幕間② 私服のほうが恥ずかしい
二月も終わりに近い土曜日。いつものライブを終えたあと、リトルフレアの四人は楽屋で衣装を脱いでいた。今日はこのまま同じ会場で、少し変わった特典会がある。一部は私服。いったん客を入れ替えて、二部は自由コスプレ。
ひよりは青い衣装をハンガーへ掛け、持ってきた服に着替えた。薄いグレーのパーカーに黒いロングスカート。休みの日なら、そのままコンビニへ行くような格好だった。鏡の前で髪を手櫛で直していると、隣から視線を感じた。
「……それで出るの?」
アンに見られ、ひよりはパーカーの裾を少し引いた。
「私服って書いてたから。いつも着てるやつ」
「あたし、今日のために選んだんだけど」
「それも私服でしょ」
アンはひよりの服をもう一度見てから、鏡の横へ場所を空けた。
「そっか。まひるは本当にいつものままで来るんだ」
「……なんか、着替えたくなる言い方しないでよ」
アンはコートを脱いだ。中から出てきたのは、明るい色のニットと細身のパンツだった。外を歩くにはまだ寒そうなのに、鏡の前へ立つときれいにまとまって見える。
「それ寒くない?」
「外じゃコート着るから」
「じゃあ中でも着てればいいじゃん」
「写真にコートで写る気?」
「駄目なの?」
「駄目」
即答された。
何がそこまで駄目なのか、ひよりにはよく分からない。
その横では、ナツが落ち着いた色のニットへ着替えていた。
ひよりは何となく見ていて、口を開く。
「ナツさん、二十二――」
「言わなくていい」
「まだ何も言ってないです」
「絶対言おうとした」
「二十二歳っぽいなって」
「ほら!」
ナツが振り返った。
「十九歳でもこういうの着るから!」
「でも二十二ですよね」
「そこはもう分かったでしょ!」
アンが鏡を見ながら笑った。楽屋の扉が開く。
「何の話?」
入ってきたリオを見て、今度はひよりが黙った。黒いパンツに白いスニーカー。上もゆったりしたパーカーで、普段の衣装姿よりずっと動きやすそうだった。
「リオ、そういう服着るんだ」
「どういう服?」
「もっと……ちゃんとしてるやつかと思ってた」
「これもちゃんとしてるけど」
「そうじゃなくて」
「じゃあ何?」
言葉に詰まったひよりの代わりに、アンが言った。
「昔バスケやってたから、こういうの楽なんでしょ」
「まあね」
「バスケ?」
ひよりがリオを見る。
「やってたよ」
「知らなかった」
「聞かれてないから」
「言ってくれればいいのに」
「何で全部言わなきゃいけないの?」
「それはそうだけど」
ひよりはもう一度、自分の姿を鏡で見た。さっきまで着ていた青い衣装なら、客の前へ出ることに何も思わなかった。今はパーカーの裾が妙に気になる。
「……なんか今日の方が嫌かも」
三人が見る。
「何が?」
「これで人前出るの」
アンが首を傾げた。
「衣装より?」
「うん」
「何で?」
「衣装は衣装じゃん」
「私服も服だけど」
「そういう意味じゃなくて」
説明しようとして、自分でもよく分からなくなった。衣装は天野まひるが着るものだった。今着ているのは、榎本ひよりが昨日も着ていた服だ。そこまで考えて、口に出すほどのことでもない気がした。
「……分かんない」
「何それ」
アンが呆れたところで、レイが扉から顔を出した。
「準備できた? もう入れるよ」
「はーい」
ナツが返事をする。
ひよりはもう一度だけパーカーの裾を引っ張ってから、三人の後を追った。
*
「ライブのときと全然違いますね」
何人目かの客にそう言われ、ひよりは自分の服を見た。
今日が初めての客らしい。
「悪い方?」
「え?」
「全然違うって」
「あ、違います。普通にかわいいって意味で」
「普通?」
客は慌てて首を振った。
