第33話 来てる
地下へ続く階段の途中で、ひよりは足を止めた。地上ではコートの前を閉じていたのに、一段下りるごとに空気が暖かくなり、ひよりは腕に掛けた上着を抱え直した。
いつも告知の紙が並んでいる壁に、今日は青い飾りが増えていた。紙で作った花。細いリボン。その真ん中には、自分の写真まで貼られている。
天野まひる初生誕祭。
写真の周りには、小さなカードが何枚も並んでいた。
――二十歳おめでとう!
――まひるのダンス大好き!
――これからもいっぱい見たい!
ひよりは三枚目まで読んで、階段の下を見た。扉へ向かう客が、青いペンライトを鞄へ入れている。その後ろを歩く人の手にも青があった。
「……今日、青多くない?」
「今日誰の生誕祭だと思ってんの」
後ろから来たアンが、ひよりの肩越しに壁を見た。
「私だけど」
「じゃあ分かるでしょ」
「分かってるけど」
「何が分かんないの」
「ほんとにこんな来るんだなって」
アンが少しだけ眉を上げた。
「来るでしょ。もう始まるよ」
それだけ言って、ひよりを追い越して階段を下りていく。ひよりはもう一度、自分の写真を見た。ライブ中の写真だった。客席へ腕を伸ばし、口を大きく開けて笑っている。その下に、
――笑ってるまひるが好き。
と書かれていた。ひよりは写真から目を外し、アンの後を追った。
*
「まひる、二十歳おめでとう」
楽屋へ入ってすぐ、ナツが言った。
「ありがとうございます」
「どう? 二十歳」
「別に」
「早いなあ」
「何がですか」
「もうちょっとないの? 大人になった感じとか」
「昨日と何も変わってないです」
「夢がないねえ」
ナツが笑いながら黄色いリボンを直す。鏡の前にいたリオが、こちらを振り返った。
「外、見た?」
「見た」
「……すごいね」
「うん」
リオは何か続けようとして、鏡へ目を戻した。ひよりも自分の青い衣装へ視線を落とす。
嬉しい。たぶん、かなり。でもまだ、壁にあった写真も、青い飾りも、自分の誕生日のために人が集まっていることも、少し他人の話みたいだった。
「今日は生誕祭だけど」
ナツが言った。
「ステージはいつも通り四人だからね」
「分かってます」
「主役だからって勝手に五分くらい踊り続けないでよ」
「やらないよ」
「まひるならやりかねない」
アンが言う。
「やらないって」
「客がやれって言ったら?」
ひよりは少し考えた。
「……そのときは」
「考えんな」
アンに即座に止められた。ナツが笑う。
「はい、行くよ」
*
赤、黄、紫、青。四色の光が客席で揺れた。一曲目は、いつもと同じだった。リオが前へ出れば、赤い光が大きく動く。ナツの歌が伸びると、黄色の女性が腕を上げた。アンが客席へマイクを向ければ、紫だけでなく前方のあちこちから声が返る。
ひよりもサビの最後で大きく腕を伸ばした。青が返った。一本。二本。さらに、その後ろにもある。普段より明らかに多かった。
ひよりは身体を返し、すぐ横を抜けるリオと位置を入れ替わった。目が合う。リオが笑う。ひよりも笑い返した。
ステージの上は暑かった。照明の熱もある。背中にはもう汗が流れている。それでも今日は身体がよく動いた。
「もっといけるー?」
アンがマイクを向けた。前方から声が返る。その中で、タンクトップの男の声が周りより一段大きかった。今日は片手に青を持っている。もう片方の手では、アンへ向かって大きく拳を上げていた。
ひよりは吹き出しそうになった。客席へ親指を立てる。男がさらに声を出した。負けるつもりはないらしい。
楽しい。
曲が始まる前は、今日だけいつもより少し落ち着かなかった。自分の名前が大きく出ている。青が多い。誕生日を祝うために人が来ている。けれど曲が始まると、結局いつもと同じように客席の顔が気になった。誰が笑ったか。誰が腕を上げたか。さっきまで動かなかった人が、今は少しだけ拍子を取っている。見つけるたび、もう一度そちらを見たくなる。
最後の音で四人の動きが揃った。拍手と歓声が上がる。
「ありがとー!」
ナツが手を振った。ひよりも客席へ両手を振る。一曲終わったところで、ナツが前へ出た。
「今日はね、いつもとちょっと違います!」
