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アイドルとは!  作者: Aramaki_mai
第三章 広がる名前
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第37話 母さんのところへ行けばいい

挿絵(By みてみん)

「普通って、何が」


父に聞かれ、アンは冷蔵庫の前で振り返った。テレビでは芸人が何かを叫び、客席から笑い声が上がっていた。父はそちらを見ていたが、もう笑ってはいなかった。


「大阪」


「ライブの話じゃないのか」


「だから、大阪」


アンはコップの水を一口飲んだ。


「他にどっか行ったのか?」


すぐには答えなかった。さっき母から届いた文字が浮かぶ。


――私からは言わないでおくね。


秘密にしてほしいなんて、一度も頼んでいない。それなのに、自分からも言わなかった。


「母さんに会った」


父がテレビから顔を上げた。


「……会ったのか」


「うん」


「大阪で?」


「大阪にいるんだから、そうでしょ」


「いや、そうだけど」


父はリモコンを取り、テレビの音を下げた。アンは少し身構えた。


勝手に会うな。何を話した。あいつに何か言われたのか。そんなことを言われる気がしていた。父が最初に聞いたのは、違うことだった。


「なんで言わなかった」


「言う必要ある?」


「あるだろ」


「なんで?」


「なんでって……俺はお前の親だろ」


アンはコップへ目を落とした。


「母さんも親だけど」


父が黙った。口に出してから、少し嫌な言い方だったと思った。でも、取り消す気にはならなかった。


「分かってるよ」


父は背もたれから身体を起こした。


「別に、会うなとは言ってない」


「じゃあいいじゃん」


「会ったことを怒ってるんじゃない」


「じゃあ何」


「黙ってたことを聞いてんだよ」


「別に」


父の眉が少し動いた。また言った、と自分でも思った。


「元気だったか」


「誰が?」


「母さんだよ」


「普通」


「また普通か」


「普通だったから」


アンは水を飲んだ。父はしばらく何も言わなかった。


「男いた」


「……そうか」


「知ってた?」


「いるって話は聞いてた」


「ふうん」


「どんな人だった」


「普通」


「お前な」


父が呆れたような顔をする。アンはコップを流し台へ置いた。


「皿洗ってた」


「は?」


「母さんと二人でご飯食べて、食べ終わったら皿洗ってた」


水道の音まで覚えていた。二枚の皿を重ねて、男が台所へ持っていった。母は、それを当たり前みたいに任せていた。


「牛乳も、なくなったら次の日買うって」


「……そりゃ買うだろ」


「分かってる」


声が少し強くなった。父もそれに気づいたらしい。


「普通だって言う割に、さっきから何に腹立ててんだ」


「別に、腹なんか――」


「それやめろ。何かあるなら言えよ」


「今言ってるじゃん!」


父の口が開いたが、アンは構わず続けた。


「母さん、普通に暮らしてたよ。笑ってたし。男も普通だったし。二人で住んで、普通にご飯食べて、普通に明日の話してた」


テレビの中でも、誰かが笑っていた。父はそちらを見ず、アンの話が終わるのを待っていた。


「……それなら、よかったじゃないか」


アンの指先が止まった。


「それでいいんだ」


「元気にやってるなら、それでいいだろ」


父はまだ何か言おうとした。


「こっちより普通だった」


アンが言うと、その口が止まった。


「……こっちはそんなにおかしいのか」


「そういう意味じゃ――」


言いかけて、続かなかった。父はアンを見て、次の言葉を待っている。


「じゃあ、なんで言うんだよ」


「父さんが聞いたんじゃん!」


思ったより大きな声が出た。父も口を閉じた。一度静かになったせいで、冷蔵庫の低い音まで聞こえた。


「大阪から帰ってきて、ずっとそうだろ」


父が言った。


「何聞いても短い返事ばっかりで。学校行って、練習行って、ライブ行って、帰ったら疲れた顔して。ちゃんと寝てんのか」


「寝てる。今その話してない」


「平気、別に、普通。お前、そればっかじゃねえか」


アンは流し台に置いたコップを見た。さっきまで父はテレビを見ていて、自分は水を飲みに来ただけだった。鍋にあると言われた夕飯も、まだ食べていない。


「疲れてない」


「こっちは毎日見てんだぞ」


「じゃあ聞かないでよ!」


父が止まった。アンも息を吸った。言わなかったと怒られて、言ったらこの顔をされる。


「よかったって、何なの」


「母さんが元気ならよかったって――」


「私いなくても普通に暮らしてた!」


父の言葉に、自分の声が重なった。


「母さんのとこ行ったら、何にもなかったみたいに普通だった! それ見て、よかったねって帰ればいいの?」