「地味って意味じゃないです。こういう服も似合うなって」
ひよりはパーカーの袖口をつまんだ。さっき鏡の前で見たときには、褒めてもらえる服だとは思わなかった。
「……これでよかったんですか」
「はい。すごく」
「じゃあ、ありがとうございます」
まだ袖を気にしていると、客が自分の服も見下ろした。
「俺、もっとちゃんとしてくればよかったですかね」
「え、私パーカーですよ」
思わず返すと、客が笑った。ひよりも袖から手を離して笑った。
レイがカメラを構える。
「はい、どうする?」
「普通にピースで」
ひよりの眉がわずかに動いた。
「まひる」
アンがすぐに呼ぶ。
「何」
「今また反応したでしょ」
「してない」
「した」
「はい、撮るよー」
レイに急かされ、ひよりは慌てて正面を向いた。シャッターが切れる。客が笑いながら帰ったあとも、ひよりは少し納得できずにいた。
「普通にかわいいって、かわいいより下なのかな」
「まだ考えてんの?」
アンの声が飛んできた。
「もう次の人いるから」
「あ、すみません」
ひよりは慌てて前を向いた。
*
「肩、そっち」
「こっち?」
「逆」
「こう?」
「行きすぎ」
客が途切れた隙に、ひよりはアンの方を見た。若い女性がチェキの位置へ立っている。初めて見る顔だった。どう立てばいいのか迷っている女性を、アンは指先だけで少しずつ動かしている。
「もうちょい身体こっち。顔だけカメラ」
「難しい」
「止まってればいいから」
「アンちゃんが全部やってる」
「お任せって言ったのそっちじゃん」
アンが女性の隣へ入った。相手との身長差を見て少しだけ膝を緩める。次の瞬間には、もうカメラへ一番きれいに見える角度で顔を向けていた。レイがシャッターを切る。出てきたチェキに、少しずつ色が浮かんだ。
「あ、いい」
女性が言った。
「でしょ」
アンは即答した。
「自分で言うんだ」
ひよりが口を挟む。
「いいのに悪いって言う必要ないじゃん」
「それはそうだけど」
女性が笑った。
アンはペンを取る。
「名前、何て書く?」
女性が名乗った。
「今日初めて?」
「物販は初めてです。ライブも今日が初めて」
「へえ」
「四人の動画、何本か見てて」
女性が鞄を持ち直した。少し開いた口から、紫色のペンライトが覗いた。アンが先に気づく。
「紫じゃん」
「あ」
女性も鞄の中を見た。
「今日、ちょっと振ってみました」
「ちょっと?」
「まだ誰推しとか決めてなくて」
「じゃあ何で私のところ来たの」
女性は少し考えた。
「アンちゃん、写真すごく映えそうだったから」
「何それ」
言いながらも、アンは少し笑っていた。
「でも、思った通りでした」
「でしょ」
「また言った」
「だからいい写真なんだからいいじゃん」
アンは出来上がったチェキへ名前を書き足し、相手へ返した。
「今日ので決めれば?」
「誰推しか?」
「次も来るか」
女性が一瞬きょとんとして、それから笑う。
「じゃあ、また来ます」
「うん」
アンはそれだけ返し、次の客へ顔を向けた。引き止めもしない。紫を勧めもしなかった。ひよりは女性が帰っていくのを少し見てから、自分の方へ客が来たことに気づいた。
「あ、すみません」
「アンちゃんのところ見てました?」
「ちょっと」
「仲いいですね」
「まあ」
答えながら、ひよりはアンを見る。向こうはもう次の客を、数センチ横へ動かしていた。
*
一部が終わると、いったん客が外へ出された。四人はまた楽屋へ戻り、今度は机の上に置いていたコスプレ衣装を広げた。
ひよりは青い布を持ち上げ、短いマントを広げた。先の尖った帽子と腰へ巻くベルト、その横には星のついた杖もある。
「それ絶対、自分で選んだでしょ」
アンが言った。
「何で?」
「顔」
「顔?」