客席から声が飛ぶ。
「知ってるー!」
「知ってるよね」
ナツが笑った。
「本日の主役、前へどうぞ」
「え」
ひよりがナツを見る。
「前」
「ここでいいじゃん」
「主役」
「四人でやるって言ったじゃん」
「今だけ」
アンに背中を押され、ひよりは一歩だけ前へ出た。客席から声が上がる。その中に、自分の名前が混じっていた。ナツが続ける。
「今日で二十歳になりました。天野まひるー!」
歓声。青い光が何本も持ち上がった。ひよりは少し肩をすくめた。
「じゃあ、みんな。せーのでいくよ!」
嫌な予感がして三人を見る。
「何するの?」
「前見て」
「何?」
ナツが息を吸った。
「せーの!」
「まひるー! 二十歳おめでとうー!」
声が一度にぶつかってきた。ひよりは目を瞬いた。青い光が揺れている。前方には眼鏡の男がいる。最初の日から青を持っていた人だった。
タンクトップの男も声を張り上げている。少し離れた場所には鉢巻きの男がいた。何度も見た顔。最近見かけるようになった顔。今日初めて見る顔。知らない女性が、青い光を胸の前で振っていた。
入口の壁にあった写真が浮かぶ。あれを書いたのは誰だろう。写真を貼ったのは。青い飾りを作ったのは。
「……なんでこんな青いの?」
思わず言った。客席から笑いが起きた。
「生誕祭だからー!」
誰かが返す。
「それは分かってるけど」
ひよりも笑った。笑ったあと、言葉がなくなった。マイクを握ったまま客席を見る。
誰も急かさない。ナツも、アンも、リオも何も言わなかった。
「……ありがとうございます」
ようやく声が出た。一度、頭を下げる。顔を上げた。
まだ青がある。
「……ほんとに。ありがとうございます」
拍手が返ってきた。ひよりはもう一度頭を下げた。今度は、さっきより少し長く。
*
次の曲が始まった。さっき上がった青が、まだ気になっていた。眼鏡の男の後ろにもいた。知らない顔もあった。誰が来ているのか、もう少し見たかった。
サビの最後で前方へ手を伸ばすと、青が返った。ひよりは中央へ、その後ろへと目を移した。さらに奥で腕を組んでいる人の隣に、背の低い男の子が立っている。
一度はその顔を通り過ぎ、ひよりは次の位置へ移動した。
「じゃあ次、いくよ!」
リオの声に合わせて片腕を上げたところで、さっきの男の子が頭に引っかかった。見たことがある。そう思った次の瞬間、ひよりは気づいた。毎日見ている顔だった。
イントロが流れる。ひよりは右へ身体を向け、足を出し、肩を返して腕を振りながら、もう一度だけ後方へ視線を送った。
悠真がいた。
目が合った。弟は口を横へ広げ、笑うのを我慢しているような顔をしていた。
ひよりの右手は予定通り上がり、次の拍子で胸元へ戻る。その間に視線だけが隣へ滑った。悠真の横には母がいた。香織はステージを見上げている。
さらに隣。父までいた。修司もこちらを見ていた。
ひよりの口から声が出かけた。歌うところではなかったので、息だけが漏れる。
なんで来てるの。
次の位置へ移る音が来た。身体はもう覚えている。腕を振って回り、リオの後ろを通ってアンと位置を入れ替えた。
父も母も弟も、後方の同じ場所にまだ並んでいる。三人揃っている。どうして。
頭の中はそれだけなのに、足は決められた場所へ着いた。横からナツがこちらを見る。ひよりは反射的に笑った。たぶん笑えていない。ナツの眉が少し動いた。
それでも曲は進む。何度も踊ってきた振付だった。家族がいようがいまいが、音も順番も変わらない。考えなくても身体は次の動きを拾ってくれる。今はそれがありがたいのか、ありがたくないのか分からなかった。
腕を伸ばした先に三人が入る。横を向いても、視界の端にいる。ほんの少し前まで、もっと客席を見たかった。今は見たくなかった。
普段なら後ろの客まで見ようと顔を上げるところで、無理やりリオの背中へ目を向けた。客席を見なければいい。そう思った瞬間、いつも自分から客席を探していることに気づいた。
どこを見ればいいの。
リオを見た。アンを見た。ナツを見た。また客席へ戻りそうになった目を、今度は照明へ逃がした。
眩しかった。
*
「最後、いくよー!」
