだ何もしてないよ」
「する前に止めてんの!」
ひよりが鞄を置きながら入口を見る。
「ちょっと客席見てくる」
「ほら!」
「ちょっとだけ」
「今から着替える!」
アンも言った。
「客席逃げないから」
ひよりがこちらを見る。
「アンに言われた」
「何その言い方」
「別に」
「いいから早く着替えて」
「分かってる」
ナツが吹き出した。リオはもう赤い衣装を出している。
「まひる、早くして。本当に時間ないよ」
「はーい」
ひよりがようやく鞄を開ける。アンも紫の衣装を取り出した。着替えを終え、鏡の前で髪を直していると、ナツが後ろから声をかけた。
「アン、ちょっとこっち向いて」
「何」
「肩の飾りねじれてる」
「どこ?」
「触らないで。もっと変になる」
「自分でできるし」
「できてないから言ってるの」
アンは手を下ろした。
「はいはい」
「はいは一回」
「それレイさんのやつじゃん」
ナツが笑いながら飾りを直した。
「はい、できた」
「ありがと」
「うん」
ナツが笑う。
「何」
「何でもない」
鏡へ向き直り、アンは紫の衣装から髪、顔へと目を移した。いつもステージへ出るときと変わらない。そう確かめて、立ち上がった。
「アン、行くよ」
リオが呼ぶ。
「今行く」
*
出番が近づくころには、朝の寒さが嘘みたいだった。会場の中は人と照明の熱がこもり、コートを脱いで腕へ掛けている客もいる。前のグループが最後の曲を歌っていた。客席の前方には、そのグループの色が固まって揺れている。声も大きい。
曲が終わった。拍手の中でメンバーが最後の挨拶をする。ステージから姿が消えた途端、客席が動いた。
「あ」
ひよりが声を漏らす。
前へ詰める人。出口へ向かう人。後ろへ下がる人。入れ替わりに入ってくる人。スマートフォンを見ながら歩く男が、友人へ声をかける。
「次十二時十五分だから」
「ここ途中で出る?」
「そうしよう」
ひよりが眉を寄せた。
「結構出ていくね」
「次の会場でしょ」
アンが答える。
「あと一曲ぶんくらい、いてくれたらいいのに」
「その一曲ぶん、向こうに遅れるじゃん」
「まだうちらの曲、聞いてもないのに」
ひよりは出口へ向かう背中を目で追っていた。もう見えなくなった人まで気にして、袖から少し首を伸ばす。
「全員に足止めてほしいわけ?」
「せっかく同じ所にいるんだから、見てほしいじゃん」
ナツが笑った。
「それはそう」
ひよりは本気らしかった。リオが袖から客席を見る。
「だったら、残ってる人に見てもらえばいいでしょ」
「それはそうだね」
ひよりがあっさり頷いた。
「切り替え早」
アンも客席へ目を向けた。眼鏡くんにタンクトップくん、鉢巻くん。その近くに黄色の女性がいて、赤も紫もある。知っている顔はすぐに見つかった。
その周りには、知らない顔が何倍もあった。別グループのTシャツを着たまま残る人。腕を組んでいる人。次の予定をスマートフォンで確認している人。友達との話をまだ続けている人。
アンは客席の少し後ろで、一人の女性と目が合った。さっき通路でこちらを見ていた二人組の一人だった。紫のペンライトは持っていない。何も持っていない。
女性は一度目を逸らした。隣の友人へ何か言う。それから、またアンを見る。今度はアンも目を逸らさなかった。
「リトルフレアさん、お願いします!」
スタッフの声が飛んだ。
「はい!」
リオが返事をすると、ナツが立ち、ひよりも袖へ寄った。アンは客席から目を戻し、三人の横へ並んだ。その先から司会の声が響く。
「続いては――リトルフレア!」
「リトルフレアー!」
誰より早く大声が飛んできた。タンクトップくんだった。ひよりが笑う。
「いた」
「さっきからいるから」
四人でステージへ出る。
「リオー!」
「ナツー!」
「アンー!」
「まひるー!」
赤が上がる。黄色。紫。青。その外側には、何も持っていない手の方がずっと多い。
アンは客席を見る。いつもの顔。知らない顔。さっきの女性も、まだ残っていた。
スマートフォンを見たままの人もいる。友達と話している人もいる。次の会場へ行くつもりなのか、出口の近くに立っている人もいた。
アンは一歩前へ出た。最初の音が鳴った。




