第36話 別に気にしてない
翌日のライブでも、紫の光が前より増えていた。アンは振り付けに合わせて客席の右側へ身体を向け、その中に前にも見た顔を見つけた。去年、初めて物販へ来た女の子。鞄から紫のペンライトを覗かせて、「アンちゃん、写真とかめっちゃ映えますよね」と言っていた。今日は最初から紫を持っている。
アンが指を差しても、相手は自分のことかと隣を見た。もう一度、そちらを指す。ようやく気づいた顔に向かってアンが笑うと、紫の光が大きく揺れ、そのまま曲はサビへ入った。
「まひるー!」
前の方から声が上がった。以前より大きい。赤も黄色も増えていたが、その中でも青は明らかに多くなっている。
それでもアンはそのまま踊った。反対側から自分の名前が聞こえた。
「アンー!」
声のした方へ顔を向けると、知らない紫が二本並んでいた。アンが片手を上げるのに合わせ、二本とも高く揺れた。
*
「あ、また来てくれたんだ」
物販へ来た女の子を見て、アンが言った。
相手の顔がぱっと明るくなる。
「覚えてたんですか?」
「そんなすぐ忘れないし」
「去年ですよ」
「じゃあギリギリ」
「ひどい」
笑いながら、女の子がチェキ券を出した。今日は鞄の中ではなく、手に紫のペンライトを持っている。
「今日は出してるんだ」
「最初から振ってました」
「ちゃんと紫」
「アンちゃん見に来たので」
アンの手が一瞬止まった。
「今日?」
「はい」
「リトルフレアじゃなくて?」
「リトルフレアもですけど。アンちゃんも」
「何、その言い方」
「駄目?」
「別に」
「前のチェキ、友達に見せたんですよ」
「うん」
「誰って聞かれたから、アンちゃんって教えました」
「偉い」
「偉いんだ」
「次は連れてきて」
「営業するんですか?」
「一人増えるじゃん」
相手が笑った。
アンも笑い、立ち上がる。
「今日どうする?」
「お任せで」
「一番困るやつ」
「でも得意でしょ?」
「まあね」
レイがチェキ用のカメラを構える。アンは相手を自分の右へ立たせ、肩の向きを少し変えた。
「肩、ちょっとこっちに向けて」
「これで合ってます?」
「うん。顔はカメラね」
「全部指示が出る」
「お任せで変に写ったら、私のせいじゃん」
「じゃあ安心です」
「まだ撮ってないし」
レイが笑う。
「撮るよー」
アンはシャッターが切れる直前に顔を作った。相手も慌てて笑う。写真が出てくる。
「うわ、すご」
「何が?」
「私、いつもよりいい」
「そっち?」
「アンちゃんもかわいいです」
「それは知ってる」
「自分で言う」
笑い声を聞きながら、アンはペンを取った。チェキの余白へ名前を書き、相手の方へ差し出す。
「次、友達もね」
「ほんとに営業してる」
「待ってる」
「はい。また来ます」
相手が離れていく。アンは椅子へ座り直した。自分の列には、まだ二人いる。以前より列は伸び、紫を持って来る客も増えた。それはアン自身、ちゃんと分かっていた。
次の客を呼ぼうとして、少し離れたところへ目がいった。まひるの前には、まだ列が続いていた。見たことのない顔も多い。
「シュガー・ステップ見ました」
客の声が聞こえる。まひるが何か答えた。相手が笑った。アンは自分の机へ目を戻す。
「アン」
横からナツに呼ばれた。
「何」
「今日ちょっと静かじゃない?」
「別に気にしてない」
「……何を?」
アンはナツを見た。ナツもこちらを見ている。一秒くらい、そのままになった。
「何でもない」
「私、静かって言っただけだけど」
「うるさい」
「はいはい」
ナツはそれ以上言わず、自分の客へ戻った。アンの前にも次の客が来る。
「初めまして」
アンは顔を上げた。
「初めまして。何撮る?」
*
「星川」
名前を呼ばれて、アンは顔を上げた。黒板には、さっきより式が増えていた。
「……はい」
「次、ここ」
先生がチョークの先で問題を示す。
アンは開いた教科書へ目を落とし、今やっているところを探した。少し見れば分かった。答えると先生は頷いて授業へ戻ったが、今度は隣の席から小さな声がした。
「寝てた?」
アンは前を向いたまま答える。
「寝てない」
「呼ばれるまで動いてなかったけど」
「考えてた」
「目閉じて?」
「集中してたの」
隣で笑う気配がした。
アンも口元だけ少し緩め、ノートへ視線を戻した。
眠ったつもりはなかった。
黒板を見ていたはずなのに、途中だけ抜けている。
先生の声も、いつ途切れたのか覚えていなかった。
授業が終わる。アンが教科書を鞄へ入れていると、さっきの女子が椅子ごとこちらへ向いた。
「最近ずっと忙しそうだね」
「そう?」
「アイドルって毎週ライブあるの?」
「あるときは」
「平日も練習してる?」
「水曜と金曜」
「学校来て、練習して、ライブして?」
「そうだけど」
「いつ寝てんの?」
「寝てる」
「さっきも?」
アンは相手を見る。
「だから寝てないって」
「はいはい」
真似された。
「大丈夫なの?」
アンは鞄のファスナーを閉めた。
「平気」
「ならいいけど。帰りの電車で寝過ごさないでね」
「子供じゃないし」
「十七でしょ」
「そっちもでしょ」
「あ、そうだった」
「忘れんな」
二人で笑った。
「じゃ、お疲れ」
「お疲れー」
教室を出る。廊下を歩いている途中で、あくびが出た。アンは誰も見ていないうちに口元を手で隠した。
*
「ただいま」
「おう」
家へ戻ると、父はテレビを見ていた。作業着ではなく、古いTシャツとジャージ姿だった。
アンは靴を脱ぎ、自分の部屋へ鞄を置く。上着を脱いだところで、スマートフォンが震えた。母からだった。
『そういえば、この前会ったこと、お父さんには言った?』
アンは画面を見た。居間からテレビの笑い声が聞こえる。少し考えてから返した。
『言ってない』
送る。着替えようとしている間に既読がついた。すぐには返事が来ない。Tシャツへ着替え終わったところで、もう一度震えた。
『そっか。私からは言わないでおくね』
アンは文字を読んだ。秘密にしてほしいと頼んだことはない。父に知られたら困るとも言っていない。どうして言わないのかも、母は聞かなかった。
アンは返事を打たず、画面を消した。居間へ戻る。
「飯は?」
父がテレビを見たまま聞いた。
「まだ」
「鍋にあるぞ」
「あとで食べる」
「冷めるぞ」
「分かってる」
冷蔵庫を開ける。ペットボトルを取り出し、コップへ水を注いだ。
「そういや」
父の声がした。アンはペットボトルを傾けたまま聞く。
「何」
「こないだの大阪、どうだった?」
水がコップの半分を越えた。アンはペットボトルを起こす。
「ライブ?」
「他に何があるんだよ」
父は、アンが大阪でライブ以外に何をしてきたのか知らない。母と会ったことも、その家に新しい男がいたことも知らない。二つ並んだマグカップや、なくなった牛乳を次の日にはその男が買う――そんな生活をアンが見てきたことも、父は知らない。
アンはペットボトルを冷蔵庫へ戻した。
「普通」




