第38話 アンがいない
金曜の夕方、ひよりが練習場へ入ると、鏡の前にはリオとナツしかいなかった。
「アン、まだ?」
ナツが首を横に振った。
「まだ」
壁際ではレイがスマートフォンを耳に当てている。いつもの大きな声ではなく、「はい」「分かりました」と短く返していた。佐伯も別のスマートフォンを見ている。ひよりは鞄を下ろした。
「連絡、ないんですか」
「ない」
答えたのはリオだった。床に座ったまま、自分のスマートフォンを握っている。
「家にも戻ってないって」
ひよりは何も言えなくなった。父親と喧嘩をして、そのあと家を出たらしい。そこまでしか聞いていない。
レイが通話を終えた。
「お父さんとは連絡取れてる。こっちでやることはやってるから、あんたたちは勝手に探しに行ったりしないでよ」
ナツが顔を上げた。
「お父さん、大丈夫?」
「たぶん寝てない」
レイはスマートフォンを握ったまま、椅子へ腰を下ろした。
ひよりはアンの父親に会ったことがない。それでも、昨日までアンが帰っていた家に、今は父親だけがいるところを想像した。
佐伯がスマートフォンをポケットへ入れた。
「今日は練習やめてもいいのよ」
三人とも返事をしなかった。
「明日のライブも断れるから。無理して出ることないわ」
リオが立ち上がった。
「客、来るんですよね」
「来るわよ」
「じゃあ出ます」
「リオ」
「家帰っても、できることないし」
リオは鏡の前へ歩いた。ナツも立ち上がる。
「三人で出るなら、位置変えないとね」
二人がひよりを見る。
「あ、私も出ます」
「本当に?」
「はい」
佐伯は三人を順番に見てから、息を吐いた。
「分かった。じゃあ今日は、明日の形だけ作りましょ」
四人で使っている曲が流れた。イントロに合わせていつもの場所へ入ると、前へ出るリオと、斜め後ろへ入るナツが見えた。ひよりも右へ動いたが、その先にはいつものように一人分、場所を空けてしまっていた。
「まひる」
「あ」
リオが音を止めた。
「そこ、詰めよう。三人だから」
「うん」
もう一度、最初から。中央へ寄ったリオを見て、ひよりも半歩内側へ入った。ナツも位置を変え、今度はアンの場所を空けないまま曲が進む。
間奏で、ひよりは一瞬だけ前を見た。いつもならアンが横切るところなのに、誰も来ない。リオもその視線に気づいたが、何も言わなかった。
三人で最後まで踊った。曲が止まる。ナツが膝へ手をつき、息を整えた。
「次、二番の移動もう一回やろう」
「うん」
リオが音源を戻す。誰も休もうとは言わなかった。
*
翌日になっても、アンから連絡はなかった。ライブハウスの楽屋には、三人分の衣装が掛かっている。赤。黄。青。ひよりは着替え終えると、ハンガーの並びを見た。
紫はない。持ってきても、着る人がいない。
開演前、FRAME WORKSの公式アカウントから短い知らせが出た。星川アンは今日の出演を見合わせること。現在、本人と連絡が取れていないこと。居場所についての憶測や、目撃情報を広げないでほしいこと。それ以上は書かれていなかった。
舞台袖で、佐伯が三人を見る。
「最後にもう一回聞くけど。本当に出る?」
「出ます」
リオが答えた。
「私も」
ナツが続く。ひよりも頷いた。
「出たいです」
佐伯は三人の顔を見回した。
「分かった。じゃあライブはライブ。ちゃんとやってらっしゃい」
「はい」
スタッフから合図が来た。リオが手を出す。ナツが重ねた。ひよりもその上へ手を置く。誰もすぐには上げなかった。
「行こう」
リオが言った。三人の手が離れた。ステージへ出る。
歓声が返ってきた。
赤。黄色。青。そして、紫。
ひよりは紫の光に目を止めた。一番前ではなく、少し右に一本。その後ろを見ればもう一本あり、さらに離れた場所でも揺れていた。
ステージにアンはいない。それでも客席には紫があった。
ナツが最初の挨拶を終え、少しだけ間を置いた。
「今日は、アンがお休みです」
客席が静かになる。ナツはそれ以上説明しなかった。
「三人ですけど、ライブはやります。最後までよろしくお願いします!」
「おー!」
タンクトップくんの声が最初に返った。拍手が広がる。
一曲目が始まった。
ひよりは昨日直した通り、右へ出た。今度はアンの場所を空けない。リオが中央から外れ、ナツがそこへ入るのを見ながら、ひよりもいつもより内側へ寄った。昨日より自然に動ける三人の形で、サビへ入る。
