第39話 #アン待ってるよ
窓の外に、見覚えのない駅前の明かりが並んでいた。アンはファミリーレストランの奥の席で、スマートフォンを伏せたまま座っていた。テーブルの端にはヘルメットが置かれ、飲みかけの水には細くなった氷が一つ浮いている。少し離れた席では食器が重なり、人の話し声も聞こえていた。
誰もアンには話しかけてこない。今は、それでよかった。
家を出てから、まともに眠れていなかった。目を閉じると、父の声が戻ってくる。
『そんなに俺といるのが嫌なら、母さんのところへ行けばいいだろ』
アンはストローを指で押した。氷がグラスの底に当たり、からんと鳴る。
スマートフォンが震えた。見ない。少しして、もう一度。
「……うるさ」
それでも手を伸ばした。画面をつけると、着信やメッセージの通知がいくつも並んでいた。父の名前もある。その下には、佐伯とレイ、リオ、ナツ、まひるも入っているグループチャットがあり、未読の数字がついていた。
アンの指が父の名前の上で止まった。開かなかった。
代わりにSNSを押す。誰かと話す気はなかったが、見るだけならいい。画面が切り替わった。上の方に、自分の名前が見えた。
「……何これ」
アンは眉を寄せた。
#アン待ってるよ
押す。一番上に写真が出た。三人のリトルフレアがステージに立っている。赤、黄、青。そこに紫はいない。代わりに、写真の手前では紫のペンライトが何本も光っていた。アンは画面を少し近づけた。
「三人で出たんだ」
連絡を読んでいなかったのだから、知るはずもなかった。
写真を下へ送る。
『また四人で見たい』
『紫振って待ってる』
『アンちゃん帰ってきたらまたライブ行く』
短い文章が続いていた。知らない名前ばかりだった。アンは画面を閉じかけた。そのとき、トレンド欄にも同じ文字があることに気づいた。
#アン待ってるよ
「は?」
かなり上位にいる。アンは画面を更新した。順位が上がった。
「なんで」
数分おいて、もう一度見る。さらに上がっている。投稿数も増えていた。
この増え方なら分かる。自分でショート動画を上げ、何度も数字を追ってきた。シュガー・ステップが伸び始めたときは、嬉しくて何度も更新した。まひるの動画が跳ね、四人版も伸びた。フォロワーが増えて、知らない人がリトルフレアを知った。もっと増えればいいと思っていた。もっと知ってほしかった。
もう一度更新する。アンの指が止まった。一番上。瞬間トレンド一位。
「……」
見間違いではなかった。自分の名前が入った言葉が、一番上にある。一位なんて、取れるなら取りたかった。もっと知られたかった。なのに、何も嬉しくならない。アンは背もたれへ身体を預けた。
「……こんなので一位になるんだ」
数字はまだ増えていた。
タグに並んでいるのは、いつもの客だけではなかった。対バンで見たアイドルの公式アカウントもある。見覚えのある配信アカウントも混じっている。読めない言葉に、紫のハートだけを添えた投稿まであった。
*
少しして、アンはもう一度タグを開いた。全部読むつもりはない。上から何件か飛ばしたところで、指が止まった。
「あ」
見覚えのある紫のペンライト。その横にチェキが置かれている。自分と女の子が写っていた。前に「そんなすぐ忘れないし」と言ったら、「去年ですよ」と訂正してきた子だ。
『今日は紫振った。次は友達も連れてく。アンちゃん、またチェキ撮ろう。#アン待ってるよ』
アンは読み終えても、すぐには指を動かさなかった。
「……ほんとに連れてくる気なんだ」
自分から言った。次は友達も連れてきて。一人増えるじゃん。あのときは笑いながら言い、向こうも笑った。それだけのやり取りだった。
アンは投稿を閉じず、そのまま下へ送る。眼鏡くんやタンクトップくん、ライブで見たことのある客に混じって、知らない名前も増えていた。何件か過ぎたところで、また手が止まる。見覚えのあるアカウントだった。鉢巻くん。
『前のリトルフレアが好きだった。今でもそう』
そこまで読んで、アンの口元が固くなった。
「……じゃあ何」
あの日の言葉まで思い出した。
『俺は、前の方が好きだったかな』
アンは七人の頃にもいた。なのに、自分まで「今の方」へまとめられた。新しく来た側みたいに。まひるのグループの紫。前とは違うリトルフレア。どちらへ行っても、自分だけ中途半端なところにいる気がした。
アンは続きへ目を移した。
『でも今の四人も見てる。次は四人で見たい』
その下に、#アン待ってるよとある。アンの親指が止まった。
「……何それ」
前が好きなら、前だけ好きでいればいい。今も見るなら、前の方がよかったなんて言わなければいい。勝手だ。そう思った。
でも、画面は閉じなかった。
前が好きで、それでも今の四人を見る。そんなのも、ありなのか。アンはスマートフォンをテーブルへ置いた。しばらくして、また取った。
*
SNSを閉じる。最初の画面へ戻った。父の名前はまだある。アンはそこを避け、グループチャットを開いた。家を出た夜からの未読が並んでいた。最初はナツだった。
『アン?』
『電話出られる?』
リオ。
『どこにいるの』
その後も何件か続き、時間が進むほど文章が短くなっていた。
リオ。
『無事なら一言だけ返して』
ナツ。
『返事したくなかったら、既読だけでもいいから』
アンはそこまで読み、少し下へ送った。
まひる。
『今日三人でライブ出た』
さっき写真で見た。次。
『アンのとこ、何回も空けそうになった』
「何やってんの」
アンは小さく言った。さらに下。少し前に届いたらしい。
『次の練習、アンも来るよね』
「勝手に決めんな」
今度は少しだけ声が大きくなった。アンは文字入力欄を押した。
『大丈夫』
打ち込んだ言葉をしばらく見てから、全部消した。大丈夫ではなかった。だから出てきたのに、この三文字を送る気にはなれず、もう一度打ち直した。
『ごめん』
指が止まった。それも消した。今、その言葉だけ送るのも違う気がした。
空になった入力欄をしばらく見る。アンは口を曲げた。指を動かす。
『うるさい』
送信。
「あ」
押してから声が出た。既読が一つついた。すぐ二つ。三つ。
「早っ」
一件返ってきたと思ったら、続けてもう一件。さらに画面が光った。三人とも何か返してきたらしい。アンは開かなかった。
「うるさいって言ってんじゃん」
スマートフォンを伏せたが、また震えた。アンは手を伸ばし、隠したばかりの画面を上にした。
三人からの通知が並んでいる。父からの通知も、消えずに残っていた。
いつものように電源まで切ってしまおうとして、アンの指が止まった。少しだけ、そのままでいる。結局、切らなかった。
テーブルへ置くと、また画面が光った。今度は、そのままにしておいた。




