第34話 天野まひるを見た
「なんで来たの!」
ひよりの声が、ライブハウスの出口近くに響いた。修司は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに眉を寄せた。
「こっちの台詞だ。なんで黙ってた」
「言ったら絶対来ると思ったから!」
「来たら悪いのか」
「ほら!」
「何がだ」
「そういうところ!」
言い返したところで、横を通ろうとしていた客がこちらを見た。修司も気づいたらしく、口を閉じる。
「二人とも」
香織が間へ入った。
「ここでやるの?」
「俺は普通に聞いてるだけだ」
「声大きいから普通じゃないでしょ」
「ひよりの方が大きいだろ」
「お父さんが――」
「姉ちゃん」
横から悠真が呼んだ。
「何!」
「さっきの、右行ったり左行ったりするやつって――」
「今それ言わないで!」
悠真がとうとう吹き出した。
「やっぱ新しいダンスじゃなかったんだ」
「違うって言ってるでしょ!」
「前の人、めっちゃ真似してたじゃん」
「知らない!」
「結構ウケてたよ」
「だから何!」
また何人かがこちらを見る。香織が出口を指した。
「外出よ。人通るから」
ひよりは周囲を見回した。さっきまで客席にいたらしい人も残っている。そのうちの一人と目が合いそうになり、慌てて逸らした。
千鳥足を見られた。家族にも見られた。客にも見られた。今日はもう十分だった。
「……行く」
小さく答え、ひよりは先に出口へ向かった。
*
地上へ出ると、冷たい夜気が火照った頬へ触れた。二月も後半に入っていたが、夜はまだ寒い。コートを腕に掛けたまま出てきたせいで、首元から冷気が入ってくる。
扉が閉まると、ライブハウスの音も急に遠くなった。それでも低い音だけは、建物の奥からかすかに響いていた。
ひよりは壁際へ寄り、鞄の持ち手を両手で握った。修司が正面に立つ。
「いつからやってる」
「ちょっと前」
「ちょっとっていつだ」
「ちょっとはちょっと」
「分からん」
「じゃあ今度言う」
「今聞いてるんだ」
「今は言いたくない」
修司が黙った。香織と悠真も、今度は何も挟まない。
「……なんで黙ってた」
修司の声は、さっきより低かった。ひよりは足元を見た。
「言いたくなかったから」
「俺たちに?」
すぐには答えられなかった。
「言ったら、見に来るじゃん」
「来るかもしれないな」
「それが嫌だったの」
修司の眉が動いた。
「そんなに俺たちに見られたくなかったのか」
「そうじゃなくて!」
「今そう言っただろ」
「そうだけど、そういう意味じゃなくて……」
続きが出てこなかった。何が嫌だったのか。青い衣装を見られること。天野まひると呼ばれること。ステージの上に立っていること。自分の名前が書かれた飾りを見て、何も言えなくなったところ。客席いっぱいの青を見て、どうしていいか分からなくなったところ。全部、恥ずかしい。けれど、一番嫌だったのはたぶん、そこではなかった。
タンクトップの男が声を出せば、面白くなってこちらから返した。青い光を見つければ、もう一度そちらを見た。リオと目が合えば、そのまま笑った。知らない客が少しでも身体を動かせば、嬉しくなった。自分の名前を呼ぶ声が増えれば、次はどこから聞こえるのか探した。そんな自分を、家へ持ち帰ったことはなかった。
「今日見たけどな」
修司が言った。
「だから最悪なの!」
反射的に言い返した。修司も少し顔をしかめる。その横から悠真が口を挟んだ。
「でも姉ちゃん、まひるって呼ばれて普通に返事してたじゃん」
「……呼ばれるよ」
「客もめっちゃ呼んでた」
「聞こえてたから知ってる!」
「天野まひるーって」
「フルネームで言わなくていいから!」
悠真がまた笑う。修司は笑わなかった。
「あの名前、お前が決めたのか」
「違う」
「じゃあ誰だ」
「社長」
「社長?」
「事務所の社長」
修司の顔が変わった。
「事務所にも入ってるのか」
「入ってるよ」
「それも聞いてない」
「だから、何も言ってないってば」
修司が額へ手を当てた。
「一個聞くたびに知らない話が増えるな」
香織が苦笑する。
「私も知らなかったよ」
「俺も」
悠真も続いた。三人とも知らなかった。自分が何も言わなかったのだから、当たり前だ。それでも、質問が一つ増えるたびに問い詰められているような気がして、腹が立った。
修司はまだ何か言いたそうだったが、香織が先に口を開いた。
「みんな、まひるって呼んでたね」
ひよりは母を見た。
「そういう名前だから」
「お誕生日おめでとうって、あんなに言われて」
「……生誕祭だから」
「うん」
香織は少し間を置いた。
「あんなに笑ってるひより、久しぶりに見た」
「家でも笑ってるし」
「うん。笑ってるよ」
「じゃあ何」
「今日、客席見ながら、自分からずっと笑ってたでしょ」
返事が止まった。
「アイドルだから」
「そうなの?」
「そうだよ」
「じゃあ、あのタンクトップの人が大声出したときも?」
ひよりは鞄の持ち手を握り直した。
「見てたの?」
「見てたよ」
「最初から?」
「最初から」
修司が答えた。
「なんでそんな早く来るの!」
「ライブ見に来たんだから最初から見るだろ!」
「途中からでいいじゃん!」
「知らんわ!」