「さっきまでと違う」
ひよりは鏡を見る。そんなに変わったつもりはない。
「魔法使いだから」
「まだ着てもないじゃん」
「杖あるよ」
「見れば分かる」
「ちゃんと星ついてる」
「それも見れば分かる」
ひよりは杖を一度振った。
「何か出るかな」
「出ない」
「分かんないじゃん」
「出たらイベント中止だわ」
後ろからナツの声がした。
「それより、これどう?」
振り返る。白衣を羽織っていた。胸にはそれらしい名札まで付いている。ひよりは数秒見る。
「それ、仕事じゃないですか」
「違うよ!」
「白衣でしょ」
「白衣なら全部同じ仕事じゃないから」
「じゃあ何が違うの?」
「色々!」
アンが吹き出した。
「一番コスプレ感ないんだけど」
「ちゃんとコスプレだから!」
その横では、リオが赤を基調にしたバスケットボールのユニフォームを着ていた。
「リオはバスケなんだ」
「そう」
「ボールは?」
「特典会でドリブルする気?」
「しないけど」
「じゃあいらないでしょ」
アンは黒いジャケットを羽織り、グローブをはめていた。ひよりはすぐに分かった。
「バイク?」
「そう」
「原付なのに?」
アンが振り返る。
「衣装だから!」
「でも今乗ってるの原付でしょ」
「今はね!」
「これで原付乗るの?」
「乗らない!」
「じゃあ――」
「コスプレって言ってるでしょ!」
ナツが白衣の袖を引っ張りながら頷いた。
「そう。コスプレだから」
「ナツさんはそっち側に行かないで」
「何で?」
「一番怪しいから」
「ちゃんと研究者っぽいでしょ!」
「普段も研究所行ってるじゃん」
「だからそれとこれは違うの!」
リオが声を上げて笑った。ひよりは魔法使いの帽子を被った。少し大きくて、目元までずり落ちる。持ち上げて角度を直す。
「これ、踊ったら落ちそう」
「踊らないから」
「写真だけ?」
「特典会だからね」
アンに言われ、ひよりは少し残念だった。
*
「もう一枚は、かわいい感じでお願いします」
二部が始まって十分もしないうちに、ひよりは客から注文を受けた。すでに一枚、星の杖を真正面へ突き出した写真を撮っている。
「これ、かわいくない?」
「かっこいいです」
「じゃあ次どうする?」
「もう少し普通に」
ひよりの目が動いた。
「まひる」
隣からアンの声。
「何」
「そこ反応するの、今日だけでもう三回目」
「だってまた言われた」
「言葉に恨みでもあんの?」
「別にないけど」
「じゃあ杖下ろして。ハートでも作れば?」
ひよりは杖をレイへ渡した。客と並んで、両腕で大きなハートを作る。
「でかい」
アンが言った。
「何が?」
「ハート」
「見えやすいじゃん」
「チェキだって」
「じゃあどうするの」
「こう」
アンが自分の客と作っていた小さなハートを見せる。ひよりも真似した。
「これ?」
「そう」
「魔法使い関係ないじゃん」
「誰が魔法使い要素残せって言ったの」
「設定あった方がやりやすいんだけど」
客が笑った。ひよりはその人を見る。
「笑うところ?」
「すみません」
「ほら撮るよ!」
レイの声で前を向く。シャッターが切られた。出てきた写真には、ひよりと客が笑って写っていた。その端に、アンの肩と横顔まで入っている。
「あ、アンも入ってる」
「最悪」
アンが覗き込む。
「撮り直そ」
「これいいです」
客が先に言った。
「いや、入っちゃってるから」
「これがいいです」
「絶対もう一枚の方がいいって」
「これ欲しいです」
客は写真を守るように胸へ寄せた。アンが納得できない顔をする。
「何で?」
ひよりは笑った。
「アン、負けてる」
「写真で負けるって何!」
*
「四人で一枚!」
最後の方になって、タンクトップの男が声を上げた。
「声!」
レイが即座に注意する。
