第40話 帰ってきた
それからしばらく、アンは何もしなかった。スマートフォンは画面を上にしたまま、テーブルの端に置いてある。三人から届いた返信は開いていない。父からの着信も残っている。少し前までなら、まとめて電源ごと切っていた。
アンはグラスの水を飲み切った。薄くなった氷が、底を滑って音を立てる。ヘルメットを抱え、席を立った。
*
原付を走らせているうちに、見覚えのある道へ出た。三月に入っても、夜はまだ冷たい。信号で止まるたび、グローブ越しの指先まで冷えていく。
赤信号で、アンは前を見たままハンドルを握っていた。真っ直ぐ行けば駅の方へ戻れる。右へ曲がれば家だった。
信号が青になってから、少し遅れてウインカーを出した。右へ曲がり、何度も通った道を進む。コンビニを過ぎて住宅街へ入ると、自宅が見えてきた。
明かりがついている。家の前で原付を止めると、急に音が消えた。アンがヘルメットを脱いだところで、玄関の扉が開いた。父が立っていた。髪が乱れている。寝ていたのか、ずっと起きていたのかは分からなかった。
父は何も言わない。アンも動けなかった。ヘルメットを抱え直す。
「……ただいま」
父の口が動いた。
「……おかえり」
それだけだった。アンは俯き、玄関へ入った。靴を脱ぐと、父が横へ避ける。
「佐伯さんに連絡するぞ」
「うん」
「お前からするか?」
アンはスマートフォンを見た。三人からの通知。その下に父からの着信があり、さらに消していない通知がいくつも並んでいる。
「……父さんして」
「分かった」
居間へ入る。父が電話をかけている間、アンは椅子へ座った。
「はい。今、帰ってきました」
少し間がある。
「はい。怪我とかはしてないです。……はい。すみません」
アンはテーブルの木目を見ていた。父が電話を切る。向かいには座らなかった。スマートフォンを置いたあとも、しばらくその場に立っている。
「あのな」
アンが顔を上げた。父はアンではなく、テーブルを見ていた。
「あれは、言いすぎた」
「……何が」
「母さんのところへ行けばいいって」
アンは返事をしなかった。
「悪かった」
謝ってほしかったのか、自分でも分からない。家へ戻ってくる途中、一度もその言葉を考えていなかった。
「……うん」
それだけ答えた。父も、それ以上は言わない。アンは膝の上で指を組んだ。
「私も」
父が見る。
「向こうの方が普通だったとか。あれは……言いすぎた」
「……うん」
また黙った。冷蔵庫の低い音が聞こえる。話しきれていないことは、まだいくらでもあった。大阪で母を見たことも、父と母のことも、自分が何にあれほど腹を立てていたのかも。今ここで全部話したところで、まともな言葉になる気はしなかった。
父も聞かなかった。少しして、
「腹減ってないか」
と聞いた。
「……ちょっと」
「何か食ったのか」
「水」
「それ食ったって言わねえだろ」
「氷もあった」
父がアンを見る。
「もっと言わねえよ」
アンの口元が少し緩んだ。父は冷蔵庫を開ける。
「飯あるから」
「何」
「食うのか食わないのか」
「食べる」
「じゃあ待ってろ」
父が鍋を出して火をつけるのを、アンは椅子に座ったまま見ていた。その背中から目を離せずにいると、しばらくして鍋の蓋が小さく鳴った。
*
次の水曜日。練習場の扉を開けると、鏡の前にはリオ、ナツ、まひるがいた。三人とも同時にこちらを見る。アンは鞄を肩から下ろした。
「……何」
リオが真っ先に歩いてきた。
「何じゃないでしょ」
「来たじゃん」
「連絡くらいして」
「したし」
「『うるさい』の一言だけでしょ!」
「四文字じゃない?」
「そこじゃない!」
ナツがリオの肩を軽く押した。
「リオ、声大きい」
「ナツは怒ってないの?」
「怒ってるよ」
ナツもアンを見る。
「ほんとにもう」
「……ごめん」
ナツの目が少し丸くなった。
「普通に謝った」
「謝ったら悪い?」
「悪くない。ちょっとびっくりしただけ」
「何それ」
まひるだけ、少し離れたところに立っていた。アンが見る。
「何」
「来た」
「見れば分かるでしょ」
「うん」
「じゃあ何なの」
まひるは一度、鏡を見た。
「三人じゃなくなった」
アンは少しだけ黙った。
「……最初から四人だし」
「そうだった」
「忘れんな」
リオが音源の方へ戻った。
「とりあえずやろう」
ナツも定位置へ歩く。
「アン、ほんとに大丈夫?」
「平気」
「その言葉、今は信用ないよ」
「じゃあどうしろっての」
「見れば分かるから踊って」
「それなら得意」
イントロに合わせ、アンはいつもの位置へ入った。リオが中央から外れ、ナツが斜め後ろへ動く。その間を前へ出ようとしたら、右から内側へ入ってきたまひるの肩がぶつかりそうになった。
「ちょっと」
「え?」
まひるが止まる。アンも足を止めた。
「そこ、あたしの場所」
「あ」
リオが音を止めた。まひるは自分の足元を見る。
