第37話 母さんのところへ行けばいい
「普通って、何が」
父に聞かれ、アンは冷蔵庫の前で振り返った。テレビでは芸人が何かを叫び、客席から笑い声が上がっていた。父はそちらを見ていたが、もう笑ってはいなかった。
「大阪」
「ライブの話じゃないのか」
「だから、大阪」
アンはコップの水を一口飲んだ。
「他にどっか行ったのか?」
すぐには答えなかった。さっき母から届いた文字が浮かぶ。
――私からは言わないでおくね。
秘密にしてほしいなんて、一度も頼んでいない。それなのに、自分からも言わなかった。
「母さんに会った」
父がテレビから顔を上げた。
「……会ったのか」
「うん」
「大阪で?」
「大阪にいるんだから、そうでしょ」
「いや、そうだけど」
父はリモコンを取り、テレビの音を下げた。アンは少し身構えた。
勝手に会うな。何を話した。あいつに何か言われたのか。そんなことを言われる気がしていた。父が最初に聞いたのは、違うことだった。
「なんで言わなかった」
「言う必要ある?」
「あるだろ」
「なんで?」
「なんでって……俺はお前の親だろ」
アンはコップへ目を落とした。
「母さんも親だけど」
父が黙った。口に出してから、少し嫌な言い方だったと思った。でも、取り消す気にはならなかった。
「分かってるよ」
父は背もたれから身体を起こした。
「別に、会うなとは言ってない」
「じゃあいいじゃん」
「会ったことを怒ってるんじゃない」
「じゃあ何」
「黙ってたことを聞いてんだよ」
「別に」
父の眉が少し動いた。また言った、と自分でも思った。
「元気だったか」
「誰が?」
「母さんだよ」
「普通」
「また普通か」
「普通だったから」
アンは水を飲んだ。父はしばらく何も言わなかった。
「男いた」
「……そうか」
「知ってた?」
「いるって話は聞いてた」
「ふうん」
「どんな人だった」
「普通」
「お前な」
父が呆れたような顔をする。アンはコップを流し台へ置いた。
「皿洗ってた」
「は?」
「母さんと二人でご飯食べて、食べ終わったら皿洗ってた」
水道の音まで覚えていた。二枚の皿を重ねて、男が台所へ持っていった。母は、それを当たり前みたいに任せていた。
「牛乳も、なくなったら次の日買うって」
「……そりゃ買うだろ」
「分かってる」
声が少し強くなった。父もそれに気づいたらしい。
「普通だって言う割に、さっきから何に腹立ててんだ」
「別に、腹なんか――」
「それやめろ。何かあるなら言えよ」
「今言ってるじゃん!」
父の口が開いたが、アンは構わず続けた。
「母さん、普通に暮らしてたよ。笑ってたし。男も普通だったし。二人で住んで、普通にご飯食べて、普通に明日の話してた」
テレビの中でも、誰かが笑っていた。父はそちらを見ず、アンの話が終わるのを待っていた。
「……それなら、よかったじゃないか」
アンの指先が止まった。
「それでいいんだ」
「元気にやってるなら、それでいいだろ」
父はまだ何か言おうとした。
「こっちより普通だった」
アンが言うと、その口が止まった。
「……こっちはそんなにおかしいのか」
「そういう意味じゃ――」
言いかけて、続かなかった。父はアンを見て、次の言葉を待っている。
「じゃあ、なんで言うんだよ」
「父さんが聞いたんじゃん!」
思ったより大きな声が出た。父も口を閉じた。一度静かになったせいで、冷蔵庫の低い音まで聞こえた。
「大阪から帰ってきて、ずっとそうだろ」
父が言った。
「何聞いても短い返事ばっかりで。学校行って、練習行って、ライブ行って、帰ったら疲れた顔して。ちゃんと寝てんのか」
「寝てる。今その話してない」
「平気、別に、普通。お前、そればっかじゃねえか」
アンは流し台に置いたコップを見た。さっきまで父はテレビを見ていて、自分は水を飲みに来ただけだった。鍋にあると言われた夕飯も、まだ食べていない。
「疲れてない」
「こっちは毎日見てんだぞ」
「じゃあ聞かないでよ!」
父が止まった。アンも息を吸った。言わなかったと怒られて、言ったらこの顔をされる。
「よかったって、何なの」
「母さんが元気ならよかったって――」
「私いなくても普通に暮らしてた!」
父の言葉に、自分の声が重なった。
「母さんのとこ行ったら、何にもなかったみたいに普通だった! それ見て、よかったねって帰ればいいの?」
「誰もそんなこと言ってないだろ」
「父さん今言ったじゃん。それでいいって」
「元気ならよかったって意味だろ!」
「同じじゃん!」