「リオー!」
「ナツー!」
「まひるー!」
名前が飛ぶ。
少し遅れて、
「アンー!」
客席から声が上がった。ひよりは反射的にそちらを見た。紫のペンライトが、大きく振られている。アンの物販列で何度か見た女の子だった。この前も、アンと笑いながらチェキを撮っていた。今日は一人で紫を振っている。ひよりはその光を見ながら、次の位置へ移った。
二曲目、三曲目と進んでも、三人の歌は止まらなかった。客席も声を返してくれる。タンクトップくんは今日も声が大きい。眼鏡くんは青を振っている。鉢巻くんもいた。
最後の曲の途中、ひよりはいつもの癖で左を見た。何度もアンと目を合わせた場所。今日はステージの床しかない。ひよりは正面へ戻った。その向こうで、紫の光が揺れていた。
曲が終わる。三人で頭を下げた。拍手の中から、もう一度アンの名前が聞こえた。
*
物販が始まっても、紫の机はなかった。赤。黄。青。三つだけ。
ひよりが眼鏡くんとのチェキを撮り終えた頃、少し離れたところでレイが誰かと話しているのが見えた。さっき紫を振っていた女の子だった。タンクトップくんと鉢巻くんも近くにいる。
「アンちゃん、大丈夫なんですか」
レイは少し困った顔をした。
「ごめん。今はまだ、こっちから言えることないの」
「今日来るまで、普通に休みだと思ってて。公式見て……」
女の子が手の中のペンライトを見る。
「何かできることないですか」
タンクトップくんも口を挟んだ。
「俺らも探した方がいいですか。近くだったら――」
「それは駄目」
レイがすぐに止めた。声がいつもより低かった。
「勝手に探しに行かない。場所の予想もしない。見かけたって話があってもSNSに流さないで」
「……はい」
「そういうのは、こっちでやるから」
タンクトップくんが頷いた。
紫の女の子はしばらく黙っていた。
「じゃあ」
レイが見る。
「待ってるって書くくらいなら、いいですか」
「待ってる?」
「今日も紫振ったよって。またライブで見たいって」
レイは少し離れた佐伯を見る。佐伯も話を聞いていたらしく、こちらへ歩いてきた。
「居場所の話をしないなら、それは大丈夫です」
外の客がいるせいか、佐伯の声はいつもの身内向けとは違った。
「ただ、本人を責めるようなことは書かないでください」
「はい」
女の子はスマートフォンを取り出し、考えながら文字を打った。投稿する前にも読み返している。その指がようやく投稿ボタンへ触れると、タンクトップくんも自分のスマートフォンへ目を落とした。
「出た?」
「たぶん」
女の子が画面を見せた。ひよりの位置から文章全部は読めなかった。最後に付いていた文字だけ見える。
#アン待ってるよ
「俺もこれ使っていい?」
「どうぞ」
「じゃ使う」
タンクトップくんがすぐに打ち始めた。眼鏡くんもスマートフォンを取り出す。
鉢巻くんは何も言わなかった。少し離れたところで画面を開き、しばらく止まっている。やがて、親指が一度だけ動いた。
「まひるちゃん」
「あ、はい」
次の客に呼ばれ、ひよりは慌てて自分の机へ戻った。
「一枚お願いします」
「はい」
チェキを撮り、少し話して、客を送り出す。そうすると、また次の人がやってくる。やっていることは、いつもの物販と変わらなかった。ただ、合間に顔を上げるたび、さっきの紫の女の子が誰かとスマートフォンを見せ合っていた。
*
物販が終わり、三人で荷物を片づけていると、ナツがスマートフォンを見ながら言った。
「これ」
ひよりも隣から画面を覗く。
#アン待ってるよ
今日の紫の女の子。タンクトップくん。眼鏡くん。ほかにも、ライブで見たことのある名前が並んでいた。紫のペンライトを撮った写真。前に撮ったチェキ。四人でステージに立っている写真。
リオも自分のスマートフォンを見ていた。
「公式からも、もう一回出したって」
FRAME WORKSの投稿が表示される。応援への礼。居場所についての憶測や、目撃情報を広げないでほしいというお願い。タグを使ってほしいとは、どこにも書いていなかった。
ひよりはまた画面へ目を戻した。見覚えのある人たちの投稿に混じって、一つ、知らないアイコンがあった。
『次は四人のリトルフレア見たい』
その下にも同じ文字がついている。
#アン待ってるよ
ひよりは投稿者の名前に見覚えがなかった。画面は閉じなかった。