「ごめん」
ナツが鏡を見た。
「三人の位置のままだ」
「身体がそっち覚えてた」
まひるが一歩外へ戻る。リオも位置を広げ、ナツも元の場所へ戻った。アンは鏡の中を見た。三人だった週末のライブでは、ここを空けないために全員が内側へ詰めていた。今は、その必要がない。
アンは一歩、前へ出た。鏡の中に赤、黄、紫、青の四人が並ぶ。
「最初から」
アンが言った。リオが音源を戻す。
「うん」
イントロが流れた。今度は誰ともぶつからなかった。
*
休憩に入り、アンは鏡の前の床へ座った。ペットボトルを開けると、まひるが隣へ来た。
「アン」
「何」
「あのタグ」
アンは水を飲んだ。
「一位になったの、見た?」
「見た」
まひるが膝を抱える。
「私、あれ……すごいって言っていいのか分かんなくて」
アンはペットボトルを膝へ置いた。
「……あたしも分かんない」
「だよね」
アンはキャップを閉めた。親指でラベルの端を二度擦ってから、言う。
「でも、一位は一位」
まひるがこちらを見る。
「そこは取るんだ」
「取ったもんは取ったでしょ」
少し離れたところで、ナツが吹き出した。
「何」
「いや、アンだなと思って」
「だからそれ何」
リオがタオルで首を拭きながら言う。
「一位は一位でも、連絡しなかった件は別だからね」
「まだ言う?」
「言う」
「しつこ」
「しつこく言う」
アンはペットボトルを口へ運んだ。横でまひるが笑っている。
「何笑ってんの」
「別に」
「それあたしのやつだから」
「そうなの?」
「そう」
*
練習が終わりかけた頃、レイが部屋へ入ってきた。
「ちょっといい?」
手にはスマートフォンがある。四人が集まった。
「今日の昼、こういう取り上げ方されてた」
レイが動画を再生する。聞き慣れた『シュガー・ステップ』が流れた。
「あ、私」
まひるが言った。画面の中で、青い衣装のまひるが踊っている。ネットで話題になったダンス動画から、リトルフレアという名前が紹介される。
映像が四人のライブへ切り替わった。次に映ったのは、アンだった。画面の下に、星川アン、十七歳と出る。先日、一時的に本人と連絡が取れなくなっていたこと。ファンの間から自然に広がった、#アン待ってるよ。紫のペンライトや昔のチェキが映り、三人だけで立ったステージの客席にも紫が残っている。
アンは黙って画面を見ていた。自分の名前が読まれる。顔も出ている。それでも耳へ残ったのは、
『一時的に本人と連絡が取れなくなり――』
という言葉だった。
またアンの写真が出た。
「……もういい」
レイはすぐに再生を止めた。
「ごめん」
「別に。レイが悪いわけじゃないし」
アンは立ち上がり、床に置いていたタオルを取った。誰も続きを再生しなかった。
*
片づけを終える頃、佐伯が練習場へ顔を出した。
「もう一個、話あるんだけど」
アンは鞄へペットボトルを入れながら顔を上げた。
「何」
「今週末、渋谷で大きいサーキットあるでしょ」
まひるだけが首を傾げた。
「サーキット?」
「何か所かで同時にライブやってて、客が見たいところを回るやつ」
アンが答える。
「へえ」
「説明はあとでいいから」
佐伯が話を戻した。
「主催から出演の話が来たわ」
「え?」
ナツが声を上げる。リオも手を止めた。アンは佐伯を見る。
「向こうから?」
「そう」
アンの手が、鞄のファスナーに止まった。
「……今回のことで?」
佐伯はすぐには否定しなかった。
「きっかけにはなったと思う」
さっきテレビから聞こえた声が戻ってくる。
『一時的に本人と連絡が取れなくなり――』
「ただ、それだけじゃない」
アンが顔を上げた。
「『シュガー・ステップ』も見てるし、ほかのライブ映像も何本か確認したって」
「ライブも?」
「そう」
佐伯が四人を見る。
「先方は、リトルフレアに出てほしいって言ってる」
アンは一度だけ瞬きをした。
「……あたしじゃなくて?」
「四人よ」
「四人?」
「四人」
アンは横を見た。さっき鏡の中へ戻ったばかりの三人が、今度は佐伯の前で自分と並んでいる。
「どうする?」
佐伯が聞く。
「出る」
アンは即答した。ナツが横から見る。
「早いなあ」
「出るでしょ」
「まあ、出たいけど」
リオも頷く。
「私も出たい」
まひるが佐伯を見る。
「人、多い?」
「多いわよ。ただし、全員あんたたちを見に来るわけじゃないからね」
「じゃあ余計出たい」
アンがまひるを見る。
「何で?」
「知らない人いるんでしょ」
「いるけど」
「じゃあ見てもらえばいいじゃん」
簡単に言う。アンは少しだけ鼻で笑った。簡単に言うな、と返しかけてやめる。
「決まりね」
佐伯が言った。
アンは鞄を肩へ掛けた。レイのスマートフォンは、もう画面が消えている。黒い画面に、部屋の明かりだけが映っていた。
「今度は」
三人がアンを見る。アンは扉へ向かいながら言った。
「踊ってるところ見てもらう」