「同じじゃねえよ!」
父が立ち上がると、アンも流し台から離れた。二人の間にはテーブルがあった。
「母さんが俺のこと何か言ったのか」
「言ってない。父さん元気って聞いただけ」
父はアンを見ていた。
「それだけ。私も変わんないって言った」
「だったら、なんで俺に怒ってんだよ!」
「父さんが怒らせてんじゃん!」
父が何か言い返しかけて、口を閉じた。アンの胸も速く上下していた。
止めた方がいいと思う。ここで部屋へ戻ればいい。でも、それをすると、また何も言えなかったことだけが残る気がした。
「父さんだって、全部、自分は関係ないみたいな顔してるじゃん」
父の目が細くなった。
「何の話だ」
「母さんが出てったのだって――」
そこから先が出なかった。父は目を逸らさなかった。
「続き言えよ」
アンは黙っていた。父の顔を見ていると、続きを言っても、違うと言っても駄目な気がした。
「そこまで言って黙るなよ!」
父の声が部屋に響いた。アンの肩が反射的に動いた。
父もそれに気づいたようだった。けれど、謝らなかった。アンも引かなかった。
「お前に何が分かるんだよ」
「分かんないよ!」
「だったら勝手なこと言うな!」
「何も言わない父さんが悪いんじゃん!」
「聞いたことあるのか! 何があったか、お前から聞いたことあんのかよ!」
アンは答えられなかった。聞いたことはなかった。父からも、母からも。知りたくなかった時期もあった。今さら聞いたところで、何かが戻るとも思えなかった。
「ほら、何も知らねえだろ」
父のその言い方が、また腹に刺さった。
「父さんだって私のこと何も知らないじゃん」
「分かろうとして聞いてるだろ!」
「だったら、何でよかったなんて言うの!」
父の口が動いた。今度は声が出なかった。
アンは父を見ていた。何か言ってほしかったのに、また聞かれたら、また怒鳴ってしまう気がした。
「もういい」
そう言っても、部屋へ戻る足は動かなかった。父が両手を腰に当てた。
「俺とここにいるのがそんなに嫌なのか」
「そんなこと言ってない!」
「だったら何が不満なんだ!」
アンは首を振った。
「不満とかじゃない」
「じゃあ言えよ!」
アンは口を開いた。父がこちらを見ている。その顔に向かって言える言葉が、何も浮かばなかった。
「……知らない」
「俺だって分かるかよ!」
父の声が割れた。アンは息を詰めた。父も呼吸が荒くなっていた。
「何聞いても何も言わない。で、急に向こうの方が普通だって言われて、俺にどうしろってんだ」
「何もしなくていい!」
「だったら――」
父が言葉を切った。止まれたはずだった。アンも、その一瞬だけ父の顔を見た。
それでも次の言葉は出た。
「そんなに俺といるのが嫌なら、母さんのところへ行けばいいだろ」
何も聞こえなくなった。
父の口が閉じる。アンも動かなかった。テレビではまだ誰かが喋っているはずなのに、その声だけ遠くなった。
「……分かった」
「アン」
父が名前を呼んだ。アンは聞こえなかったふりをして居間を出た。自分の部屋へ入ってドアを閉めると、思ったより大きな音がした。強く閉めたつもりはなかった。
ベッドに座り、スマートフォンを手に取った。母との画面には、さっき届いたメッセージが残っていた。
『そっか。私からは言わないでおくね』
その下には何もない。文字入力欄を押したが、親指は動かなかった。何も打たずに閉じ、ナツたちのグループチャットも開かないまま、スマートフォンを握っていた。
少しして廊下で足音がすると、アンは顔を上げた。部屋の前で止まった気がする。ドアを見ているうちに、手元の画面が暗くなった。
ノックはなかった。
やがて足音が離れていった。アンは俯き、机の端にある原付の鍵へ手を伸ばした。
*
玄関でヘルメットを取った。こっそり出るつもりはなかった。扉を開ける音に重なって、居間から椅子の動く音がした。
「アン」
アンは振り返らず、靴へ足を入れた。
「どこ行くんだ」
返事をしないまま外へ出ると、もう一度名前を呼ばれた。
「アン!」
背中へ飛んだ声を聞きながら、扉を閉めた。原付へ向かい、鍵を差し込むと、一度でエンジンがかかった。ヘルメットを被って顎紐を留めていると、家の扉が開く音がした。
「待て!」
父の声に、アンはアクセルを回した。原付が動き出しても、背後から声が追ってくる。
「アン!」
角まで行けば、もう家は見えなくなる。ミラーの中に一瞬、Tシャツとジャージのまま玄関の外に立つ父が映った。
アンは前を向き、そのまま角を曲がった。