「誰もそんなこと言ってないだろ」


「父さん今言ったじゃん。それでいいって」


「元気ならよかったって意味だろ!」


「同じじゃん!」


「同じじゃねえよ!」


父が立ち上がると、アンも流し台から離れた。二人の間にはテーブルがあった。


「母さんが俺のこと何か言ったのか」


「言ってない。父さん元気って聞いただけ」


父はアンを見ていた。


「それだけ。私も変わんないって言った」


「だったら、なんで俺に怒ってんだよ!」


「父さんが怒らせてんじゃん!」


父が何か言い返しかけて、口を閉じた。アンの胸も速く上下していた。


止めた方がいいと思う。ここで部屋へ戻ればいい。でも、それをすると、また何も言えなかったことだけが残る気がした。


「父さんだって、全部、自分は関係ないみたいな顔してるじゃん」


父の目が細くなった。


「何の話だ」


「母さんが出てったのだって――」


そこから先が出なかった。父は目を逸らさなかった。


「続き言えよ」


アンは黙っていた。父の顔を見ていると、続きを言っても、違うと言っても駄目な気がした。


「そこまで言って黙るなよ!」


父の声が部屋に響いた。アンの肩が反射的に動いた。


父もそれに気づいたようだった。けれど、謝らなかった。アンも引かなかった。


「お前に何が分かるんだよ」


「分かんないよ!」


「だったら勝手なこと言うな!」


「何も言わない父さんが悪いんじゃん!」


「聞いたことあるのか! 何があったか、お前から聞いたことあんのかよ!」


アンは答えられなかった。聞いたことはなかった。父からも、母からも。知りたくなかった時期もあった。今さら聞いたところで、何かが戻るとも思えなかった。


「ほら、何も知らねえだろ」


父のその言い方が、また腹に刺さった。


「父さんだって私のこと何も知らないじゃん」


「分かろうとして聞いてるだろ!」


「だったら、何でよかったなんて言うの!」


父の口が動いた。今度は声が出なかった。


アンは父を見ていた。何か言ってほしかったのに、また聞かれたら、また怒鳴ってしまう気がした。


「もういい」


そう言っても、部屋へ戻る足は動かなかった。父が両手を腰に当てた。


「俺とここにいるのがそんなに嫌なのか」


「そんなこと言ってない!」


「だったら何が不満なんだ!」


アンは首を振った。


「不満とかじゃない」


「じゃあ言えよ!」


アンは口を開いた。父がこちらを見ている。その顔に向かって言える言葉が、何も浮かばなかった。


「……知らない」


「俺だって分かるかよ!」


父の声が割れた。アンは息を詰めた。父も呼吸が荒くなっていた。


「何聞いても何も言わない。で、急に向こうの方が普通だって言われて、俺にどうしろってんだ」


「何もしなくていい!」


「だったら――」


父が言葉を切った。止まれたはずだった。アンも、その一瞬だけ父の顔を見た。


それでも次の言葉は出た。


「そんなに俺といるのが嫌なら、母さんのところへ行けばいいだろ」


何も聞こえなくなった。


父の口が閉じる。アンも動かなかった。テレビではまだ誰かが喋っているはずなのに、その声だけ遠くなった。


「……分かった」


「アン」


父が名前を呼んだ。アンは聞こえなかったふりをして居間を出た。自分の部屋へ入ってドアを閉めると、思ったより大きな音がした。強く閉めたつもりはなかった。


ベッドに座り、スマートフォンを手に取った。母との画面には、さっき届いたメッセージが残っていた。


『そっか。私からは言わないでおくね』


その下には何もない。文字入力欄を押したが、親指は動かなかった。何も打たずに閉じ、ナツたちのグループチャットも開かないまま、スマートフォンを握っていた。


少しして廊下で足音がすると、アンは顔を上げた。部屋の前で止まった気がする。ドアを見ているうちに、手元の画面が暗くなった。


ノックはなかった。


やがて足音が離れていった。アンは俯き、机の端にある原付の鍵へ手を伸ばした。


*


玄関でヘルメットを取った。こっそり出るつもりはなかった。扉を開ける音に重なって、居間から椅子の動く音がした。


「アン」


アンは振り返らず、靴へ足を入れた。


「どこ行くんだ」


返事をしないまま外へ出ると、もう一度名前を呼ばれた。


「アン!」


背中へ飛んだ声を聞きながら、扉を閉めた。原付へ向かい、鍵を差し込むと、一度でエンジンがかかった。ヘルメットを被って顎紐を留めていると、家の扉が開く音がした。


「待て!」


父の声に、アンはアクセルを回した。原付が動き出しても、背後から声が追ってくる。


「アン!」


角まで行けば、もう家は見えなくなる。ミラーの中に一瞬、Tシャツとジャージのまま玄関の外に立つ父が映った。


アンは前を向き、そのまま角を曲がった。

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