ナツの声が響いた。
「『フライング・ハート』!」
歓声が上がる。ひよりは一瞬だけ目を閉じた。よりによって、初めてステージへ立った日の曲だった。
最初の音が流れる。四人で背中を合わせた。あの日はリオとナツと三人だった。今は反対側にアンがいる。
曲が始まれば、さっきと同じだった。決められた振付なら身体は動く。右へ二歩出て腕を伸ばし、ターンからアンの前を抜ける。ナツの歌に合わせて位置を空け、戻ってきたリオと同じ拍子で踏み込んだ。
そこまではよかった。
問題は間奏だった。一人ずつ前へ出て、客席へ好きに返せるところ。
最初はリオ。大きく踏み込み、赤い光を煽る。次はナツ。黄色い光へ笑いかけ、大きく手を振った。アンは紫のペンライトを持つ客へ顔を寄せるようにして笑う。
最後が、ひよりだった。いつもなら一番好きなところだ。客席を見て、その日の客に合わせて好きに動ける。今日は行きたくなかった。
戻ってきたアンが、すれ違いざまにひよりの背中を軽く叩く。行け、という合図だった。ひよりは仕方なく前へ出た。
「まひるー!」
眼鏡の男が青を上げる。ひよりはそちらへ手を伸ばした。前の方だけ見ていればいい。そのつもりでステージの左側へ寄りかけたのに、顔を上げた瞬間、後方にいる父と目が合った。
反射的に逆へ切り返す。今度は香織が、修司の隣から小さく手を振った。
やめて。
今、手振らないで。
ひよりは正面へ戻ろうとした。そこで悠真が見えた。弟はもう笑いを隠していなかった。三人はずっと同じ場所に並んでいるだけなのに、どちらへ逃げても誰かの顔が視界に入った。ひよりは右へ逃げ、すぐ左へ切り返した。半歩前へ出たところでまた三人が見え、今度は斜め後ろへ下がる。
客席から笑い声が上がった。
違う。
笑わせようとしてない。
次の音に合わせ、ひよりは身体を切り返した。動きは完全に予定外だったが、音だけは外れていない。足を出すたびに拍子を拾い、止まるところではぴたりと止まる。身体の向きを変えるたび、スカートの青が少し遅れてついてきた。自分でも、酔っ払いの千鳥足みたいだと思った。
前列でタンクトップの男が、ひよりと同じ方向へ身体を傾けた。ひよりは目を見開いた。次に逆へ切り返すと、男も真似する。その隣の客が笑いながら続いた。眼鏡の男まで、青いペンライトを持ったまま同じように身体を傾ける。
やめて。
ひよりがもう一度逆へ動くと、今度は前方の数人までついてきた。
違う!
声には出せない。代わりに、違うと伝えるつもりで両手を振った。客席から何本もの手が振り返される。
さらに違う。
客席の一角が楽しそうに揺れていた。タンクトップの男は、どう見ても新しい振付だと思っている。アンが自分の位置へ戻りながら客席を見て、次にひよりを見た。目が合う。
何してんの?
顔にそう書いてあった。ひよりにも分からない。
ナツは後ろで拍子を取りながら、口元をわずかに震わせている。
絶対笑ってる。
リオだけは次の振付へ集中していて、まだ何も分かっていないようだった。
最後のサビが来た。自由に動ける時間が終わり、ひよりは決められた位置へ戻る。四人が揃った。腕を伸ばす。客席からも腕が上がる。歌が重なり、最後の音で四人同時に顔を上げると、大きな歓声が返ってきた。
成功した。普通に盛り上がってしまった。ひよりは笑顔のまま頭を下げた。
顔が熱かった。照明のせいではなかった。
*
袖へ入った瞬間、アンが寄ってきた。
「今日何?」
「来てる」
「何が?」
ひよりは客席の方を見ないまま答えた。
「家族」
アンが止まった。ナツも足を止める。額をタオルで押さえていたリオが、二人の顔を見た。
「え?」
「家族。いる」
ひよりが目だけ客席の方へ動かすと、リオもそちらを見ようとした。
「どこ?」
「見ないで!」
リオが止まる。
「なんで?」
「なんでも!」
今度はアンがカーテンの隙間から覗こうとした。
「アンも!」
「もう見られてんじゃん」
「そういう問題じゃない!」
ナツが口元を押さえた。ひよりはそちらを見る。
「笑ってます?」
「ステージの上で、あれはずるいよ」
「こっちはそれどころじゃなかったんですけど!」