悠真が笑い出した。ひよりは弟を睨んだが、今度はそれ以上言えなかった。最初からいたのなら、あの青い客席のどこかに三人もいたのだ。家族を見つけて慌てたところだけではない。タンクトップの男に張り合っていた自分を、母はもう見た上で「あんなに笑ってる」と言っている。
ひよりは鞄を身体の前へ引き寄せた。青い衣装はもうしまったのに、こうして三人の前に立っていると、ステージからまだ降りられていないような気がした。
誰にも見られていないつもりでやっていたわけではない。何十人にも見られていた。むしろ、自分から見てほしくて客席へ手を伸ばしていた。それでも、家族に見られていたと思うと意味が違った。
「楽しいのか?」
修司が聞いた。ひよりは顔を上げた。
「何が」
「アイドル」
答えはすぐに浮かんだ。なのに、口から出るまで少しかかった。練習がきつい日もある。アンと本気でぶつかった。大阪まで行って、自分たちを見に来た客が三人しかいなかった。
それでも水曜になれば練習場へ行った。金曜にも集まった。週末には衣装を鞄へ入れた。今日は、自分のために青を持ってきた人がいた。家族を見つけるまでは、次にどの顔を見るかばかり考えていた。
「……うん」
修司は何も言わずに待った。ひよりは鞄から片手を離した。
「楽しい」
「そうか」
それだけだった。香織も何も言わない。悠真も、今度は笑わなかった。少しの間、ライブハウスから漏れる低い音だけが聞こえた。
先に目を逸らしたのはひよりだった。
「……何」
「何も言ってないだろ」
「なんか言いそうな顔してる」
「でも、黙ってたのは別だからな」
やっぱり言った。
「……分かってる」
「本当に分かってるのか」
「分かってるって」
「じゃあ次から――」
「何でも言うとは言ってないから」
「なんでだ!」
「そういうところ!」
香織が笑った。悠真もまた口元を緩める。
「姉ちゃん、次も行っていい?」
「来なくていい」
「なんで」
「恥ずかしいから」
「父さんも行く?」
「お前だけで勝手に行くなよ」
ひよりは修司を見た。
「お父さんも来る気じゃん!」
「悠真一人で来させるわけにはいかないだろ」
「じゃあ、お母さんと二人で来ればいいじゃん」
修司は香織を見たが、香織は答える代わりに笑っていた。悠真が「父さんも見たいだけだろ」と横から言い、ひよりは鞄で口元を隠した。
「ひより」
香織がコートを指さした。
「それ、着なさい。風邪ひくよ」
「……今?」
「寒いでしょ」
さっきまでアイドルの話をしていたのに、言い方はいつもと同じだった。ひよりは一瞬だけ黙り、それから腕に掛けていたコートへ袖を通した。
「帰ったらご飯いる?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ温めるね」
「俺もなんか食べる」
悠真が言った。
「さっき食べたでしょ」
「動いたから腹減った」
「何を動いたの」
「姉ちゃんの新しいダンス」
「やってない!」
悠真が笑いながら歩き出す。修司も、その後ろについていった。
「ほら、帰るぞ」
「言われなくても帰るし」
ひよりは鞄を肩へ掛け直した。前を歩く三人の背中は、家の玄関を出るときに何度も見てきたものと、ほとんど変わらなかった。少しだけ遅れて、その後を追った。
*
その夜、美緒はベッドへ寝転び、スマートフォンを眺めていた。料理の動画を流し、次に出てきた犬の動画で少し笑う。そのまま指を滑らせたところで、画面いっぱいに青い光が映った。ライブハウスの客席だった。何本もの青いペンライトが揺れている。画面の向こうから、大勢の声が重なった。
『まひる、おめでとう!』
美緒の指が止まった。ステージに青い衣装の女の子がいる。客席を見て、明らかに戸惑っていた。何か言おうとして口を開く。少し間が空き、結局うまく言葉にならなかったらしい。照れたように笑うと、客席からまた声が飛んだ。動画はそこで終わった。
「……誰かに似てる?」
小さく呟き、もう一度再生した。青い光と客の声。その中でステージの女の子が笑うたびに、何かが引っかかった。誰だっただろう。
思い出せないまま、美緒は投稿者の名前を押した。リトルフレア。並んでいる動画から、同じ青い子が映っているものを開く。今度はライブ映像だった。赤、黄、紫、青の四人が踊っている。
曲が始まると、さっき戸惑っていた女の子が大きく踏み出した。身体を返して腕を伸ばし、客席から声が飛ぶとすぐにそちらを向く。笑って、もう一度手を伸ばす。美緒がその手の先を見ると、客席からも何本もの腕が上がっていた。
美緒は少しだけ画面を近づけた。顔だけではなかった。笑い方なのか。調子に乗ったように、もう一回同じ客を見るところなのか。どこかで見たことがある気がする。
けれど、名前までは出てこない。学生の頃にいた誰かかもしれない。昔見た動画の誰かかもしれない。
考えている間にも、青い子は踊り続けていた。画面の中では、何度も名前を呼ばれている。呼ばれるたびに客席を探し、見つけると嬉しそうに笑った。さっきの生誕祭の動画より、こちらの方がずっと自然に見えた。美緒は最後まで再生した。
画面の下に名前が出ている。天野まひる。
「この子、いいな」
プロフィールへ戻る。少し迷ってから、フォローのボタンを押した。表示が「フォロー中」に変わった。すぐ下には、別のライブ動画が並んでいる。美緒は一つ選び、そのまま再生した。