「四人で一枚!」
「小さくしてもでかい!」
結局、四人で並んだ。ひよりが青い魔法使いの帽子の下から横を見ると、赤いバスケットボール選手と白衣姿、その先には黒いライダーがいる。
「バラバラだね」
「自由コスプレだからね」
ナツが笑う。アンはもう立ち位置を調整している。
「まひる、もうちょいそっち。リオ詰めて」
リオが一歩寄る。ひよりの帽子が肩へ当たった。
「あ、ごめん」
「大丈夫」
帽子を直す。リオもこちらを見る。
「まだ曲がってる」
「どっち?」
「こっち」
リオが帽子の端へ手を伸ばした。
「はい、撮るよー!」
レイの声が飛ぶ。リオが慌てて正面を向く。
「リオ、今まひる見てたでしょ」
アンが言う。
「帽子直してただけ!」
「はいはい」
「ほんとだから!」
ひよりもリオを見る。
「まだ曲がってる?」
「今は大丈夫」
「二人とも前!」
アンが怒鳴った。その瞬間、シャッターが切れた。
「あ」
四人の声が重なった。出てきた写真を覗いて待つうち、白かった面に少しずつ色が浮かぶ。タンクトップの男が先に笑い出し、ナツまで吹き出した。アンだけは、同じ写真を見たまま固まっていた。
「……何これ」
ひよりとリオはお互いを見ている。アンはこちらを向いて怒っている。ナツはそんな三人を見ながら笑っていた。真ん中の男まで、カメラではなくアンの方を見ている。
「撮り直そ」
「これがいい!」
「何で!?」
「めっちゃリトルフレアっぽい!」
「どこが!」
「全員好き勝手!」
「それ褒めてないじゃん!」
「欲しい!」
男は写真を両手で持った。アンはまだ納得していない。
「ちゃんとしたのも撮ろうよ」
「これがいい!」
「だから何で!」
ひよりはもう一度写真を見る。誰一人、きれいにカメラを見ていない。それでも四人とも、変な顔ではなかった。ナツは笑っている。アンも怒鳴っている途中なのに、口元は少し笑っていた。
「私もこれ好きかも」
「まひるまで言うな!」
*
すべて終わった頃には、外はもう暗かった。四人はコスプレから私服へ着替え、その上にコートを羽織った。地下から階段を上がれば、さっきまで魔法使いだったひよりも、白衣のナツも普通の冬服だ。冷たい風が顔に当たった。
「寒っ」
アンがすぐにコートの前を閉じた。
「やっぱその服寒いんじゃん」
「外ではコート着るって言ったでしょ」
「中も寒くなかった?」
「平気」
「ほんと?」
「うるさいなあ」
ナツが隣で笑う。
「まひる、後半ずっと元気だったね」
「何が?」
「魔法使い」
「あれはやりやすかった」
「私服より?」
「うん」
ひよりは即答した。アンが呆れた顔を向ける。
「まだ言ってんの?」
「だってコスプレは役あるじゃん」
「役?」
「魔法使い」
「それしかないじゃん」
「それがあるからいいの」
自分でも少し変な理屈だと思う。けれど、私服で客の前へ出たときの方が、最初はずっと落ち着かなかった。今はもう、そのパーカーの裾を気にしていない。
横からリオが言った。
「魔法使い、似合ってたよ」
ひよりがそちらを見る。
「ほんと?」
「うん」
「よかった」
アンが振り返る。
「聞く相手間違ってるから」
「何で!?」
「まひるに甘いじゃん」
「甘くない!」
ひよりは少し考えた。
「じゃあ私服と魔法使い、どっちがよかった?」
「え?」
「どっち?」
「選ばなきゃ駄目なの?」
「聞いたから」
リオが困った顔をする。
「……どっちも」
アンがすぐに笑った。
「ほら!」
「何がほらなの!」
ナツも笑う。駅へ向かう冬の道で、四人の声が重なった。ひよりはコートのポケットへ両手を入れた。パーカーの裾が少しめくれていることに気づいたけれど、今度は直さず、そのまま三人の横を歩いた。




