第35話 永遠の19歳です
水曜日の練習が始まる前、ひよりは壁際に座ってスマートフォンを睨んでいた。画面には、悠真から届いたメッセージが表示されている。
『次のライブいつ?』
既読をつけてから五分ほど経っているが、まだ返していない。
「何、その顔」
靴紐を結んでいたアンがこちらを見た。
「悠真から」
「弟?」
「次のライブいつって」
「もうファンじゃん」
「違う。絶対、面白がってるだけ」
ひよりはスマートフォンを伏せた。ライブを見られてから、家では思ったより何も変わっていない。父も母も普段通りで、悠真だけが時々、あの日の千鳥足を思い出したように真似してくる。それは腹が立つ。しかも、今度は次のライブまで聞いてきた。
「また来たいんじゃない?」
ストレッチをしていたリオが言った。
「来なくていいって言った」
「でも、来たいって言われるのはいいことでしょ」
「お客さんならね」
「家族も客席に入ったらお客さんじゃん」
「リオまで」
ナツが笑いながら髪をまとめた。
「いいじゃん。応援してくれてるんだから」
「応援されるのが嫌なんじゃないです。見られるのが恥ずかしいんです」
「アイドルが言うことじゃないよ、それ」
「家族は別なの」
「じゃあ昔の知り合いは?」
アンが聞いた。
「もっと嫌」
ひよりは即答した。
「同級生とか絶対嫌。昔の私を知ってる人に、今こんなのやってるって見られたら無理」
「こんなのって言った」
「そういう意味じゃない」
「高校の友達とか来ても?」
リオに聞かれ、ひよりは少し考えた。
「……帰ってほしい」
「ライブあるのに?」
「じゃあ私が帰る」
「何で出演者が帰るの」
ナツが笑った。
「でも昔の知り合いって、意外と会っても普通だよ。私も大学のとき付き合ってた人に、卒業してから一回会ったけど」
ひよりは何となく頷きかけた。途中で止まった。
「……卒業?」
「うん」
「何を?」
ナツが首を傾げる。
「大学」
ひよりはしばらくナツを見た。
「大学を?」
「そうだけど」
「卒業したんですか?」
「したよ」
アンが顔を逸らした。リオも、なぜか急に床へ視線を落とした。ひよりは二人を見る。
「何で目逸らしたの?」
「逸らしてない」
「アンは逸らした」
「たまたま」
「リオも」
「……ナツから聞いた方がいいと思う」
「何、その言い方」
ナツが笑う。ひよりはもう一度ナツへ向き直った。
「ナツさん」
「何?」
「十九歳ですよね?」
一瞬、誰も喋らなかった。
「私、この前二十歳になったんですけど」
「うん。おめでとう」
「ありがとうございます。……じゃなくて」
アンが口元を押さえた。ひよりはナツを指さす。
「ナツさん十九歳なら、今、私より年下ですよね?」
「永遠の19歳です」
「今、永遠つきましたよね?」
「最初からついてるよ」
「大学卒業してる十九歳がいるんですか?」
「永遠の19歳です」
「それで押し切る気ですか?」
リオが吹き出した。その声で、ひよりの頭にずっと前の記憶が浮かんだ。初めてリトルフレアの楽屋へ入った日。ナツに学生かと聞かれた。十九歳で、もう働いていると答えた。するとナツは。
「……待って」
「何?」
「私に同い年って言いましたよね?」
ナツが一度だけ瞬きをした。
「言ったね」
「言いましたよね?」
「うん」
「あのとき私、十九ですよ」
「知ってるよ」
「じゃあ何で同い年なんですか!」
「永遠の19歳だから」
「実年齢を聞いてるんです!」
ナツが口を閉じる。
「ナツさん」
「永遠の19歳です」
「もうそれいいから!」
アンが耐えきれなくなった。
「二十二」
「アン!」
ナツが振り返る。ひよりは固まった。
「……二十二?」
「うん」
「二十二!?」
「声大きい!」
「同い年じゃないじゃん!」
「今まひる二十歳でしょ!」
「今でも二つ上じゃないですか!」
「二つくらいで騒ぎすぎ!」
「差の問題じゃないです! 私、ずっと同い年だと思ってたんですよ!」
アンがとうとう笑い出した。リオも肩を揺らしている。ひよりは二人を順番に見た。
「リオも知ってたんですよね?」
「うん」
「アンも?」
「知ってる」
「レイさんも?」
「もちろん」
「佐伯さんも?」
アンが呆れた顔をする。
「社長が知らなかったら怖いでしょ」
ひよりは三人を見回した。
「私だけ?」
ナツが少しだけ目を逸らす。
「まあ……聞かれなかったし」
「同い年って言われたら聞かないです!」
「公式にも書いてあるじゃん」
「永遠の19歳って?」
「そう」
「それ、アイドルのキャラだと思うじゃないですか!」
「キャラだよ」
「じゃあ実年齢は書いてないじゃないですか!」
「だから隠してないって」
「隠れてましたよ! 完全に!」
ナツが何か言い返そうとしたところで、ひよりの手が止まった。
「……待って」
ナツの顔から笑みが消えた。
「今度は何?」
「お酒」
「何でそこ行くの」
「あのとき、お酒飲んでるって言いましたよね?」
「いつ?」
「黄色の人がまた来た日!」
「ああ……」
「夜、電話してきたじゃないですか」
「したっけ」
「しました! 何回も!」
アンが吹き出した。
「それはした」