「分かってる。真顔で右行ったり左行ったりしてたから、余計に」
「あれは忘れてください」
アンが言った。
「客、真似してたけど」
「それも忘れて!」
「結構ウケてたよ」
「アン!」
リオがようやく話についてきたらしく、客席とひよりを交互に見た。
「それで急におかしくなったの?」
「おかしくなってない」
三人が黙った。ひよりも少し考えた。
「……ちょっとだけです」
「めちゃくちゃ顔赤かったけど」
「暑かったから」
「いつも暑いじゃん」
「今日は特に暑かったの」
「ふーん」
「何」
「別に」
アンの口元が上がった。
ひよりは近くに置かれていたペットボトルを取り、水を飲んだ。冷たいはずなのに、顔の熱は全然引かなかった。
家族に見られた。いったいいつからいたのだろう。生誕祭の青を前に言葉を失ったところも、客席相手に夢中になっていたところも、見られていたのかもしれない。考えれば考えるほど帰りたくなった。
「まひる、水飲んだら物販!」
レイの声が飛んできた。ひよりはボトルを持ったまま振り向く。
「……今日、なしになりません?」
「ならない」
「体調が」
「さっきまで踊ってたでしょ」
「急に悪くなることもあります」
「顔真っ赤なだけじゃない」
レイが近づいてくる。その後ろでアンがまた笑った。
「アン、あとで覚えといて」
「何を?」
「なんかします」
「雑な脅しやめて」
*
結局、物販にも出た。
「二十歳おめでとう」
最初の客に言われる。
「ありがとうございます」
「今日来てよかった」
ひよりは少しだけ目を逸らし、チェキへ名前を書いた。
「……ありがとうございます」
次の客が来た。
「さっきの新しいやつ何?」
「忘れてください」
ひよりは即答した。
「またやってよ」
「やりません」
「えー」
「絶対やりません」
眼鏡の男まで、
「結構好きでした」
と言った。
「忘れてください」
今日だけで何回言ったか分からない。家族が物販へ来なかったことだけが救いだった。たぶん、どこかで待っている。そう考えると早く終わってほしいような、終わったら困るような気持ちになった。
最後の客を見送り、片づけが始まる。ひよりは真っ先に楽屋へ戻ると、急いで着替え、荷物を鞄へ押し込んだ。ファスナーを閉めて持ち上げたところで、後ろからアンの声がした。
「もう帰るの?」
「着替えたし、荷物も入れた」
「こういうときだけ早いよね」
「遅いと怒るくせに」
「家族は?」
「知らない」
「知ってるでしょ。さっきまで見えてたじゃん」
ひよりは鞄を持ち直した。
「今日は、たまたま見えなかったことにする」
「無理あるって」
「帰ったら家で会うし」
「なおさら無理じゃん」
正しかった。正しいので腹が立つ。言い返す言葉を探していると、楽屋の入口からレイが顔を出した。
「まひる」
「はい」
「ご家族、待ってるわよ」
ひよりの手が止まった。
「……誰が言いました?」
「受付で『天野まひるの家族です』って言ったみたい」
最悪だった。芸名まで知っている。
「帰ったって言ってください」
「本人ここにいるじゃない」
「今から帰ります」
「待ちなさい」
鞄を持って行こうとしたひよりを、レイが腕で遮った。
「向こうも話したいって」
「私は今じゃなくていいです」
「家帰ったら会うんでしょ?」
「……会いますけど」
「じゃあ今でも一緒じゃない」
「全然違います」
「何が違うのよ」
「心の準備が」
「ライブ中にたっぷりできたでしょうが」
「できてません!」
アンが吹き出した。
「アン!」
「ごめんって」
さっきまで笑っていたナツも、今度は少しだけ声を落とした。
「行ってきたら?」
ひよりはそちらを見る。リオも頷いた。逃げ道がなくなった。ひよりは鞄を抱え直し、レイの後について楽屋を出た。廊下を歩くうち、ライブハウスの音が少し遠くなる。
出口の近くに、三人はいた。母と、悠真と、父。ステージから見たときより、ずっと近い。悠真がひよりの顔を見て、また少し笑った。ひよりが睨むと、弟は口元を押さえた。
修司が一歩前へ出る。
「……話あるんだけど」
ひよりもすぐに返した。
「私もある」
「何だ」
「なんで来たの!」