「アンにもかけてたよね」
リオまで口を挟む。
「三回」
「私二回」
「回数は今どうでもいい!」
ナツが叫んだ。ひよりはナツを指した。
「私、あのとき『ナツさん十九歳ですよね?』って聞いたんですよ!」
ナツの顔が止まる。
「……聞いた?」
「聞きました!」
「覚えてない」
「でしょうね! 酔ってたから!」
「そんな怒る?」
「そしたら答えないで、黄色の人に二曲目褒められたって話に戻ったんですよ!」
「そうだった?」
「そうです!」
ひよりはあの夜の電話を思い出していた。やたら楽しそうな声。出ないでいても、また鳴るスマートフォン。翌朝には、本人から『本当に忘れて』とメッセージが届いていた。
「私、ずっと変だと思ってたんですよ。十九歳の人がお酒飲んで、みんな普通に『何回電話来た?』とか話してるし!」
「十九歳じゃないから」
「今分かったんです!」
「だったら次の日に聞けばよかったじゃん」
「聞ける空気じゃなかったでしょ! 朝から『昨日の私のことは忘れてください』って!」
ナツが両手で顔を覆った。
「それまで覚えてるの……」
「忘れろって言われると覚えるんです」
「最悪」
「しかも、みんな知ってたんですよね?」
「まあ」
「何で誰も教えてくれなかったの」
リオが困ったように笑う。
「まひるが普通に信じてたから」
「だったら余計に教えてよ!」
ナツが顔から手を離した。
「はいはい。分かったから」
「まだ分かってないです」
「何が?」
「なんで十九なんですか?」
今度は本当に疑問だった。アンが壁へ背中を預けたまま答える。
「前の七人のとき、アダルト四人とヤング三人だったじゃん」
「うん」
「ナツが二十歳になったら、アダルト五人とヤング二人になるから」
「……それで?」
「十九のままになった」
ひよりは黙った。ナツを見る。
「そんな理由で年齢止めていいんですか?」
「止まってるのはプロフィール!」
「本人も結構気に入ってたけどね」
リオが付け足した。
「リオ!」
「違うの?」
「……途中からは、まあ」
「気に入ってるじゃないですか」
「はい、もうこの話終わり!」
ナツが手を叩いた。
「練習するよ。立って!」
「二十二歳が仕切ってる」
「まひる!」
「はい」
ひよりは笑いながら立ち上がった。
*
曲が始まる。四人が鏡の前へ並び、リオを先頭に一歩踏み出した。ひよりは自分の位置へ入りながら、隣のナツをちらりと見る。
二十二歳。
「何」
すぐ気づかれた。
「何でもないです」
「今、絶対年齢のこと考えたでしょ」
「考えてません」
「嘘」
「踊って」
今度はアンに言われた。
ひよりは正面へ戻る。位置を入れ替え、ナツが中央へ出た。歌が入る。さっきまで年齢のことで騒いでいた人の声が、まっすぐ伸びた。高い音へ上がっても細くならない。身体を動かしながらでも息が乱れず、その声が鏡の向こうまで抜けていく。ひよりは一瞬、そちらを見た。
「まひる、遅い!」
リオの声が飛ぶ。
「あ」
一拍遅れて動き、慌てて位置へ戻った。曲が止まる。
「珍しいね」
アンが笑う。
「ナツ見てた」
「だって」
「だって何」
ナツが腰へ手を当てる。ひよりは少し考えた。
「……ついさっきまで十九歳だと思ってたから、変な感じで」
「そっち?」
「でも歌い始めたら、普通にいつものナツさんだった」
「当たり前でしょ!」
「二十二歳でも変わらないんですね」
「昨日も二十二だったから!」
アンがまた笑った。ナツが呆れた顔で音源を最初へ戻す。
「はい、もう一回。今度は私じゃなくて、自分の位置見て」
「はい」
「返事はいい」
また曲が始まった。次は遅れなかった。
*
練習が終わると、四人は壁際へ散らばって荷物を片づけ始めた。ひよりは床に座ったままスマートフォンを開き、リトルフレアの公式プロフィールを探した。並んだ赤、黄、紫、青の中から、黄色を押す。
「何見てるの?」
すぐ横からナツの声がした。
「確認」
「何の?」
「どこまで本当なのかなって」
「失礼!」
アンが靴を履きながら笑った。
「何書いてある?」
「水瀬ナツ。永遠の19歳」
「合ってる」
「実年齢は二十二」
「それは書かない!」
「趣味、スポーツ」
「合ってる」
「身長……」
ひよりの指が止まった。表示を見る。もう一度ナツを見る。
「何」
「160センチ」
アンが顔を上げた。ナツの反応が一瞬だけ遅れた。ひよりはそれを見逃さなかった。
「これは?」
「160あるから!」
「まだ何も聞いてない」
「顔で聞いてた!」
アンが言う。
「159」
「アン!」
ひよりはナツを見る。
「159なんですか?」
「160あるから!」
「プロフィール、違うじゃないですか」
「違わない!」
「一センチ」
「誤差!」
ひよりが目を細めた。
「今、誤差って言った」
「言ってない!」
「言ったよ」
リオまで笑いながら鞄を持ち上げた。ナツが三人を睨む。
「もう帰るよ!」
「はい」
ひよりも立ち上がった。スマートフォンを鞄へしまいながら、もう一度だけ聞く。
「ナツさん」
「何!」
「来年も十九歳?」
「永遠の19歳です!」
「身長は?」
「160あるから!」
アンがまた笑った。




